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何も持たずにイエを出よ!

 

神田駿河台1-1

大学院に入って約半年が経過した。はじめは授業が講義形式メインからゼミ形式メインへと変化するなどの慣れない部分があったり、とにかく時間をかけないといけない作業に忙殺されたりと戸惑っていたが、ひとつ目の授業期間と夏休みを終え、自分が大学院生であるという自覚が生まれたりそれに適応した生活習慣が少しは身についたような気がする。

進学したての5月に、専攻の先輩の主催で教授たちを交えて新入生歓迎の会が開かれた。会の後半、その場にいた教授の全員から僕を含めた新入生たちに向けて、当時を思い出して大学院に入った1年目がいかに重要であったかであったり、これから研究者を目指すにあたってどのような心構えや具体的な成果が必要かなどの言葉をいただいた。そこで2名の教授が「入院おめでとうございます」という言葉を挨拶のはじめの掴みとして使っていた。聞くところによると、これは結婚式で使われる「結婚には大事な3つの袋がありまして……」のような凡庸な常套句として使われている言葉遊びのようなのだが、結婚式のスピーチ同様、凡庸であるからこそ優秀な比喩としても解釈できると、この「入院」を掴みに使った教授のうちの一人が話を続けた。曰く、大学院も病院で入院した時と同様にきちんとした手順で退院することが大事であると。つまりは大学院では大学に比べてゼミ形式が多い分、授業が厳しくなったり負担や責任が重くなる。また、修了するために提出しなければならない、学位論文というハードルのために途中で大学院を去ってしまうという人が少なからずいるというのだ。なるほど、たしかに様々な授業に出てみると、在籍はしているらしいもののもう何年も誰も見かけていないという謎の先輩がいたり、あのゼミでは授業中に教授の質疑にうまく応答できずに嫌になって辞めてしまった人がいるという都市伝説を聞いたりもした。

しかし、本来使われている意味での「入院」と僕が現在「入院」している大学院との間には、決定的な違いがある。それは、患者にはひとりひとりに決められた場=ベッドがあるのに対して、僕の通っている大学院では博士課程前期に在籍している学生には決められた机が支給されていないのだ。もちろんこれは大学によって差があるだろう。事実、僕の大学でも違うキャンパスに設置されている研究科に所属している大学院生には全員に机があると聞く。だがしかし、ここで僕は大学やキャンパス間に存在している大学院生の待遇についての不公平を愚痴りたいわけではない。ここで問題なのはむしろ、個人に対して机が支給されるかどうかというようなことは、ほとんど運によって決まってしまうし、一度その場に収まってしまえば状況を変えることは難しいということである。

大学院に進学するということを考えるにあたって、その進学先が学生に対して個人の机を支給しているかどうかという基準で選ぶということは全くないといっても過言ではないだろう。多くの大学生は、自分のいる大学に設置されている大学院であったり、自分の研究したい分野の専門家がいる大学院に進学する。つまり、進学前にある程度調べることは可能だったにしても、ほとんどの学生は進学した先に自分の机があるかどうかということを事後的に知ることになる。

大学院に自分の机がなければそこで勉強するという必然性がなくなる。そうなれば大学から離れたところに住んでいる人は、自分の家から重たい本を何冊も持って大学に行くよりも、授業がなければ近所にある図書館や喫茶店で、本を読んだり発表資料を作ったりすることになるだろう。そうなればその人たちにとっての大学院の役割は図書館や喫茶店で練られた論考を発表する場ということになる。大学院がそのような場である以上、彼/彼女らがそのさらに外側に対して自分の論考を発表するという必然性を感じるのは難しいだろう。大学などの研究機関は昨今、内側に閉じているという批判を受け続けているが、そのような結果を招いてしまった背景には、逆に学生を放任しすぎてしまっていたということがあるのではないだろうか。今大学に必要なのは、学生を内側に閉じ込めて勉強をさせること、そしてその反動によって外側に発信したいという欲求を作ることではないだろうか。基本的には文献を読むということが研究の大部分を占める文系の研究者にとっても、いつでも集まれるコミュニティを内側に作っておくというのはとても重要なことであるといえる。

