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第1章 僕たちの作るこの「セカイ」にキミなんて必要ない!?

1.テン年代のセカイのゆくえ *1

*1 第1章の冒頭から作品分析を行っているが、単行本ではこの文章の前に入れられている「序章」では、90年代以降に比重を置いた第二次世界大戦からの現代史とサブカルチャー史を梗概し、インターネットを中心としたメディア環境の発達について述べている。

1.1
世界の危機に陥った人類たちがある巨大な意志のようなものによって、ひとつの有機体へと統合していく。テン年代にはこのようなモチーフを持ったサブカルチャー作品が多く見られる。巨大な意志は作品によっては明示されるし、最後まで謎のままで終わる作品もある。また、統合していく有機体は植物のこともあれば、もはや人間の形をとどめていない生命体の場合もある。
 たとえば1999年から2014年まで『週刊少年ジャンプ』で連載されていた『NARUTO -ナルト-』(岸本斉史)*2では、物語の終盤の重要な場面で、敵であるマダラの無限月読という術によって人々が巨大な植物に取り込まれ、幻覚を見続けさせられるというシーンがある。また、集英社のマンガ配信サイト『少年ジャンプ+』で2016年から連載され、2017年9月現在でも連載されている『ファイアパンチ』(藤本タツキ)*3では、ユダと呼ばれる植物が人々の生命を吸い取り、巨大に成長するさまが描かれている。

*2 主人公であるうずまきナルトが、自身の住む里での最高の忍者である火影を目指すバトルマンガ。当初は少年マンガらしい主人公の成長を描いていたが中盤以降、家族や共同体を重要なテーマとしている。『週刊少年ジャンプ』で連載されていたこと、深夜ではなく夕方にテレビアニメが放送されていたことを考えると、子供向けという印象があるが、海外のオタクに人気が高く外国のコスプレイベントの映像を見てみると『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクターのコスプレをしている人が多く見られる。

*3 祝福と呼ばれる特殊な能力のうち、再生の能力を持った主人公のアグニが祝福者であるドマの炎によって全身に炎をまとい続ける男になってしまう。短い文章ではあらすじを説明するのが難しいマンガだが、「このマンガがすごい!WEB」での2016年9月のランキング、オトコ編で1位を獲得しており、「ポスト『進撃の巨人』の最右翼!」であったり「第1話の衝撃は『進撃の巨人』以来」と当初から注目を集めていた。

 他にも同様の物語構造を含む作品をあげればキリがないのでこのへんにとどめておくが、善悪や階級などにかかわらずほとんどすべての人類が、ひとつの意志として統合されてしまうというモチーフは我々にあることを思い出させる。それは、2011年3月11日に起きた東日本大震災である。テン年代の物語に影響を与えた出来事を考えるうえで、このことはどうしても避けて通るわけにはいかないだろう。

1.2
 地震や津波などの巨大な自然災害は、ときに人の生命を無差別に奪ってしまう。だがしかし自然災害以外にも、たしかに人々を生命を無差別に危機に陥れるという出来事はもちろん存在する。
 たとえば戦争を例にとれば近代では、第二次世界大戦で日本のさまざまな場所を襲った空襲は、隣で一緒になって逃げていた家族や友人との生と死の境界線をランダムに引く。しかし、もし自分があのとき友人がいた位置にいれば自分は亡くなっていたかもしれないという想像力は終戦後、そもそも自分たちが正しい国になれば、あのようなことはもう起こらないという想像力によって乗り越えられていく。戦前に生まれた作者の描いたサブカルチャーには松本零士*4が監督した『宇宙戦艦ヤマト』や富野由悠季*5が監督した『機動戦士ガンダム』などの「正しい国である我々を描いたもうひとつの大戦」ものが多くみられる。

