怪物の主題による変奏ー大山edition
私の部屋には怪物がいる。眠りと覚醒の境目に奴は棲んでいる。一度現れたきり二度と会わないこともあれば、同じ怪物が何度も姿を見せることもある。
小学生の頃だったか、ベッドの下で怪物を飼っていた。ワニの姿をしたそいつは鳴き声を上げることがなかったので、幸福なのか苦悩しているのかを私に知らせることができなかった。ごつごつした緑色の皮膚と黒い瞳を持つワニは、猛獣のはずなのにいつも大人しく、ほとんど動かないので、きっと衰弱しているのだと思い、遭遇するたび私はワニを憐れんだ。食事をさせなければもっと衰弱して大変なことになると焦り、台所からハムと牛乳をくすねて与えた。ワニはいつも私の寝ているベッドの下に隠れていて、ときどき、身動きする音と振動を感じたけれど、その姿を確認できるほどベッドの下から頭を出してくれるのは稀で、飼い猫のように頭を撫でたことはない。それでも、いつもそこにいて、たまにでも私が食事を与えているのだから、私が飼っているのだと思っていた。
波長が合った場合にだけ会えるので、時間が長く空いた時には、飢えや渇きに苦しんでいないか心配でたまらなかった。
ある時期の怪物は人の姿をして、西側の窓の向こうに住んでいた。ほぼ同い年の少年として活き活きと駆け回る彼と言葉を交わすことはほとんど無かったけれど、一緒に雪で遊んだり、お寺で偉い人の話を聞いたりするうち、彼に憧れを抱くようになった。
少年にはどうやら「わたる」という名前があるらしいので、私はいつしか、彼が駆け回る広大な空間のことを「ワタルの部屋」だと思うようになった。そこでの空はラベンダー色をしていて、真っ白な雪が一面を埋めつくしていた。けれど雪も、周りの空気も冷たくなくて、吐息が白く染まることはなかった。何もかも、まるで春先のような温度で統一されていたのである。空間には、わたる君の活動拠点らしき尖った屋根の建物があり、大抵はその近くで私とわたる君が遊んでいた。見渡せばポツリポツリと他の建物も見かけたが、うんと離れた四方は山に囲まれていて、それより向こうがどうなっているか、私には分からなかった。
いつも私服だった私が中学を卒業する頃、わたる君は学ラン姿だったので、第二ボタンを予約した。以来、会っていない。
眠りと覚醒の境目に棲んでいる彼らのことがとても気になって、いつも心の隅に引っかかる。画用紙を広げて彼らの姿を絵に表そうと試みたこともあったが、何度やってもうまく描けなかった。色も形もくっきりと見えているのに絵に置き換えられない怪物は何度も姿を変えて、あるいは存在を変えて、今でも、眠りと覚醒の境目に私の中にやってくる。
最近の怪物は、部屋の形をしていた。細長くて斜めになった間取りのワンルームで、ドアの向こうは暗い迷路で出ることができない。壁の一面はガラス張りになっている。高層階で、ガラスは嵌め殺しだ。部屋に差し込む日差しは凍りついたように動くことがなく、いつでも午前中だった。窓の向こうに大きな川が見える。そこでは時々お祭りが催されていて、大人が立つことができる深さの水面に、ハッピ姿の大勢に担がれた神輿が踊っていた。金色の飾りがしゃんしゃん揺れているのと木材に塗られた朱色が眩しくてたまらず、スマートフォンのカメラで撮影を試みるも、手元が狂ってうまく写せない。けれど眼球にはいつだって、水面に反射した朱と金色の、きらめいてゆらめく動画が記録されている。それはピピロッティ・リスト作品のようでも、モネや宮崎駿の作品を足して割ったようでもある。きっと伏見稲荷の狐様に会えたらこんな風に見えるであろう。
先日の怪物は、また人の姿をしていた。少年ではなく大人で、いかにも会社勤めをしているような風体だった。ぴっちりした七三分けに紺色スーツの痩せた男が、寝室の姿見の中から扉を開けてやってきたところを、私は視界のはしで捉えた。私はベッドで横になっていたので、顔を起こしてそちらに向けると、男は素早く軽やかに体をひねって、姿見の中にある扉を開いて戻って消えてしまった。しばらくすると、また姿見の中の扉が開いて怪物が現れた。今度は女だった。ウェーブがかった長い髪に、まるでバブル期のようなボディコンのワンピースを合わせている。その体の線はだいぶ細い。足元は見えなかったが、きっとコーディネート的にハイヒールなのだろう。けれど私が顔を向けると、またすぐ姿見の中の扉に戻ってしまった。女も動作が軽く滑らかだった。
