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何かをしないではいられない者を応援する批評になるといい宣言

0:「ある美術家」を見る

 本稿は、ある一人の美術家について注目してみることで、現代美術を志す者にとって少々の役に立ちうる情報を提供しようという励ましである。

 その者について具体的な作品を交えながら様々な視点を持って解析することにより彼女や彼女の作品の真価を問う本稿は4章から成っており、1章ではまず最近の「炎上」騒ぎから彼女の様子を振り返る。次に2章で、彼女が一貫して活動と作品のテーマにしている「愛」の表現について、社会がどんな反応をするかという観点から、いくつかの作品の成功や失敗の理由を論じる。そして3章ではあらゆる物事の仕組みであるデザインから彼女の動向を見て論じ、4章では現代アートに携わる全ての者へ、もしくじけそうになった時がきたら、思い出すと少し元気になれたらいい鼓舞を記す。

 相互に緩やかなつながりを持つこれら4つの章には、一人でも多くのアーティストに、この日本で長くアーティストとして存在していてもらいたい思いと、それによって日本の文化がより高みに昇り、さらに豊潤なカルチャーとして実るようにという願いが込められている。

 

1:「炎上」から見る

「炎上」という言葉はろくでもない。

 ネットにしばしば流れるこの二文字だが、それが何を示すのか濫用されて気付きにくくなっている。「炎上」はリツイートが伸びるだけでないことは周知で、その標的にされれば程度の差こそあれ、模倣犯や愉快犯がプライバシーを破壊し、脅迫状を送りつけ、警察が動く。対象は多大な迷惑をこうむるだけでなく、場合によっては命にすら関わるのだ。しかし「炎上」や「祭り」といった暗喩表現では出来事がぼかされて伝わりづらく、楽しいだけのイベントと混同されたまま、加担している意識が発生しにくい場所にいる人々を巻き込み続ける。「私刑」に溢れた社会が理想郷のわけもないが、一方「炎上」つまりネットリンチを起こす側の理由は、彼らの中にある正義感と、それを満足させたい欲求だ。聞こえはいいが、要は極私的な苛立ちを感じた対象に暴力を振るい、自分の溜飲が下がった錯覚を遊戯の中に見出しているのだと学問が証明している。「いじめ」に、それが犯罪である実感が伴いにくいのと同じ理屈で「炎上」の語も安易に使用され、実態を見えにくくする。「炎上」すなわちネットリンチという認識でこの章をご覧いただく。

 

 2016年の第24回参議院議会通常選挙に、社会民主党から「異色」の公認候補が立候補した。画家の増山麗奈(増山れな)だ。それまでも、美術家でありながら、各省庁や政治家を訪ねてロビーイングをしたりデモに参加したりと、政治活動を活発に展開していた彼女への評価を覗き見ると、メディアはこぞって「過激なパフォーマンス」という言葉を添えながらこれを紹介し、彼女が生み出した作品たちへの純粋な評価は置き去りだった。選挙を通じて国民の多くが彼女の存在を知ることになっても、これでは彼女の思想がどうなのか、またその作品がいかなるものなのかが不明瞭で、ウェブ上では匿名のネットユーザー達が一人の文化人を侮辱してまわるといったお馴染みの現象が繰り返された。単に国政に関わるというだけでなく「絵で食べていく」を成功させている美術家の出馬という、文化的にも意味のある現象を前にメディアや国民は表面的で幼稚な態度を取り続けたが、なぜそうなったのか。

 一つに、増山が自身の作品についてあまり言葉では語らないことが挙げられる。彼女の代表作の一つが「母乳アート」シリーズ(2006年〜2010年)だが、これは当時授乳中だった彼女が、母乳は命を育む崇高な存在であると認識した結果、愛と平和の象徴として自身のそれを用いたものである。母乳を混入した絵の具で絵を描いてみせたり、母乳が体から噴出する様子を提示したりするといった内容だ。しかしこれについて、なぜ母乳なのか、その必然性や意味、理由、含まれた思想など、正しい言葉を与えられない作品群は、悪意ある人の解釈にかかればたちまち軽蔑すべき何かにされてしまう。作者である増山が敢えてそうしているとすれば彼女の清濁併せ呑む思想が透けて見えるが、国内の現代アートをめぐる様々なシーンを鑑みれば、単純に、コンセプチュアルな作品であるのに言語化が不足している手落ちだと断言できよう。例えば「ろくでなし子事件」は次のような経緯である。

 元漫画家のアーティストであるろくでなし子は、女性蔑視に対するアンチテーゼとして女性器をモチーフとした立体作品を制作、発表していたところ、わいせつ電磁的記録頒布の罪などで逮捕や起訴された。するとメディアはこれを取り上げ、彼女は自分や作品について「なぜ女性器をモチーフとした作品を作る必要があるのか?」をわかりやすい言葉で説明する機会に恵まれた。ただし彼女のケースでは逮捕、起訴に対して自身の潔癖や無罪を主張する必要があり、むしろ説明せざるを得ない側面があったのも間違いない。この事件以前は、アーティストがその説明責任を果たしていたとは言えなかったのだから。逮捕劇が起こらなければ今も、多くの国民が彼女の作品の理由を知らず、猥褻なだけの何かだと勘違いしたままだった。つまり、逮捕や起訴されるまで作品についてあまり解説しない態度を貫いていたと言い換えれば、いかに彼ら、彼女らが説明責任を意識していないかが伺い知れる。