ただ、そのようなことを既に実践できている研究機関も当然あるだろう。ただやはり、先ほども述べた通りどのようなコミュニティ運営がされているかという基準で進学先や所属先を決める人はほとんどいない。選んだ先がきちんとしたコミュニティを作っていれば問題ないが、そうでなかった場合、現在のシステムではコミュニティを別の場所に求めるというのは難しい。

 

「家族」と「会社」に空いたひび

このような問題は、なにもアカデミズムの場に限ったことではない。

厚生労働省が発表している、『厚生統計要覧(平成28年度)』の「世帯数・構成割合 世帯構造×年次別」(2017/09/22閲覧)を見てみると、平成27年度の総世帯数5,036.1万世帯に対して単独世帯数は1,351.7万世帯にもなっており、その割合は約26.8%にものぼる。また、人口比にしても約1,300万人というは実に国民の10人に1人を超えており、10%以上もの人が家族という場を内側に持っていない状況といえる。

さらに、別の例も提示しよう。同じく厚生労働省が発表している『新規学卒者の離職状況』の「新規学卒就職者の在職期間別離職率の推移」(2017/09/22閲覧)を見てみると、平成26年3月卒業の新入社員が就職後3年以内に最初に勤めた会社を離職する割合は、大卒で32.2%であり、中卒にいたっては67.7%にものぼる。よくいわれる話ではあるが、大学を卒業した若者の3人に1人が3年以内に会社を辞める。しかしこれは大卒者に限ったことであり、中卒者が3年以内に会社を辞める割合は3人に2人にもなる。

このような流動的な労働環境の中では、人々が会社の中に安定したコミュニティ=自分の場を求めるということは難しいだろう。さらには当然、長年同じ会社に勤めていながら、コミュニティづくりに消極的な会社に勤めていたり、会社内に自分の場がなく出勤しても社内の人とほとんどコミュニケーションを取らずに退社するという日々を繰り返しているという人を含めると、もはや日本が高度経済成長期に持っていた会社=疑似家族という感覚をすべての人に再興させるというのはほとんど不可能に近い。

もちろんここでも僕は、すべての人にとって今や家族や会社ですら「場」として全く機能していないということを主張したいのではない。80%以上の人は今でも誰かと同居しているし、大企業をはじめとして終身雇用を前提としてコミュニティづくりにも精を出している企業も数多く存在するだろう。もちろんこの「家族」と「会社」という現代日本で考えられている基本的な共同体のどちらにも属していなければならないということはない。たとえ、いずれかに強くコミットできており、いずれかとは距離を置いているという場合であっても、その人は自分を内側に閉じ込める場を持っているということであり、外側に対しても開かれた社交性を持つことができるだろう。そして、ほとんどの人はこのように共同体を既に調達できているといえる。しかし、何度も述べているとおり、問題なのはどちらの共同体にも属することのできない人というのも一定数確実に存在しており、現在の社会構造ではそのような人たちの数というのも国家や自治体が個別に対応することができるほどの少数ではなくなってしまっているということである。

家族社会学でも(というか家族社会学こそ)このような問題は散々議論されている。山田昌弘『家族難民』(2016年、朝日文庫)によると、それ以前には地域の共同体や宗教が「成人のパーソナリティの安定機能」*を担ってきたのだが、近代以降そのような機能を家族が提供するようになったと指摘している。そしてその上で、現代では家族の機能を享受することのできない「家族難民」が増加しているというのだ。

 

*この言葉自体は永田夏来『生涯未婚時代』による。

 

新しい共同体のために

ではこの、一般的なふたつの共同体のどちらにも属することができていない人たちにどのような処方箋を与えるべきだろうか。考えられる方法は3つある。

1つ目は、上で述べた「家族」や「会社」という既に社会が安定的に供給している共同体に入るために努力をする。より具体的にいえば、結婚や就職という「道具」をコミュニティ運営のためと割り切って使うということ。本文の冒頭でいえば、個人に机が支給されているかどうかという基準のみによって、進学する大学院をきめるということである。

しかし家族や会社は結束力があまりにも強く、結束の期間は一生、もしくは法事などを考えればそれ以上になる。そのような共同体に入るかどうかは、やはり総合的な判断でされるべきであり、コミュニティ運営という単独の理由で選ばれるべきではない。また、そのようなある種機械的に家族や会社に人を割り振ったとしても、あぶれてしまう人というのはどうしても存在してしまう。