*4 1938年生まれ

*5 1941年生まれ

 また現代の国際情勢を見れば、国家同士が財政や国民を総動員して死闘を行う総力戦という図式はたしかになくなった。だが、21世紀の始まりを迎えた2001年の9月11日に起こったアメリカ同時多発テロも先の大戦と同様に、あの日あの場所にいれば自分は亡くなっていたかもしれないという思いを、アメリカ国民全体はおろか、世界市場に参入したグローバルエリートにまで抱かせたはずだ。しかしそのような想像も、世界の秩序を乱す悪の存在を根絶やしにすれば、このようなことは二度と起こらないはずだという想像力に取って代わられ、戦争へと進んでいくブッシュ政権をアメリカ国民の90%以上が支持した。宇野常寛はこのような影響を持って作られた作品群を「バトルロワイヤル系」と名付けている。これは『DETH NOTE』(大場つぐみ・作 小畑健・画)などのように、「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」*6物語を描いた作品のことを指す。

*6 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(2008年、早川書房)p.20 宇野は同じくゼロ年代に流行した「セカイ系」を1995年に起こった一連のオウム事件であらわになった社会への不信から生まれたものであり「『何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける』ので、『何もしないで(社会にコミットしないで)引きこもる』という、『〜しない』という一種の否定神学的な倫理に他ならない」(p.17)と批判的に紹介しており、それに対比させる形で「バトルロワイヤル系」を紹介している。

 しかし、上であげた大戦やテロと違い、さきの震災は「〜であれば」という射程をもたない。たしかに、2011年の3月11日に東北にいれば、自分が被災者になっていたかもしれないという思いや、亡くなったり被害にあった人々がその場にいなければ、被災することはなかったと思いをめぐらせることはできる。しかし、そのような想像も、日本国内にいればいつどこであろうとも地震が発生するかもしれないし、たとえ地震の少ない海外のどこかの国にいたとしても、その他の自然災害や些細な事件や事故に巻き込まれて命を落とすかもしれないという漠然とした思いが震災以降、人々を覆っているはずだ。つまり、「正しい行いをすれば」であったり「悪を排除することができれば」といった、「〜であればこのようなことは二度とおこらない」というようなことを震災に対して想像することは極めて難しい。
 冒頭であげた作品群は震災を受けたこのようなこのような想像力———ありえたかもしれないもうひとつの可能性を想像することなどできないという想像力———によって作られた物語であるといえる。このような作品群をどのような名称によって括ることができるのだろうかと考えることは重要なことではない。それよりも今しなければならないことは、もしこのような作品群が震災を受けた想像力で描かれているとするならば、はたしてどの作品が最も我々の気持ちを汲み取った作品であるといえるのかということである。その作品とは、花沢健吾の描いたマンガ『アイアムアヒーロー』である。