 

 そもそもアーティストは作品について説明責任を負っているという考え方が、現代アートの中で希薄であることが、それを形成する根幹である国内の美術系大学の入学試験からも読み取れる。ほとんどの美術系大学で、入試は実技試験と少々の筆記のみであり、小論文のような自分の考えを言語化する訓練は課せられていないし、それを受けて入学以前に通う美術予備校でも「ことば」を操る能力は重要でない。入学後にもあまり「ことば」による理解をよしとしない向きがあるのは随所で窺える。振り返れば先の増山も出身は東京藝術大学の油画であり、その入学には難関と呼ばれる実技試験ばかりが有名だ。東京藝術大学については『最後の秘境 東京藝大:天才達のカオスな日常』という本が2016年のベストセラーになっているが、その内容紹介を引いてみよう。

 

入試倍率は東大の3倍!

卒業後は行方不明多数!!

「芸術界の東大」の型破りな日常。

才能勝負の難関入試を突破した天才たちは、やはり只者ではなかった。口笛で合格した世界チャンプがいると思えば、ブラジャーを仮面に、ハートのニップレス姿で究極の美を追究する者あり。お隣の上野動物園からペンギンを釣り上げたという伝説の猛者は実在するのか?「芸術家の卵」たちの楽園に潜入、全学科を完全踏破した前人未到の探訪記。

 

 以上のように、ここで学生達は、本来あるべき知的な態度ではなく、荒唐無稽さや変人めいて意味不明な様子を期待されている。それはなにも東京藝大の内部だけではなく、そのほかの美術系大学やその出身者、関係者にまで敷衍されて界隈全体に「奇人、変人」をよしとする風潮があるところまでを示す。つまり「ことば」による解説をあまり行わないことで、より「奇人、変人」らしい振る舞いを目指すコミュニティーの総本山を出身とする増山が、全力で政治の世界にやってきても、言動について「意味がわからない」と失笑を買うのは流れとして必然なのだ。

 

 特にトラブルにまでなったネットユーザーの「悪ふざけ」に『拷問トークショー』(2004年、府中市美術館で発表。増山麗奈作)へのネットリンチと、それが様々な嫌がらせとなって噴出した例を添える。理由は、岡本太郎賞を受賞した絵本『幼なじみのバッキー』(2008年、澤田サンダー著)のあとがきに記された「子供達の前で自分の陰部にバイブレーターを挿入しながら演説した」と解釈できる一説であった。ただしこれは、そもそも絵本のあとがきに記された文章、それもポエムのような表現であるので解釈には幅がある。加えてパフォーマンス作品の内容は、反戦や平和への願いと、性的なものごとに携わる人々、特に女性に対して敬意を払うべきだとの思想をミックスさせた結果であるだけではないことが、足を動かして取材をすれば明らかになるのだ。これについて、着衣の状態で発表されたことや、あたかもバイブレーターを実際に使用しているような音声での演技をする(平和を訴える原稿を読み上げる)のみのパフォーマンスだったことが、発表後のイベントで改めて公表済みなのだから。

 

 一見すると性的なだけの女性の喘ぎ声が、同時に断末魔の叫びのようでもあるという要素は、ちょうど十年後に発表された作品、文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦の『セクハラインターフェース』(2014年、市原えつこ作)でも表現の要として採用されている。これについて、展示場へ愛を運んだものは奇妙な光景を目にすることとなる。

 それはプリプリとした、太くて大きな大根。展示台に幾つかの大根が立てられているのだ。人々は思う。「なぜこんなところに大根が」「大根を立てて飾って鑑賞して、それでいったいどうするのだろうか」「特別な大根なのだろうか」人々の疑問はつのる。ひとまずそちらへ近づいてみると今度は、なんとも形容しがたい音や声が会場に響いていること、そして他の観客達がプリプリとした大根を楽しそうに撫で回しているのが分かりはするが「大根を撫でて、一体どうして、何が楽しいのだろうか」と頭の中の疑問符は消えないままだ。大根に歩み寄り、間近で観察しながら説明を見聞きしてやっと「これは手でタッチすると音が鳴る仕掛けの機械なのか」と知ることができる。ところが、その音というのがまた、恍惚とした喘ぎ声だというのだから、本当に自分も大根に触れて良いものかどうか戸惑って、また不思議な感情で顔がにやけてしまう。