また、永田が指摘していることだが、山田は「家族難民」にならないための処方箋として婚活などをあげており、家族を持つことの重要性を主張している。しかし、『平成27年度版 少子化対策白書』の「婚姻・出産等の状況」(2017/09/30閲覧)を見てみると、生涯未婚率が上昇しているのとともに、平均初婚年齢も1980年には、夫が27.8歳、妻が25.2歳だったのに対して、2013年では、夫が30.9歳、妻が29.3歳と上昇している。そのため、いずれは結婚するつもりという人も、自立が求められる年齢になってから結婚するまでの期間というのは長くなってくる。そうなったときに、親から自立し結婚するまでの間の緩衝地帯のようにして違った場が求められるのではないだろうか。

2つ目は、共同体というものに頼らずに、普段は別々の個人として暮らし、イベントなどの特別な日にだけ誰かと集まるというものである。しかしこれも、のちに述べるが普段を個人として生活するというライフスタイルでは、人に会うということがそもそも目的になってしまい、さらにその外側へ向かおうという動きになりにくい。

そして3つ目は、「家族」や「社会」にとは違った新しい共同体の形を提案し、それを実践してもらうということである。当たり前であるが、僕はここにこそ可能性を感じている。

では、その新しい共同体とはどのようなものなのか。僕がここで提案したいのは「部室」である。僕は部室という空間を再解釈すれば家族や会社の外部にあるさまざまな場所が新しい共同体として生まれ変わることができるのではないかと思っている。

しかし勘違いしないでほしい。部室のような共同体を作るという提案は、家族や会社にうまく属することができていない人たちも体育会系の連帯によって無理矢理どこかの共同体に滑り込ませてしまおうということを言いたいのではない。僕自身もそうであるが、そもそも現在一般的に考えられている家族や会社という共同体にうまく属することができていない人たちは、体育会系のノリを嫌っていった結果、今のような状態にあるという人が多いだろう。そのような人たちを運動部の部室に押し込めて「これにて問題解決!」とすることはあまりにも無責任といえる。僕が今ここであげた部室とは、全国大会に何度も出場しているような運動部の部室ことを指しているのではない。むしろその正反対ともいえるような文化部の、しかもたとえ大会があったとしても、そこを目指して多少の努力はするものの優勝できるとは自分たちでもとうてい思ってもいないようなゆるい部活動における部室である。

 

部室の条件

家族や会社の隙間を埋める新しい共同体として僕は部室というものを提案した。それも運動部の部室のようなものではなく、文化部のゆるい部室をである。では、そのような部室とは具体的にどのような空間なのだろうか。僕がここで例に出したいのは『涼宮ハルヒの憂鬱』に描かれる部室である。

その前に作品の概要を説明しよう。『涼宮ハルヒの憂鬱』は谷川流作、イラストいとうのいぢで2003年に角川スニーカー文庫より刊行されたライトノベルであり、2006年と2009年にそれぞれアニメ化された。(ライトノベル版の『涼宮ハルヒの憂鬱』はシリーズ全体を指すと同時にシリーズ第1作のタイトルでもあるが、ここでは第1作をとりたてて論じるということはないので、『涼宮ハルヒの憂鬱』という単語はシリーズ全体を意味する)。他にも映画化を含め、さまざまなメディアミックスがおこなわれたが、議論を先に進めるためにここでは割愛する。

タイトルにもなっているヒロインの「涼宮ハルヒ」は宇宙人や未来人、異世界人に超能力者といった、普通ではない人たちに出会うことを望んでいる。そのためにクラスメイトであり、作品内の語り手である「キョン」をはじめ、さまざまな人物を巻き込んで「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」を目的とした部活「SOS団」を発足させる。しかし、SOS団の部室として使用している教室を元々使用していた文芸部の部員で、教室を占拠されたと同時に入部することとなった「長門有希」は宇宙人に近い存在。ハルヒやキョンたちの1学年上でハルヒに無理矢理入部させられた「朝比奈みくる」は未来人。1年の5月に転校してきたために謎の転校生として勧誘され入部した「古泉一樹」は超能力者と、ハルヒの望んだとおりの人物たちが集まっているのだが、実はその理由とはハルヒがそう望んだから実現したというのだ。というのも、ハルヒには望んだことをその通りに実現させることができるという能力があり、ハルヒが世界に対して退屈や絶望を感じてしまえばこの世界が滅亡してしまうという可能性があり、それを食い止めるために上記の人物たちがさまざまなところから派遣されてきている。そしてそのことをハルヒは自覚しておらず、悟られないために全員が本来の身分を隠して接触、監視している。

