ふたつの日常/非日常とその先のこと
人は、見たものを、覚えていることが、できると思う。
人は、見たものを、忘れることが、できると思う。
2013年1月。東日本大震災から約2年がたとうとしていた福島県・いわき市の高校で、演出家の飴屋法水が『ブルーシート』を上演した。冒頭の引用文は、福島に暮らし、被災したいわきの高校生10人と作り上げた本作のラストシーンの一場面。男子高校生のフミヤが、地面を蹴り続けながら「逃げて! 逃げて!」と叫ぶ声に、他の高校生が呼応するラストシーンのやりとりだ。高校生のほんものの感情を起爆させて煌めかせる装置のような舞台は、それは素晴らしいものだった。
見たものを覚えていることも、忘れることもできるーー。それはつまり、見たものを「あったこと」として存在させ得るのは、人の「認知」であり、世のなかのできごとは「誰かの認知の集合体」でできあがっているということだ。「誰も認識していない場所」は、実存していても地図にはのらないということからもあきらかなように。
ここで考えておきたいのは、なにが日常で、なにが非日常なのかということ。「非日常」と言えば、かつて細野晴臣が音楽に投影した「ここではないどこか」という感覚があり、このことばは、ながく音楽やそれにひもづくカルチャーの歴史において、「非日常」のイメージを決定づけるものだった。つまり日常の「逃避」として「非日常」があったということ。しかし彼が実際に憧れていたのは、古きアメリカの音楽であり、つまり「ここではないどこか」というのは、時間や空間を超えた誰かにとっての「ここ」なのであった。それはよくよく考えてみれば、細野が立教大学の観光学部卒だったということからも連想できることなのだけれども。
一方で、上北千明が『擬日常論』のなかで「非日常」として語っていたのは、想像上のエスケーピズムではなく、大規模な自然災害やテロリズム、つまり個人の日々の暮らしのたんたんとしたリズムや価値観を、抗えないサイズのできごとでぐらぐらと揺さぶるような大文字のできごとであるので、音楽的な「逃避」とは異なるものとして理解しておくのが正しかろう。
しかし、「日常と非日常という枠組みではなく、この日常が非日常とつねにともにあるということ、すべてが擬似的な日常でしかないという感覚を取り戻すところから考える」とした提案は、「逃避」の矛先が「自分以外の認識、ただし“この世に存在するという前提でね”」という括弧つきのものであるとしたならば、「音楽的逃避」とも近しい要素があるし、二項対立という構造事態が常にまとっている脆さへの柔らかな警鐘ともなっており、「非日常」的なできごとへの心構えという意味でも、有効な提案だと考えられる。ただし、だ。気になるのは、その心構えがあと一歩、「対処療法」的であり過ぎるのではないか、ということ。つまり「日常はつねに非日常に一変する可能性を孕んでいる」のだから「決断を先延ばしにしないで生きる」という慰めるような提案だけではない、その先の窓をもうひとつひらくような提案が可能なのではないか?
ここで上北があげた『花と奥たん』の奥たんの例に触れてみよう。奥たんは、他の主婦たちが逃げてしまったうるわしが丘に残り続ける。それをするのは、他人や社会がどうであれ、自分にとってはかけがえのないものだという感覚がその場所にあったからだった。また、同じテキスト内で上北は、「ここではないどこかへ」行くためにではなく、「ここにしかいないひと」に会うことの重要性をしめした。これらの例を材料にうみだされた『擬日常論』は、「日常には非日常が含まれてるんだよ」と、近所のおにいさんさながら「視点」をわけてくれるものだった。一方で「ここではないどこか」という「音楽的逃避」では、日常の認識とは異なる価値観を非日常とイメージし、そのイメージに触れようとすることで、日常の認識を豊かにするという「想像的体験」を提唱していた。
このふたつの「日常・非日常観」のその先にあるものが、ともに奇跡みたいに2016年に発表されたミランダ・ジュライによる『あなたを選んでくれるもの』と岸政彦『断片的な社会学』だと思ってみたい。前者は、インターネットの世界に浸っていたアーティストが、フリーペーパーの広告欄に掲載していた、普段であれば絶対に会わないようなーー世のなかから取り残されたように生きる人たちに会いにいき、その人生をインタビューするというもの。後者は、重大な事件に直面した人々に対して「聞き取り」をおこなう社会学者が、聞き取りの本筋からは外れた、本人いわく「自分自身の解釈から外れるような語りやエピソードを大切に」した結果得られた、一見なんでもない、だけれども「ほんとうに印象的な語りやエピソード」を紡いだもの。
そこには、日常と非日常がすべてこの世に一緒くたになって存在している、という『擬日常論』にもとづく前提と、日常も非日常もすべては「認識」のズレ間の移動である、という「音楽的逃避」の前提があったうえで、「日常」で意識すべき「非日常」はおそれるべきもののみにあらず、これまでの自分の認識には存在していなかった「そこにしかいない人」がいて、生きてるね、って会いにいくことができるのだ、ということを教えてくれる。そういう日常のなかの非日常への想像力、そして実際にそこにアクセスする行動力は、『ブルーシート』よろしく、覚えていることも、忘れることもできるからこそ、個人の日常をよりたくましくしていくのではないか。そんな、新しい体験のある風景のことを考えた。
※上北千明『擬日常論』(2016年)
※飴屋法水『ブルーシート』(2014年)
※ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』(2016年)
※岸政彦『断片的なものの社会学』(2016年)
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