 大根といえば人の脚に例えられることのあるセクシーな存在だが「喘ぐ大根が目の前にあって、それを喘がせるなんて、自分はちょっとエッチだと思われてしまわないか」と不安を感じつつも「いいや、これは芸術だからエッチなんかじゃない」と己に言い聞かせ、おそるおそる自分も手を伸ばす。大根の肌に手が触れた。そのまま手をスライドさせて表面を撫でると「あっう〜ん……」「はおぁ〜ん……」……絶妙なタイミングで鳴った!自分の手が大根を喘がせた!こんなの初体験だ。しかも相手は機械で、何度触っても律儀に様々な喘ぎ声を上げてくれる。自分が簡単な介入をすることで操作できると体感で分かってくれば、ゲーム機を相手にした時のように操作が楽しくなってくる。「これは芸術で、大根と機械なのだから恥ずかしくないぞ!」そう改めて自分に言い聞かせながら、楽しくなってきた観客は、好奇心で大根を連打してみたくなり、そうしてみると「あっあう〜ん、うおぅ〜ん……」声が重なって音声が輪唱のようになる。なんだか更に楽しい。もっと素早くタッチしてみると「あっあ〜んはおぁごぉぼぉおどぅおぉぐがうぉぐがごぉっぉぉっばぁ〜……」「(……怖い!声がどんどん重なって、重なりすぎて、マンドラゴラの絶叫のようだ。こんな恐ろしい声を聞いてしまった自分は死んでしまうのではないか?)」怯んで手を離す観客。喘ぎ声が一つ二つのときはちょっと面白いなと思っていたが、数がうんと多くなると、重なる声は次第に大きくなり、いつの間にか大音量の雄叫びのようになるのであった。だからこれはセクハラのインターフェースであった。

 つまるところ、これは大根の形をしたスピーカーに、人の手が接触すると喘ぎ声が鳴る仕組みを加えたメディアアート作品なのだが、ここでは、性的な喘ぎ声が、社会の水面下で展開される性的なものごとに関するトラブルや犯罪の、いつしか大きな恐怖となって軽はずみなセクハラの加害者へ跳ね返ってくる寓意として昇華されていた。要するに『拷問トークショー』や『セクハラインターフェース』は、レイプを暗喩することで性的なものごとに関する者への侮辱を容認している社会全体への批評として機能しつつ、その状態への警鐘を鳴らす現代アートなのである。文化庁のお墨付きで高く評価された『セクハラインターフェース』と違って何の受賞もしていない『拷問トークショー』は、着目した要素には類似が見られ、もし洗練が足りていれば『セクハラインターフェース』に匹敵するかそれ以上の傑作に化けていた可能性を孕んでいた。

 しかし、こういったものへの審美眼を持たないネットユーザーという大衆によるネットリンチは、彼らが足を動かす取材をしないまま、かりそめの正義感を満足させる遊戯に耽溺している様を端的に示している。

 

 また現状では、増山のようないわば「東京藝大的」な存在が他種の業界へスライドしようとするならば、知的かつ論理的な「ことば」による解説を意識的に増幅させるか、その役割を第三者に委託しながら補佐させるしかない。この時、従来ならアーティスト本人がその説明責任をあまり意識しなくても、美術批評家と呼ばれる人々がそれを代弁していた。それゆえ、アーティストや周囲が作品について言葉であまり語らないスタイルを格好いいものと捉え、敢えて語らないようにするタイプが生まれるようになった。

 けれどこれは美術批評家に勢力があったから可能だった態度であり、批評家という存在そのものが権勢を凋落させてきている昨今、その格好よさは幻想、もしくは「ことば」で語る能力不足へのごまかしでしかない。加えて芸術分野は観客にも高いリテラシーが求められるのは当然であるが、現代アートを鑑賞する訓練をほとんど課せられていない大衆を相手にすると、作品と観客が構築してきた従来の関係性はまるで脱構築したかのようになり、アーティストや作品は観客に「分かりやすさ」を提供するよう脅迫される。応じなければ多かれ少なかれ、大衆からの吊るし上げの憂き目にあい、特にネットを通じた私刑に対する取り締まりが緩い現在は、ひとたび狙われれば活動を大きく阻害される。

 そのように匿名でネットリンチを展開する人々について、卑怯だ、すべきでないという誹りは溢れている。また全ての者に、ネットリンチに加担することで社会全体へダメージを与えてしまう事もある危険性も注意されていなければならない。しかし、ここで重要なのはそういった是非についてではない。こうした現象が良いことかどうかの判断とは全く別の実情として、ネットユーザーの悪意に対して個々人の小さな規模で運営されているアーティスト達の作家活動はひとたまりもないということが肝要なのだ。同時に増山の参議院選出馬に伴うネットリンチはつまり、特権的なアートの場と現実との間にある隔たりの大きさの再確認と、その境界の掘り崩しをはかっても、周到な準備の上で立ち回らなければ却って人々からの反発を買って身を滅ぼす危うさを示している。つまり、現代美術でアーティストであろうとするならば、もしそれが困難な条件下にあっても、あらかじめネットリンチを起こさせないように尽力すべきということである。「炎上」と呼ばれる現象は、ごく小規模で問題ない場合もあるが、基本的にネット上からは見えない部分に警察沙汰の犯罪行為や弁護士を召喚するトラブルを同時発生させる、ネットを使った私刑なのだと肝に銘じよ。