そして彼女らが集まる場所であるSOS団の部室とはどのような空間なのか。これから説明していきたい。

まず特徴としていえるのは、彼女らには共通の理念のようなものはあるものの、その理念が思い出される時間はむしろ稀であり、普段はそれとは全く関係のない、それどころか暇つぶしとしか言いようのないことに大半の時間が割かれているということである。すでに説明したように、SOS団の目的とは宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことであり、部の名前も「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」の略ということになっている。しかし、ハルヒたちはその目的を達成させるために校門前でビラ配りをしたりといったことが行われたことを多少はするものの、部室にいるほとんどの時間がボードゲームや読書、パソコンの使用などに割かれている。また、時には草野球大会に参加したり、七夕の日に短冊に願い事を書いてみたりだったり、合宿と称して孤島で推理小説ごっこをしてみたり、文化祭で上映する映画を撮影したり、バンドとして舞台にあがったりといった自らが掲げた理念とは離れた、単なる思い出作りとれるようなことに情熱を傾けることも多い。このようになにかの理念のもとに(時には無理矢理であれ)集まるものの、SOS団の主な活動はその理念とは異なったものなのである。

また、その共通の理念というもの自体も皆が第一の目的としているというわけではない。これまたすでに説明したことであるが、長門、朝比奈、古泉の3人がSOS団にいる最大の目的はハルヒを監視することである。そして、退屈させてしまうと世界を滅亡させるという行動に出かねないハルヒを退屈させないために日々部室に集まる。その点で3人は、SOS団に対してハルヒとは全く違うモチベーションを持っているといえる。だが、これは現実の部活動についてもいえるのではないだろうか。もちろん部長になるような人物であれば、バスケ部ならバスケ、吹奏楽部なら吹奏楽といったその部活自体が持っている目的と同じ目的を持って入部することだろう。しかし、学校によっては部活動の参加が強制させられているところもあり、そのようなところではすでに存在している部活動の中から、消去法で一番マシと思えるところに入部するといった人もいるだろう。また、そのようなケースでなくとも、仲のいい友達が入ることにしたからであったり、ただなんとなくといった理由で部活動を決める人も少なくないだろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』では、事情が事情であるために各々の最大の目標を表明するといったことはできないが、そのような事情のない現実の牧歌的な部活であれば、部活の理念に完全に賛成しているわけではないと公言しても、その部活で居場所がなくなるといったケースは少数だろう(もっとも、大会で勝ち抜くことを目的としている部活ではそのようなことは口が裂けても言えないという場合もある。しかし、本文での部活/部室の概念はそれとは正反対のものであり、そのような場には僕はむしろ批判的である)。部活というのは、理念や目的などの本質と捉えられている部分はむしろ部員が集まるための口実であり、非本質に見える遊びや暇つぶしこそが本質なのである。

そう。僕が部室の概念を説明するにあたって『涼宮ハルヒの憂鬱』を使い、その後に登場する『けいおん!』などの「日常系」アニメで部室が主な舞台となっている作品を使わなかった理由はここにある。そのような作品では総称されている名前のとおり、物語の筋がどうしても日常にフォーカスしたものになってしまう。そうなると部室が主な舞台である作品の主題はどうしても部活動の本来の目的に向けられてしまう。もちろん日常系アニメでも遊びや暇つぶしに多くの時間が割かれているのだが、やはり最終的には部活動の目的を優先させてしまうだろう。もちろんそれは部活動本来の目的であり立派なことであるといえるのだろうが、はたして高校を出た人たちがもう一度部室的な空間を立ち上げようとしたときに、そのような方法は得策であるとは思えない。なぜなら、大学生や社会人になればその人たちは、まわりと別々の時間にそれぞれの業務を始め、帰る時間もばらばらという生活を送る。そうなったとき、そのコミュニティーが掲げた理念を最優先させてしまえばその理念に合った内容でしか人は会わなくなるだろう。そうなってしまえば、その理念というのはコミュニティーが集まるための口実になってしまう。部室の特徴とは放課後、好きなときにいけば誰かがいるだろう、またたとえいなかったとしても待っていれば誰か来るだろうという期待があることである。逆にいえば、今部室に行かなければ人に会えないという不安がない。

