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劇作家はいかにして劇作家となるのか

 又吉直樹の『劇場』はどのような結末に向けて書かれているのでしょうか。
 たとえば、前作の『火花』は「主人公の芸人である徳永が芸人をあきらめる」という結末に向けて書かれていました。しかし僕の考えでは『劇場』はそれとはまったく逆で「主人公の劇作家である永田が劇作家になる」という結末に向けて書かれています。
 どういうことだ、と不思議に思われるかもしれません。第一、「劇作家が劇作家になる」なんていうのはトートロジーじゃないか、とも思われるでしょう。そこには僕も同意します。なぜなら僕は、劇作家として登場していた主人公の永田は、小説が終わるまで劇作家ではなかったと考えているからです。どういうことか、これから説明していきたいと思います。でもその前にまず、又吉直樹という人物の説明から始めていきたいと思います。

 又吉直樹というお笑い芸人がいます。彼が「文學界」に発表した処女作の『火花』は芥川賞を受賞し、約300万部の大ベストセラーとなりました。データだけを見れば、又吉は作家活動もするようになったお笑い芸人といえるどころか、現役トップの純文学作家になってしまったともいえるでしょう。
 それまでお笑い芸人がほかの表現活動をするというのでまず思い浮かぶのは、映画監督だったと思います。そしてそれは、当然北野武の成功があったためです。彼もまた同様に、ある側面から見れば現役トップの映画作家であるといえます。そしてその彼の成功によって、お笑い芸人として成功した人たちが次々と映画を撮るようになっていきました。
 その点、又吉の成功によってお笑い芸人は、芸人として成功する、映画監督になるという選択肢の上に、純文学作家になる、という第三の選択肢を作った人間であるといえるでしょう。
 その又吉が2017年に入り、『劇場』という作品を発表しました。前回の『火花』のときと同様、この作品を掲載した雑誌「新潮」は増刷がかかり、単行本の初回発行部数は30万部と2作目も勢いは衰えていないといえるでしょう。

 主人公の永田は物語の冒頭で沙希という女性に出会い、声をかけます。そしてそのまま二人はカフェへ行き、交際することになります。
 沙希は永田以外の登場人物とも積極的にコミュニケーションを取るのですが、永田はそれを極端にいやがります。仕送りを送ってくれる沙希の母親や、おかしなクイズを出したり原付をくれたりする沙希の学校の友達や、もともと永田の劇団に所属していて沙希と一緒にほかの劇団の舞台を観に行った青山らの話題が出るたびに、彼らの人格攻撃ともいえるような批判を沙希に対してぶつけます。
 そのような性格なため、永田は沙希と常に二人だけでコミュニケーションを取ろうとします。また、沙希以外の人物とも「二人で」ということにこだわります。演劇を始めたときも、東京に出てくるという行動も、永田は野原という人物と二人でしています。また、小学校の遠足のときのエピソードを披露する場面でも、永田はクラスの集団から離れ教頭と二人で歩いていたという話をします。
 つまり永田はコミュニケーションにおいて、第三者を介入させない密室を徹底的に作り出そうとします。しかし永田は劇作家ということになっています。当然のことですが、演劇にはそれを観る観客がいます。劇中の会話を第三者である観客が観ています。また、演出家の考えや思想を観客に伝えるには、役者という第三者を介入させなくてはいけません。
 あまりにも使い古された表現で恐縮ですが、演劇とは絶対的に密室にはなり得ないジャンルなのです(第四の壁なんて言い方もありますね)。しかし、まだ劇作家になれていない永田はやはり劇作ということに対しても、第三者どころか他者そのものを拒絶します。