 芸術や美術、現代アートは、一部の関係者の言論によって価値を高められるという伝統を今日も引きずっているが、それが途絶えない理由の一つがこれである。そう、作品に対するリテラシーをあまり持たないタイプの、いっそ悪く言ってしまえば「無学な大衆」の好感度を稼がなければ、表現者や文化人は匿名の者からの暴力に屈するということ。

 ヨーロッパ的な歴史を踏まえた社会では、美術などの芸術を、王侯貴族といった「特権的」「学のある」者が独り占めしていたので、近代化によってその所有権が市民に開かれた。つまり大衆が勝ち取った。しかし自発的な市民革命を経験していないここ日本ではその流れを汲みきれず、むしろ遡行するかのようなシステムになっている。

 言い換えよう。まず芸術の作り手たる「特権的」かつ「東京藝大的」な存在は大衆に迎合されやすい「ことば」に疎い。そこで、美術批評家なり何なり「ことば」に通じた、これまた「特権的」なプロフェッショナルたる目利きが協力またはアーティストが兼任して(敢えて悪く表現するところの)「無学な大衆」に受け入れられやすい解説を添えるなどし、彼らの好感度を稼ぐ一助とする。「無学」な者が実際に居るとして、その中でも、分かりやすく解説されたテクストがあればある程度は読む層を設定する。そのレベルにまで作品をいったん下げ、噛み砕いて解説することで説得する、といった好感度稼ぎの手順をもし省けば、大衆は、社会の中で芸術を生み出す役割を背負う存在を攻撃するという、本末転倒な行為をしてしまう。よって現代美術で、アーティストや作品は、自衛のためと、そして作品を人々に届けるために、少なくとも日本では自分たちが思うより大きな説明責任を負っているのだ。ここで「ヨーロッパ的なら芸術や美術は市民(大衆)が勝ち取った成果であるのに、日本人は情けない」とおきまりの卑下を投げ飛ばして悦に入るだけでは事態がはっきりと見えてこない。肝心要は次である。市民に、芸術を苦労して勝ち取った意識が希薄な日本において、アーティストや作品が多くの支持を勝ち取りたければ、前述の手順や手間を決して省略してはならないこと。

 出馬した増山が打ち出した政策を読み返して要約すれば、お金持ちでも高学歴でもない者や若年層など、本稿のスタイルでは敢えて悪く言い換えている「無学な大衆」のためになり、彼らを助けるための政治である。本人や周囲は生まれも育ちも「特権的」なお金持ち、高学歴であり、その中でもさらに特権的なアートという世界で成功しているエリートにあたる才女が、大学に行けない貧困層など弱者とされる人々が得をするようにと、私財を投げ打って出馬したのだから、ここで敢えて悪く「無学な大衆」に言い換えられている存在はネットリンチで遊んでいる場合ではない。

 ところが、メッセージを伝えたい対象はそうであるのに、増山はアーティストや作品の背景に複雑に入り組みながら流れている難解な思想について彼らに不親切だった。噛み砕いて解説しながら好感度を稼ぐ手順や手間の部分だけで見ても、それが充分でなかったのだ。それゆえにネットリンチばかりを招いた。ここが彼女のミスリーディングの一つめなのである。

 

2:「愛」から見る

 

 愛の内容は何だろうか。

 増山の活動テーマは常に「愛」だ。同じテーマで大成功したある作品を例に挙げ、比較しよう。

 2016年10月から『ユーリ!!! on ICE』(久保ミツロウと山本沙代が原案のアニメ。以下『ユーリ』)という傑作が人々の話題をさらった。ここでは男性フィギュアスケーターの主人公がエロス、そのライバルがアガペーと、対になった「愛」のテーマで競い合うストーリーを基軸に、男女的な性愛や憧れの師匠への敬愛、友愛や家族愛など様々な形の愛が色とりどりに交錯しあいつつ表現されている。

 オープニング美術はApple社の音楽再生機器のコマーシャル・フィルムのようでもあり、作中でスマートフォンや動画サイトがキーアイテムとなるだけでなく、Twitterが日常に登場し、特にエンディングシーンでは画像投稿サイトのインスタグラムと思しき画面が作品を彩るなど、鮮やかに「いま」らしい生活感を切り取って伝える腕も軽やかだ。本編の様子は1940年のウォルト・ディズニー・ピクチャーズによる『ファンタジア』を完全に消化、吸収しきって尚あまりある技術と構成で、繊細かつ大胆に余裕を見せながら、アニメの世界の頂点の一つには未だ日本が君臨し続けていることを誇らしげに語っている。ディズニーといえば近年も子会社のピクサー・アニメーション・スタジオが実績やクオリティを更新し続けているが、当時の人々にとって革新的な技術を惜しげも無く注ぎ込んだ意欲作の『ファンタジア』が、日本アニメ界のトップの一人、冨田勲を魅了し彼に強く影響したように、ここで『ユーリ』も世界中に芸術という愛をふりまいている。かつて『ファンタジア』が映像の世界でメルクマールとして機能し、オーケストラ演奏の、旋律だけでない立体感がもたらす興奮を余すところなく視覚化して伝え、また動画技術の粋の結晶を聴覚へ誘ったが、この『ユーリ』の表現力はさらにずば抜ける。完成された平面構成に絡められた、昔から日本人の得意とされる線描の極みが、少々『ユーリ』風に例えるとカツに絡まる卵のように香り、きらめき、欲求を掻き立ててやまないのだ。主人公が披露するエロスの演技は堕落した食欲を超越したプリミティブな快楽をそそり、ライバルが踊るアガペーの響きは虚空を摑み続ける悲しみの全てを清らかな慈愛で満たす。そして物語のおしまいに、彼らの生の全てをスケートに捧げる情熱の縦糸、師弟愛と信頼の結実たる横糸による織物が、芸術とスポーツに携わるあらゆる存在を慰めるのだ。