話を『涼宮ハルヒの憂鬱』に戻そう。『涼宮ハルヒの憂鬱』ではキョンや他の団員たちがハルヒに呼び出されて部室で待っていたにもかかわらず、結局当の本人であるハルヒが部室に現れなかったというエピソードがいくつかある。これはもちろんハルヒの身勝手さを表現するためのものではあるが、その一方でもしSOS団に部室がなく、月に1回市民館などのスペースを借りて集会が行われるというような運営方法であれば、ハルヒのこのような行いは起こり得ないのではないだろうか。

 

部室的空間への読み替え

ここまで『涼宮ハルヒの憂鬱』を例にあげて部室の概念を説明した。部室とは、共通の理念によって集まっているものの、その理念が思い出されるのは稀であり普段は遊びや暇つぶしで成り立っている空間である。また、その理念の達成ということ自体も全員の最大の目標である必要はなく「反対ではない」くらいの合意が取れていれば受け入れることができるという、参入障壁はあるがそこまで高くないということ。そして、その場に行けば誰かがいる、もしくはそこに行ってしばらく待っていれば誰かが来るという期待の持てる場であるということである。

しかし、これらはあくまでも高校生が実際に行う部活動における部室の説明である。これを大学や社会に出た人たちに当てはめるには部室的空間に読み替るということを行わなければならない。では、舞台を高校としながらその読み替えを行なっている作品をもうひとつ例に出そう。その作品は、松浦理英子の小説『最愛の子ども』である。

『最愛の子ども』は文學界2017年2月号に掲載され、同年4月に単行本として文藝春秋社より出版された。作品内で、「松原日夏」と「今里真汐」はクラスメイトの中で「妻」「夫」とそれぞれ呼ばれている。彼女たちは舞台となる私立玉藻学園の中等部三年に起きたちょっとしたきっかけによって、そのころから深い絆で結ばれており、そのためにそのような呼ばれ方をされているのだ。そして、高等部になってから入ってきた「薬井空穂」がそこに加わり、彼女は「王子様」と呼ばれるようになった。

この作品では、登場人物の多くが部活動に所属しておらず、所属している場合でも、彼女たちが部活動に精を出す場面が描かれることはない。部活動が、教室を中心とした学校での退屈な日常を読み替えるものであるとすれば、彼女たちはその教室の意味自体を読み替えている。彼女たちにとって教室とは、大人たちに無理矢理押し込められた空間で、好きと嫌いとに関わらず勉強させられる場ではない。彼女たちの最大の目的は、日夏、真汐、空穂の「三人をわたしたち自身の家族と考えるのではなく、みんなで鑑賞し愛でるアイドル的な一家という意味での〈わたしたちのファミリー〉」としてそれを見守ることである。もちろん彼女たちの中にも、日夏に対して好意を抱き、自分も真汐や空穂と同じように接して欲しいと願う者や、別のクラスの美少女に夢中な者などはいる。しかし、そのような者たちの中にも〈わたしたちのファミリー〉を見守ることを拒絶するような者はおらず、教室も彼女たちを「わたしたち」の一員として受け入れている。『最愛の子ども』では、日夏、真汐、空穂の3人以外のクラスメイトたちの視点から語られる部分で一人称複数である「わたしたち」が人称に使われている。それによって教室という場がひとつの理念のもとに共同体が営まれているということが強調されている。