幽霊なのだろうか、ひょっとして。だって怪物にしては仕草が人間くさい。それに、すぐに隠れてあまりはっきり見えないのは、どうも怪物らしくない。怪物はいつだって悠然と私の眼球に映ってくれるのだ。そして私は、幽霊について聞いた話を思い出した。
とあるお婆さんが、頻繁に幽霊と遭遇するらしい。幽霊たちは心残りを抱えた迷子であり、未練を誰かに聞いて欲しくてやって来るのだという。ある晩、眠っていたら幽霊に起こされたとか。それは長い髪を振り乱した女の霊だったので、人に頼みごとがあって不躾に睡眠を妨害するのもどうかと思うが、髪が乱れているだらしなさに腹が立ってたまらなかったそうだ。それで「話は聞いてやるから、初対面の人に会いに来るなら髪くらい梳かしてきなさい」と叱りとばすと、女の霊はスウッと姿を消して、身だしなみを整えて出直してきたのだと。あまり怪談話らしからぬが、実際に幽霊と遭遇する時はそんなものなのだろう。
次いで、元カレから聞いた「妖精が現れる部屋」の話も思い出した。聞いたのは私が大学一年の時だ。元カレが友人宅に宿泊していた夜中に、窓辺がきらきらし始めたらしい。家主である友人に声をかけると「この部屋には妖精がいるから」との返事。薄暗い部屋の窓辺の不自然なきらきらは数分で消えたが、とにかくそれは妖精なのだと。法政大学を卒業している私より年上の元カレは、そういう物件が時々あるのだと締めくくっていた。
けれど私の寝室にある大きな鏡から出てきた男女は、幽霊にしては、やってきた用件がよくわからないし、きらきらした妖精とも印象が程遠い。そもそも私が知っている妖精はきらきら光るものじゃない。幼い頃に近所の公園で妖精に遭遇したことがあるが、そいつは光ってなどいなかった。
晴れた昼下がりに、同い年の幼女と小さな公園で遊んでいた時のことだ。シロツメクサが生えているエリアに、白いふわふわが一かたまり、頭上からゆっくり降ってきたのである。幼い私はそれを、空の雲が落ちてきたのだと思い込んだ。なにせ、ドラえもんとのび太が青空に浮かぶ白い雲まで登って、雲に乗って遊ぶシーンを観たことがあったし、当時の私にとって雲は水蒸気ではなかったのだから。その白いふわふわが風の流れに沿わないで漂う様子は、雲にしては少々おかしいが、私は子供らしい好奇心で手を伸ばして掴もうとした。
ところが、手で触れるや否や、触れた部分が消えてしまう。何度か試して、触れると消えることを私は学習した。徐々に下降するふわふわを注視していると、気づいた同い年の幼女がやってきて、彼女もふわふわを掴もうとした。そして彼女の手に触れた部分から、ふわふわはまた消え始めた。私は「さわると消えちゃうからさわっちゃダメだよ!」と強く叱った。私たちは、だいぶ小さくなったふわふわが土とシロツメクサの地面に触れて完全に消えるまで、黙って見つめていた。そして、現場に居合わせなかった子供や大人たちに、空の雲が目の前まで落ちてきたと話して回ったが、誰も取り合ってくれなかったのだった。
大人になってから、あれはケサランパサランと呼ばれて、昔から目撃され続けている妖精なのだと知った。長くなったが、妖精というのはそういった感じの存在であって、決してきらきらしない。ましてや鏡の中の扉から出てくるものでもないから、寝室に現れた男女は妖精ではない。
それなら、やはり怪物の新形態なのだろうか。今までの怪物とは趣が異なるが、眠りと覚醒の境目に痩せた男女が、ルイス・キャロルよろしく鏡の中からやってくるのが続くなら、そう認めよう。果たして彼らと会話は可能だろうか。話せば意外と楽しい奴らかもしれない。それとも、今までの怪物とは違って、彼らは私をあまり感動させてくれなかったらどうしよう。そしたら文句を言って追い出してやろうか、きっと姿見を外せば寝室にやって来られないだろうから。
けれども、もしかして他に住めるところがないのだろうか。だとしたら、ワニの頃のように世話してやらねば可哀想だ。怪物が鏡の中の扉の向こうに帰れなくなっても、なんとか生活できるようにしてやらなければならない。飲食物を与えて、トイレや洗濯機、お風呂も貸してやろう。
だってきっと怪物の棲家は、私だけの空想の星だから。
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