 人類がまだ文字を持たない時期からずっと追い求め続けてきた芸術とスポーツの交差点であるところのフィギュアスケートを題材に据え、インターネットが結んでくれた人と人とのノードを豊潤に描き出しながら展開する『ユーリ』の画面は魂の震撼を加速させるが、興奮できるのは映像ただそれのみでない。美男と美女が誘惑しあうように、画面と音響の一体感が秀逸なのである。光と影が寄り添ながら互いを求め続けるエネルギー然り、インスピレーションを求める師匠、道しるべを求める弟子、気持ち良さに溺れる人々のエネルギーが求め合い、せめぎ合い、触れてはまた離れることを繰り返してやまない。終わりのない不可分な追いかけっこの軌跡が絵巻物より鮮烈に芸術となっている、と『ユーリ』を説明しよう、清潔な色気が世界を満たして。

 

 さて、愛を究極に美しく描ききっている『ユーリ』だが、いったん序盤にあげた増山やその作品達の様子に戻る。彼女の出馬では「愛のある政治」がアピールされ、彼女の著作物では「戦争よりエロスを」と唱えられ、自らか誰かからのあだ名か「エロテロリスト」と肩書きされるといった具合に、彼女の活動の根底にあるのはエロスとエロスへの敬意である。それによって愛を纏った作品達はしばしば、公的な美術館に展示されたり大手ギャラリーで売買されたり海外のオークションに並んだりして、金銭に変換されている。

 ところが国内外の言論人なり美術評論に携わる者が権威をちらつかせながらそれらを称賛したり擁護したりしているかと問えば、そういった姿はあまり見られず、特に参院選出馬などの話題でメディアに紹介されることは多くあれども、あくまでそういった人が活躍しているというだけしか踏み込まれない。なぜ作品の内容を語られにくいのか、理由の一端は前章の通りだが、もう一つに、社会の中にある女性蔑視的なものを牽制しようとする意思が挙げられる。

 彼女による作品の多くは女性的でエロティックなもので、かつ週刊誌の見出しのような下世話に消費されるイメージと関連づけられやすい。なぜわざわざ高尚な芸術、美術作品に品性に悖る要素を負荷させるのかは、前章でも触れた通り、それは性的なものごとに関わる人、特に女性を軽蔑すべきでないという作者の思想からくるのであるが、となると第三者が解説しようにも、要素が多すぎてアンチ・フェミニズム的な嫌疑を恐れたり、もしくは紙幅が足りなかったりすることになる。女性の肢体を淫らに露悪した作品群を前に、作者の思想が女性蔑視的では決してないと主張するリスクを負ってくれるプロの批評家がほとんどいないのは予想に難くないし、実際そのような人物はいない。むしろ彼女はミソジニーと同一化、つまり女性蔑視に屈して染まったタイプの存在であると解釈する方が容易いのだ。遅々として進まない国内のフェミニズムの側に立って女性の権利を守り、主張しようとする流れから見れば、仮にアンチテーゼだとしても、女性の性的かつ露悪な表象と、運動が相容れないのは明白である。

 

 フェミニズムとバックラッシュが不思議な均衡を保ちながら同時に流れている現代日本で、エロティックなカルチャー、サブカルチャーはヒットしたり眉をひそめられたりを繰り返すが、初動で3.5万枚を売り上げた大ヒットのテレビアニメ『ユーリ』は、突き詰めたエロティックを抱えながらなぜ、多くの人々に支持されているのか。

 そこでは性的いかんにかかわらず、愛や色気を発する人物像が男性ばかりであることが重要だ。作中では清潔と表現される『ユーリ』の色気はどれも間接的で、温泉に浸かるシーンでもなければ特にこれといって人物が裸体になることがないといった具合に、ただ肉体を多く露出させれば歓迎されるエロスが描けるとは考えていないことが読み取れる。追加するなら、例えば東京メトロ公式の女性キャラクター「駅乃みちか」の、キャラクターコンテンツ「鉄道むすめ」とのコラボレーションで披露された「萌え絵」について、多くの人々から「性的だ」と非難を浴び、デザインが一部修正された出来事は記憶に新しい。その事件と似た現象が頻出していることを思えば、アニメ『ユーリ』の制作スタッフに、中途半端な女性的エロスは大衆に歓迎されず、むしろフェミニズム的視点から顰蹙を買って攻撃されると、承知されていたのは疑いようもない。