また、『最愛の子ども』ではもうひとつの場が部室として読み替えられている。それは、空穂の唯一の同居人である母親の「伊都子さん」が夜勤で家にいない時の空穂の家である。伊都子は女手ひとつで空穂を育てており、看護婦をしているために宿直の勤務を時々しなければならない。そのため夜中に家を空けることがある。そのような日になると「日夏と真汐は泊まり支度を整えて空穂の家に集まる」のだ。当初彼女らは伊都子から充分な躾を受けていなかった空穂を改めて躾けるということをしていた。「玄関で脱いだ靴はきちんとそろえて置き直」すようにさせ、「制服のジャケットは脱いだらすぐにハンガーにかけ」させ、「シンクにある食器は全部洗っておく」ようにさせた。しかし、やはり彼女らも次第にそのような意識は薄れていき、空穂が作ったおかしな創作料理に「夕食の時から笑いが炸裂」したりしている。

高校生というのは普通、家族と同居しており家に帰れば誰かがいる、または待っていれば誰かが帰ってくるものである。しかし、空穂は大学生や社会人で一人暮らしをしているような人たちと同様に家に帰っても誰もいないというときがある。そうなった場合、学校の空間を部室に読み替えたところで、学校の閉門時間になってしまえば外に出されてしまう。しかし、家族という場がない人にとっては部室的空間を24時間確保する必要がある。これは、すでに述べた大学生や社会人は始業や帰宅の時間がばらばらになってしまうということと重なる。彼らが拠り所にする部室的な空間が特定の時間に始まり特定の時間に終わってしまえば、深夜まで仕事をしている人や土日も出勤しなければいけない人などの一般的ではない勤務体系の人たちが包摂されない可能性がある。そのような人たちに対しても開かれた空間を提供するためには、部室的空間は曜日を問わず24時間開かれている必要があるのだ。しかもそれは、部室的空間が使用できない時間をネットによって補完するといったことではなく、文字通り空間が24時間開かれている必要がある。

現在のインターネットの普及やネット環境の整備、またSNSの発達によって僕たちは24時間インターネットを介して誰かと繋がることが可能である。しかし考えてみてほしい。たとえばあなたがTwitterで深夜に友人が「ヒマだから今から誰か遊ぼー」というようなつぶやきをしているのを見たとする。しかし東京は意外と広い。しかも、首都圏と呼ばれる東京への通勤、通学が可能な圏内にまで人々がばらばらに住んでいるということを考えると、同じ最寄りであったり徒歩圏内に住んでいる知り合いというのは意外に少ない、というかほとんどいないだろう。しかも、深夜になれば電車や地下鉄をはじめ、あらゆる交通機関は動いていない。そのような状況を考えたときに、このようなつぶやきが投稿されたところで実際に会うことができる可能性はゼロに近いだろう。ネットというのはそれまで表面化してこなかった、会えたかもしれない可能性を可視化させることはできるものの、その可能性を実現させることはできないのだ。そのため部室的空間はネットにではなく、リアルな場所に存在させる必要がある。今本当に必要なものはネットの常時接続ではなく、常時接続することができるリアルな場を作ることだ。いつでもそこにいけば同じような考えを持った誰かに会えるという場があれば、人はその外側にある生活も安心して暮らすことができるのではないだろうか。

そして、部室的空間において最後の重要な要素も『最愛の子ども』に描かれている。それは、同じ部室にいた人たちとはいつか離れる日が来るということだ。

本来の意味での部室とは、その部活を引退することになればあまり行くことはなくなるものである。それに、気に入らなければ別の部活動に入り別の部室を求めたり、部活なんて辞めてしまってアルバイトなどをやったっていい。しかし、卒業してから何年か経って部室に行ってみればなんとなくなつかしい気がするし、もはや知ってる人がだれもいないような部員たちもかわいいような気がする。そしてその部員たちも自分のことを全く知らないのにもかかわらず、先輩ということで尊敬してくれる。部室とは、たとえ自分が部室を離れることになったとしても、なんとなく心の片隅で気にかけており、いつまでもその場はあり続けるのだろうと思い続けることができる場所である。『最愛の子ども』でも、日夏は「わたしたち三人も同級生たちも、一生〈ファミリー〉などと言って遊んでいられるわけではない」ということを自覚している。そしてそれは、高校卒業を前にしてある事件によって実現してしまい〈わたしたちのファミリー〉は離ればなれになってしまう。しかし、この小説は真汐が三人でまた再開することを誓うという場面で終わる。

 