1.3
 この作品は2009年から2017年まで『ビッグコミックスピリッツ』で連載されていた。映画化もされたのですでに知っている人も多いと思うが、『アイアムアヒーロー』のあらすじは以下のようなものである。主人公の鈴木英雄は35歳で売れないマンガ家。以前は連載をもっていたが、それも打ち切りになってしまいアシスタントに逆戻り、貧乏生活を送っていた。しかしそれでも、恋人で同じマンガ家である「てっこ」ともし自分が売れたら結婚しようと夢見ていた。しかし1巻のラスト、この貧しいながらも幸せな生活は突如終わりを迎える。小学生に噛みつかれて以来、体調を崩していたてっこの部屋を英雄がのぞいて見ると、グロテスクで奇妙なゾンビのような生物になってしまったてっこが英雄を突然襲いだすのだ。その後もそのような姿になった人々は「ZQN」と呼ばれるようになり、彼らに噛まれると健康な人間も感染し、「ZQN」になってしまうということがわかる。射撃が趣味だったためにたまたまライフルを持っていた英雄は「ZQN」に対抗できる数少ない生き残りとして、人々を救っていくことになる。
 以上のように「ZQN」は全人類を感染させることを本能として動いているように描かれるのだがそれと並行して、統合を繰り返すことによって巨大なひとつの生命体になることが彼らの目標であるかのように描かれている。この作品では、人類が「ZQN」に感染してしまう原因をはじめ、さまざまな謎が展開され、未解決のまま物語が進んでいくのだが、この巨大な生命体がなぜ次々と統合を繰り返すのかということも、物語の謎を解く重要な鍵であるかのように描かれている。しかし他の多くのことと同様、この巨大な生命体についての謎も解決されないままにマンガは完結してしまう。
 ではなぜ『アイアムアヒーロー』はさまざまな謎を解決しないままに連載を終えてしまったのだろうか。このマンガを読んでいくうえで「ZQN」とは作中においてこのような意味「である」ということには意味がない。それよりもむしろ、作中に「ZQN」という表象「がある」のはどうしてなのか、それを作品の外側つまりは我々が生きている社会のどの部分をどのように反映しているのかを探ることに意味がある。しかし、なぜその中からとりわけ巨大な生命体についての謎に焦点をあてる必要があるのか。それは、この謎が震災を含めたテン年代を空気をまとった想像力から生まれているといえるからだ。
 震災は一度に多くに人の命を奪ってしまった。それはたしかにさきの大戦も同様であったが、戦争であれば、この死は国民国家のような擬似的に作られたものであれ存在しているコミュニティーに対して意味のある死であったと考えることができる。靖国神社などはそのような意味を国家が与えてくれる場所として機能していたはずだ。しかし、震災は我々にそのような意味を与えてくれない。しかしながら人は、そのような意味のない被害に耐えることができない。そうしたときに我々は、自分たちには理解できないけれども地球規模の意志のようなものにとっては意味のある出来事であったと規定することによって癒しを得ることができる。そのような機能を宮台真司は社会システム理論で「サイファ」と呼ぶとしている*7。『アイアムアヒーロー』では「ZQN」感染という人類の危機に対するサイファとして巨大な生命体が描かれている。感染症という一見すると人類からは意味を理解できない危機に意味を与える存在。しかし、そのような存在をたとえ見ることができたとしても我々はそのことについて理解することができない。『アイアムアヒーロー』はこの「理解し得ない」ということを徹底的に描いている。それはまさしくテン年代———少なくともポスト震災———の想像力といえるだろう。たしかに以前にも「セカイ系」のような、危機を主題の一部にした物語は作られていた。しかし、その危機は地球外生命体や謎の敵の侵略などの意味のあるものであったり、「キミと僕」の関係性に絶対的な意味を持たせるためのものとして機能していた。一方で『アイアムアヒーロー』で敵となる「ZQN」は感染症に感染した人間である。その敵が人間を襲う意味を人間の側からは見出せない。また、英雄は登場するヒロインたちの誰かと結ばれるということはなく、最終的には全てのヒロインに別れがやってくる。登場人物たちにできることは生き続けながらサイファである巨大な生命体を観察することのみである。

*7 宮台真司 速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!』(2000年、筑摩書房)宮台はここでサイファを「『世界の未規定性』を、いわば1カ所に寄せ集めて、『世界』の中の特異点(特別な部分)として表象する」(文庫版、2006年、ちくま文庫)p.219としている。

1.4
 このように考えると、『アイアムアヒーロー』をはじめとしたひとつの有機体へと統合していくというモチーフを持った作品群は、サイファを可視化する物語であるといえるだろう。もちろん可視化されたところで人々はそのサイファの意味を理解することができない。しかし、オウム事件によって宗教に対する信頼を失った日本では、物語はこのような方法でしかもはや震災後の我々に不条理さを納得させる手段を持たない。それはたしかに消去法的な手段であるのかもしれない。物語にできることは少ないかもしれないがそれでもなお、我々は物語を求めている。その求められ続ける物語を「テン年代の想像力」として書き留めなければならない。

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