 それでは女性の肉体をふんだんに露出させた過剰なエロスを表現しながら国民的に支持されている、漫画とアニメのキャラクター「峰不二子」はどうであるか。このキャラクターは『ルパン三世』(1967年〜、モンキー・パンチ原作の漫画とテレビアニメ)のメインキャラクターの一人で、色仕掛けを得意とする女盗賊、スパイである。2012年には『ユーリ』と同じ監督、山本沙代が彼女を主人公とした作品『LUPIN the Third〜峰不二子という女〜』を手がけ、テレビシリーズとして好評を博したことも外せないが、こちらのケースでは少々、事情が変わる。

 フェミニズムの勢いが現在とは異なる60年代から『ルパン三世』や「峰不二子」はヒットの潮流に乗り始め、シリーズの中では、国民的な人気を超えて世界的に支持されているアニメーション監督、宮崎駿によって劇場版が制作、公開されたことまであったが、この時、彼女の姿は他の作品とは趣が異なっていた。そこでの「峰不二子」は他の作品のように、おろかな物欲にまみれたエロティックな存在ではなく、贋金造りをしている悪役の秘密を暴いて敵味方の垣根を超えた結束をもたらしてくれるトリックスター的存在だったのである。現在、総合的または最大公約数的に大衆に好まれている「峰不二子」のイメージは、そういった様々な人によって、巧妙に作りかえられながら現在の状態に形成されたのだ。

 「峰不二子」像は時代の流行に合わせ、時々の価値観に沿って多種多様に変化し、大衆に受け入れやすいようイメージを微調整させているので、彼女の表象について、記憶との違和感をおぼえるも者も多いと風聞される。加えて、彼女が「消費される女性像」として振る舞う様子が描写、公開されても、設定とストーリー的には、最後に自分が笑うために仕掛けた巧みなハニートラップとしての演技であるので、搾取され、消費される女性像とは内容がまるで異なってくる。よって「峰不二子」は、60年代から巧みに積み重ねられた根強い好感度からくる目溢しが有効であるだけでなく、設定と筋書きによってフェミニズムからくる反感を回避しているのだ。圧倒的な好感度にサポートされることもなく、充分な物語性の付与もされていない増山作品とは、女盗賊の表情のようにまるで条件が違っている。

 

3:「デザイン」から見る

 

 現代社会はデザインが支配している。

 芸術や美術の名が冠される作品の多くは、手書きの絵画といったコピーのない一つ限りの物質であるが、複製技術が発達した今日、金銭に変換される商品の多くは複製品となっている。それは物自体が作品や商品とされるというよりは、状況や関係、構造が重視された結果でもあるのだ。

 例えば今日、出かけた先のレストランで好みのBGMに出会ったなら、人々は手元にあるスマートフォンからその場で、出会った楽曲を購入し、堪能することができるようになった。これは楽曲そのものの魅力もあるが、その楽曲とレストランで初めて出会った感動や衝撃を購入しているという部分が重要だ。実際にお金を払いたいのは商品だけではなくて、所有欲を満たすことも含めたある種の経験に対してであるから。スマートフォンの、音楽をダウンロードで購入する機能は、そうやってデザインされている。

 ワンクリックで音楽が購入できるiPhoneなどのスマートフォンは2007年頃から登場、普及し始め、総務省の発表によれは2015年には世界で半数以上のシェア率となっている(図1)。

図1:世界の携帯電話販売台数に占めるスマートフォンの販売台数の推移(推計) 《総務省ウェブサイトより抜粋》
図1:世界の携帯電話販売台数に占めるスマートフォンの販売台数の推移(推計)
《総務省ウェブサイトより抜粋》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この、ラジオカセットレコーダーやCDを使うことなく音楽を楽しめる道具の普及により「若者のCD離れ」がさらに頑強なものとなった。増山がアート、美術や芸術と一体化させながら政治活動を展開していた2016年ごろ、国内の20代の若者に限定すればその普及率は94パーセントとの統計も総務省によって出されている最中、彼女は参院選で自身の出馬をアピールする一策として政策をアピールする歌詞の楽曲を詰めたCDアルバムを制作、販売していた(図2)。CDのプロモーションとして流されている『Charmin’社民党』の歌と映像を視聴してみよう。

 まず目に入るのは都会のビルに朝日がさしている映像で、明るい前奏に朗らかな歌いだしが続く。テンポが良くて、あまり選挙とは関係なさそうな印象だ。ところが、そのまま耳を済ませていれば「僕らが寝ぼけているうちに世の中は えらい政治家が変えてしまうかも NO!NO!NO!」と、分かりやすいメッセージがそのまま歌詞となっていて、やはり選挙のためのアピール曲なのだと再認識する。「Charmin’ Charmin 社民党 偉ぶらない政党」予想外に語呂もテンポも良いサビがやってきたかと思えば、続いて流れる候補者である増山の映像と同時に、歌詞は「真剣にやるよ」とまたアピール。しばらく聞くとテンポが速くなり、ラップのように「話になんない わけがわからない 誰が望んでる 原発稼働」「話になんない わけがわからない 戦争法制 何のため?」社民党や候補者の方向性を分かりやすい歌詞で歌い上げる。党首の吉田ただとも、福島みずほといった社民党を代表する政治家も映像に登場し、凛々しくその姿を披露している。全体的に、映像については玄人の腕前も作り込みも感じられないが、楽曲については、政党と候補者についてのイメージアップをはかりつつ方針をざっくりとした詞に乗せた、無難で楽しげなポップミュージックに仕上がっているといったところだ。現在でも銀行振込やカード払いのネットショッピングで、送料別の代金にてCDを購入してもらう形になっている。