やっぱり五年後でも十年後でもいいから日夏に会いたい、という気持ちが湧き起こる。前のようには気にかけてくれなくてもいいから、話したい。笑い合いたい。あのしなやかな身ごなしに見とれていたい。拳の上で転がされて気持ちよくさせられたり時にはくやしがったりしたい。叶うならまた一緒に何か面白いものを見つけたい。

——ああ、そうだ、山下公園で日夏とわたしは何年後かに空穂がどんなふうになっているか見に行くと約束したんだった。思い当たると憂鬱そうだった真汐の顔見微笑みがこぼれる。

 

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。

 

この場面でこの小説は終わっているために、この三人が再開を果たすことができたかどうかというのはわからない。しかし重要なのは、再開をしたい/することができるはずだという思いなのだ。未来のことはだれもわからない。1週間後に会う約束をしていた友達が突然亡くなってしまって二度と会えないということになってしまうかもしれないし、10年会ってなかった友達にたまたま会うなんてこともあるだろう。実際に人が会えるかどうかというのは不確定であり、お互いがなんとなくいつかは会えるだろうと思っている状態こそが重要なのである。

 

リアルにリアルな空間を求めて

ここまでふたつの作品を例にして、部室的空間を説明してきた。それは共通の理念によって集まっているものの、それが思い出されるのはたまにであるということ。また、理念に完全に賛成している必要はなく、参入障壁が低いということ。そこに行けば誰かに会えるという期待がもてるということである。さらに、24時間開かれているということ。そして、いつかは離れてしまうがその場自体はいつまでも残っているだろうとなんとなく思えるということである。

では、このような場を実際に作るとすれば、どのようなものになるのだろうか。

まず考えられることは自分の住んでいる場所と部室的空間を同じ土地に配置するということだ。このような形は山田も紹介しており、彼は「シェアハウス」「コミュニティハウス」「グループホーム」をあげている。

この議論は僕、より抽象的にいえば文系の大学院生を前提に議論を進めている。そのため理想をいえば、大学内に学生が住める場所を大学側が提供し、そこで生活することによって学内でのコミュニケーションを活発にするという方法だ。また、たまには他の大学に出向いていきそこで夜通し議論するというのもいいだろう。しかし、現在の大学制度、教育にお金をかけない日本という国の方針を考えると、大学にそれを求めるというのは難しいだろう。たしかに地方には全寮制でさまざまな国や地域から来た学生とコミュニケーションを取れる大学というのは存在しているのだが、そのような大学は現在地方の、東京に比べれば何もないようなところにキャンパスがあり、大学という場を部室的に読み替えながら外に出るという前提ではなく、外には何もないので大学の中だけで暮らすという設計になっているように感じる。また、そのような大学はグローバルな人材を育てるということに力を注いでいることが多く、なにかを研究したいという人たちよりも、語学などのスキルを取得したい学生が多く集まっているだろう。そのため、そのような大学でも研究者を目指す大学院生が部室的に使用できるプラットフォームを目的とされているわけではない。

では、現在では大学を部室的空間として読み替えることができないならば、その外側に空間を求めるしかない。では、山田もあげているような共同生活はどうだろうか。

これにはいくつか成功している例をみつけることができるだろう。その中でも一番有名なのが渋谷で一軒家を借りてシェアハウスをしている「渋家(シブハウス)」だろう。渋家は齊藤惠太を初代代表に2008年に池尻でシェアハウスをし始めたのをきっかけにして、現在では渋谷に4LDKの一軒家を借り、そこでメンバーが生活している。

しかし、渋家は齊藤が「家を借りること自体が現代美術のコンセプト」としているように、その場から何かが生み出されることを前提に生活が行われている。他にも、家入一真を発起人にしてシェアハウスの運営を行なっている「リバ邸」のHPにも「世の中の枠組みや空気に苦しくなった人たちが集まる居場所であり、そこで各自が何かしら独自のアウトプットを追求する場所」(2017/09/30閲覧)というコンセプトが掲げられている。つまり今、何かの理念を持って共同生活を送ろうとするためには、なにか目に見える成果が求められるのだ。