 創作ってもっと自分に近いもんちゃうんか。人のことなんてほんまはかんがえられへんやろ? 人のことを考える自分のことを考えんねん。

 藤田貴大という劇作家がいます。藤田は「マームとジプシー」という劇団を主宰し、そこで行われる公演の作演出をつとめています。2011年には演劇界の芥川賞ともいわれる岸田戯曲賞を最年少で受賞しています。また、「マームとジプシー」は海外でも非常に評価されており、さまざまな国の芸術祭や演劇祭などでも次々と公演を行なっています。
 これはとても有名な話なのですが、演劇作品を作るにあたって、藤田はいわゆる「戯曲」を書きません。ではいったい、どのようにして演劇を作っていくのでしょうか。
 藤田の劇作はまず、役者と対話をするところから始まります。これはオーディションなどの段階からすでに始まっており、そこで聞いたことや感じたことなどから浮かんだセリフを役者に話してもらい、そのセリフを実際に使用するかどうか判断する、というようなプロセスで演劇を作っていきます。つまり藤田は、徹底的に第三者である役者とコミュニケーションをすることによって、もう一人の第三者である観客とコミュニケーションを取っているといえるのではないでしょうか。
 しかし、何作か観た方ならわかると思いますが「マームとジプシー」の作品はどれも非常にテーマが似たものになっています。膨大な字数になってしまうのを避けるため、ここではそのテーマを細かく解説するということをしませんが、一言でいうなら藤田は「僕たちが生きている日常は毎日変わりばえしないように見えるけれども、しかしそれでも、いつまでも何も変わらずにいられるということは絶対にできない」ということをテーマにしていると僕は思っています。「マームとジプシー」の出演者に少女のような見た目の女性が多いことからも、このことをテーマにしていることがよくわかると思います。
 つまり、藤田は第三者である役者とコミュニケーションを取りながら作り上げた作品なり自分の考えを、ほかの第三者である観客に伝えるという方法を取っています。そしてそのような伝え方によって藤田の作品を受け取ったわれわれ観客は、非常に純粋に藤田の考えや思想を受け取れていると感じているわけです。

 ではいったい、『劇場』において永田は、結末でどのようにして劇作家になることができるのでしょうか。
 作中では結局、永田は沙希と別れてしまうことになるのですが、永田と沙希が長いあいだ二人で暮らしていた部屋を引き払う最後の場面、永田は付き合っていた期間に沙希に負担をかけすぎてしまっていたことや、迷惑ばかりかけていたことを謝罪します。ではどうやって。
 その答えはやはり演劇にあります。永田は沙希に過去に沙希を主演にして行なった公演の脚本を渡し、一緒にセリフを読み合います。そしてそのまま、永田は沙希に謝罪の気持ちをぶつけるのです。

「それにしても、キミには本当に迷惑をかけた」
 こういう場合、普通は直接的な表現は避けた方が良い。
「ん? 永くんそんなセリフ書いてないよ」
「迷惑ばっかりかけた」
「どこだ? そんなセリフないぞ」
 沙希は少しふざけた口調で言う。
「夜の仕事も本当はさせたくなかった。俺の収入がもっと安定してればな。才能の問題か」
「今、セリフ考えてるの?」
「沙希ちゃんも一緒に考えて」

 つまり永田は、自分そのものを役者/第三者とすることによって、共演者であり、観客/第三者である沙希に向けて自分の考えを伝えるということをしたのです。
 永田はこれまで戯曲を作っていながら劇作家とはいえませんでした。それはなぜか。第三者の存在を許さなかったからです。しかしこの結末によって、永田はようやく、劇作家になることができたといえます。
 『劇場』の物語はここで終わっているので、永田がその後、劇作家として成功したのか、それとも『火花』の徳永が芸人をあきらめてしまったように、劇作家をあきらめてしまったのかは描かれません。しかし、この小説を読んでいる僕らにはわかっていることが三つだけあります。
 一つ目はこの小説が永田の視点から見た一人称で書かれているということです。二つ目は当たり前ですがこの小説が、この物語より未来に書かれているということです。そして三つ目はこの小説が僕を含め、さまざまな第三者に読まれているということです。

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