 個人や団体の「収益」と、市民のための有用性を前提とした「公益」の二つの間にある不均衡を注視して複製品の時代的意義を反映させることも、コンセプチュアル・アートのテーマの一つであるので、着眼点としては最先端の美術を認識できており、現代アートの文脈からであれば一見の価値はあろうか。

図2:増山麗奈によるCDアルバム『ママ増山れなのますます元気!』ジャケット 《ウェブサイト、増山麗奈ショップより引用》
図2:増山麗奈によるCDアルバム『ママ増山れなのますます元気!』ジャケット
《増山麗奈公式ウェブサイト、増山麗奈ショップより引用》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかしどうにもこれは、時代遅れの「音楽CD」である。スマートフォンに先駆けて流行していたフィーチャーフォンでもかなりの楽曲を再生できるので、音楽CDを用いない音楽ライフは当時から既に浸透していたが、より高度で多様な機能を持つスマートフォンには「お金のかからない娯楽」としての側面が更に大きい。参院選における彼女のターゲットの、あまりお金のない人々や若年層はスマートフォンだけ持っていて音楽CDの再生機器を持っていないことが多いのだが、彼らにアピールしようとして再生する道具を持っていないCDアルバムの企画をデザインしても、効果が薄いどころか反感を買いかねない。

 他の要素を見ても、楽曲はプロのミュージシャンによって手がけられた耳に心地よいものであるが、政党と候補者への投票を促す宣伝としての役割が大きいアルバムなのだから、無料で誰でも聴けるようにデザインして大衆への普及を促さないのなら、そもそも制作する必要も見えてこない代物だ。のみならず、購入希望者の送料負担を軽減するためにダウンロード方式での販売も同時に行うといった気遣いも感じられないので、広く国民にアピールする狙いが本当にあるのかという部分すら疑問がある。

 それに加えて、このCDのジャケットでは背景に広い面積で彩度の高いマゼンタが用いられており、それによって中央に配置された彩度を抑えた彼女達の写真は、全体を通して結果的に、奇妙な逆光のように見えてしまう。愛情に加え、元気や希望をイメージ、アピールしようにも、その看板の一つが逆光のように見えてしまう写真では人々に不安を与えてしまうのは言うまでもなかろう。なにも逆光や、逆光のように見える人物写真の全てが不安げなイメージをはらむわけではないが、ここでは高彩度の背景との対比で髪や影の黒色が必要以上に強調されているため、このCDジャケットは色彩心理学から「不安」や「悪」「黒幕」といったネガティブなイメージを喚起しやすいデザインとなっていると分析できる。これでは「明るい未来」のイメージにそぐわないし、また、いくら笑顔でも「黒幕」に見える人物に投票する国民はあまりいなそうだ。

 増山本人がこのジャケットデザインを手がけたと言うが、ファイン・アートに関してはさておき、彼女の平面デザインに関する腕は前述の文章からわかるように未熟だ。「ジャケ買い」という言葉があるほどに音楽CDにおいてジャケットは重要であるのに、なぜきちんとしたデザイナーを、必要最低限の資金や手間、人材の一つとして準備しなかったのか甚だ疑問である。どんな製品でも、販売システムや表面のデザインに製作者の都合から致し方ない悪影響が現れることがあるが、それにしてもこのデザインは手ぬかりが多い。このCDに顕著なように、結局のところ彼女が当選しなかった理由の一因には、各種デザインの行き渡らなさが挙げられる。

 

4:「表現者」を見る

 

 さて、これまで増山の敗因について分析してきたが、彼女の欠点を論うだけでこの国の芸術と現実の間に開いた溝が埋まるわけもない。アートの次なる進化の段階は、美術史家のトーマス・クロウの分析によれば次の三点にまとめられる。

 

  • それは、完結することなく、存続して役立つものとなる。

  • それは、(せめて想像の域であっても)その分野に詳しくない人々との、あたらしいつながりを保とうとする。

  • それは、美術の展示や消費との極めて密接な制度監修を超えて、世界との切実な関係の可能性を示そうとする。※

 

 一見するとアートと関係のなさそうな参院選出馬は、上記の三つの条件を満たそうとして突き詰めたものと合致する。増山が社会学やデザイン、商業音楽といった他分野と交わり、不特定多数の人々への間口を広げていこうとする取り組みに批評的な意識があったかどうかが疑問だとしても、結果的に方向は美術史家が睨むものと一緒であった。ただしこれらは、つまるところ「公共性」という伝統的な主題を「大衆性」へとマイナーチェンジさせているものであるので、そこに合わせた転換を必要とする。分析してきたように、増山にそこへの手落ちはあるが、現在は、美術史とメディアの断絶、今日的な公共のあり方の批評性、そして、歴史化したかつてのコンセプチュアル・アートとの新たな関係を築く取り組み、これら全ての点に立脚した表現こそが待たれる時代だ※。そんな中で、いたずらに多くの人々と繋がろうとするだけで属性的なスタンスが見えない動向が頻出する中、増山の立脚点はスタンスが明瞭であるのは疑いようもない。誰よりもコンセプチュアル・アートの今後のありように相応わしい考え方を備えることができている人物の一人だ。