しかし、繰り返しになってしまうが、文系の研究者を前提とした場合、成果というのは目に見えない。もちろん文章になって紙にプリントアウトするということは可能なのだが、上にあげたシェアハウスがそのようなものを求めているわけではないだろう。また、シェアハウスでした雑談によって煮詰まっていた気がまぎれたり、同じ家の住人に借りた本を参考文献にしたくらいでは連名で論文は提出されない。そのため、シェアハウスでの成果としては見なされないだろう。

僕はここまでの議論で、部室的空間が生まれることに加えてそこから何かが生まれることを期待しているかのように書いてきたが、正直にいうと「何か」なんて生まれなくていいと思っている。いや、生まれてほしいことには生まれてほしいのだが、そのようなケースはきわめて稀であると考えている。人々が四六時中集まり議論が行われる。もちろんその結果何かが生まれることに越したことはないが、それよりも重要なことは議論のある空間自体を楽しめるかどうかということではないだろうか。共通の理念を持って集まった人たち全員が偉大な人になるなんてことはほとんどありえない。たまたま、少しいいものを作るような人がひとり、ひとつの共同体から出てくれば御の字である。研究者とはすばらしい成果を出さなくても職業としてやっていくことができるものである。それどころか、大勢で集まって議論をしている場所にたくさん顔を出した方が就職に有利なことだってある。

 

何も持たずにイエを出よ!

部室的空間は何かを生み出さなくてもいい。では、どのような空間がありえるのだろうか。

そのような空間のひとつとして僕は「ダルク」をあげたい。ダルクとは「Drug Addiction Rihabilitation Center」の略で薬物やアルコール依存症から解放されるためのリハビリ施設である。ダルクは全国に多くの施設を持っており、上岡陽江・大島栄子『その後の不自由』(2010、医学書院)ではその中から「ダルク女性ハウス」を紹介している。

「ダルク女性ハウス」で依存症からの回復をめざす人は、施設に暮らす人と施設に通所する人に分かれる。そこでは「当事者同士が体験を語り、聞くことによって経験を分かち合」うというプログラムがメインなのだが、その他にも「ダルク女性ハウス」では、海水浴やキャンプやハイキングに行ったり、豚汁やりんごジャムを一緒に作るということもおこなわれる。そして彼女たちはそのようなことを「思い出作り」と呼んでいる。依存症の人たちは幼い頃に家族で楽しく遊んだという記憶がないため、最初は戸惑ったり、つらかった思い出を思い出したりしてしまうものの、やはりそのようなことはみんな楽しんでいるという。ダルクに通う人たちの共通の理念は、依存症から解放されることである。しかし、それはミーティングを行い依存症の恐怖を実感するだけでは達成できない。それと同じくらい、またはそれ以上に重要なことは「思い出作り」をすることによって依存症自体を忘れて楽しむこと、つまり理念よりも遊びや暇つぶしを重視するということである。自身もアルコール依存症経験者で「ダルク女性ハウス」の代表をつとめる上岡も本の中で「私は、治療の場においても『断酒、断薬』を中心におかないで、いかに生活の技術を上げるかに着目していくほうがよいのではないかという気がしています」と語っている。

ここまでで僕は、家族や会社の他にあるべき共同体として部室という概念を導入し、部室的空間への読み替えを提案した。部活動とは負けることによって離れる場である。たとえ勝ち続けた最後の一校であったとしてもいつかは離れなければならない。しかし僕たちはどのようにして負けたかなんてことにこだわらなくていい。大切なことは、負けるまでになにをしてきたかである。そして将来、家族ができれば部活動の思い出を自分の子どもにきかせてやってもいいし、できなければ別の部室に移ったっていい。しかし、僕たちはそのためには部室のドアをノックしなければならない。

 

 

と、ここまで書いて一応結論を出したという形になっているのですが、20000字まで大幅に文字数が足らず、それらは後半の議論に使われるべきでした。また、最終日に改めて資料を調べなおしたり、再生塾の人と話している中で(完成してないのに引きこもってなくてすいません)「パープルーム」の共同体の運営はかなり僕の考える理想に近いのではないかということがわかりました。しかし、直前だったために論考に入れることができませんでした。後半は「ダルク」と「パープルーム」を比較するべきだったという思いが僕の中にあります。そのため、この論考は最後まで書かれている感は出ているが、未完成であるということを付記しておきます。

文字数:14999

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