 また確かに言えることは、社会の日常に潜んでいる政治性に対する意識を引き出し、それを表現の俎上に乗せることで作品を生み出して、更にそれを金銭に変換することにも成功している彼女は一人前の美術家の一人とも言えることだ。もしこれがアクティビストであれば「どれだけ他人を変えられたか」が評価基準だが、アートというものは「どれだけ自分を揺さぶることができるか」を実験するものである。どんなに活動家のように見えてもアーティストであることをやめない増山にとって、2016年の参院選が自己の内面を揺さぶる装置として作用したのなら、外側からは見えないが、彼女の出馬は成功している。

 表現者というのは、「自分とは何か?」という答えのない問いかけを続け、自画像ではない自画像を描く生き物である。これまで分析してきた増山は、直感ばかりで動き回る脇の甘い天然作家といったふうで、出馬に関してもバッシングが高まり、出馬を取りやめるよう要求する運動まであった。無理解な大勢に攻撃されながら、しかし彼女は、やらないではいられなかった。佐々木敦は表現者について、著書で次のように語っている。

 

あってもなくてもいいものであるからこそ、それでも芸術を為そうとするからには、「何が出来るか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」という問いよりも、むしろ「何をしないではいられないのか?」という問いの方が重要なのではないか

 

 自身の内側にある「しないではいられない物事」の声に耳を傾け、荒削りでも未熟でも臆すことなく行動に出してみるスタイルを貫いている彼女は、いわば「行動力の人」である。公式ウェブサイトに誤字脱字が目立ち、デザインは穴だらけでコンセプトがぼんやりしていても、健康に恵まれたことから彼女はひたすら行動を起こし続けている。それは一般的に考えれば行動ばかりが先に立って頭が追いつかない、コストパフォーマンスの悪い阿呆と言われるタイプだ。そんな彼女には、画廊で作品を売るために、自分から積極的に来客にトークを仕掛け、来場者がいる限りそれを一日中でも連続して行うといった地道な努力の実績がある。別の監督による彼女のドキュメンタリー映画『桃色のジャンヌダルク』で絵について、自らが出演しながら「学生時代からプロの画家として絵を販売していた」と語っているが、当時から現在まで彼女による絵画がしばしば売れているのは紛うことなき事実なのだ。

 けれど、見てきたように増山は常にどこか抜けていて頭が悪い様子で、言動のどこを評価したらいいのか分かりにくい。だが幸いにも唯一とも言えるその欠点を強みとして活かせる特権的なアートの世界に入り、プロとして今も生計を立てている。結婚を楽しんで子育てをしながらアーティストとしての矜持を保ち続けることができている彼女について、太い実家から金銭の援助を受けていると思いきや、その部分は自分の絵の売り上げで子供を育てているのだから、作品が売れないと嘆く業界の若手はすべからく、彼女にプロの一人として敬意を払うのが筋だ。その上で嗅覚は確かで、美術史家が分析する、今日のコンセプチュアル・アートが目指す次なる段階と合致した活動を目指してもいる彼女の創作物達が、いつ一皮向けて洗練されるか知れないのだから、彼女は、うかうかと見過ごしてはいけない重要な現代美術家の一人にカウントし、注視すべき対象なのだ。

 少々、絵がかけたり立体が作れたり賢かったりしても、ファイン・アートの界隈をさまようばかりでプロへの道が見つからず、次第に他の職業へ消えていく「美大、芸大くずれ」が常に大勢発生し、増山だけに限らず知名度のある美術家に対してシニカルな態度をとっているが、それはまさにイソップ童話の「酸っぱい葡萄」でしかない。いつでも「食べていけるのは一握りの者だけだ」と囁かれる道を志すなら、残りの人生は負け戦への挑戦が連続するのだということは、初めは誰しもわかっていたはずであるのに、いつしか心境が安楽に変化してしまう。そうして「どうせ社民党公認で出馬したって当選などできまい」というふうに、負け戦を負けるものと決めつけるようになりがちだ。この政党の当選率の低さからそう読みとることがよくないのではなく、重要なのは「だからその行為は馬鹿げている」と感じてしまう部分にこそある。決してアクティビストではないアーティストにとっては、自分を揺さぶることができればそれは成功であるので、表面的な白黒のみで外部からの判断はできないのも忘れてはならない。もし、それを馬鹿げていると感じたなら、一世一代の負け戦に体当たりした増山の気概に対し、アーティスト志望者として、または一人前に少し足りない若手として、初心を思い返してみてほしい。

 

 

注:大森俊克著『コンテンポラリー・ファインアート 同時代としての美術』より抜粋

 

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