印刷

片思い化する社会

長続きするたった一つの愛は 片思い。

《ウディ・アレン》

 日本発のオタクコンテンツが諸外国にも広まっている中『モンスター娘のいる日常』(2012年〜、オカヤドによる漫画)が、2013年からアメリカのBest Sellers“Manga”部門で連続1位を獲得し続けていると『The New York Times』が報じた。国内でもヒットしたこの作品は「モンスター版うる星やつら」とも呼ばれて『うる星やつら』(1978年〜1986年、高橋留美子による漫画とそのアニメ版)の亜流と捉えられる。また、隆盛している多くのライトノベルや漫画、アニメなどでおなじみの要素「押しかけヒロイン」や「ハーレム」もの、ヒロインが一方的に主人公の少年を愛したり振り回したりすること、異能の力を持っていることなどは、どれも『うる星やつら』を原型にしている。ストーリー設定やキャラクターデザインといった表面は着替えているが、今なお『うる星やつら』の本質は大衆に支持され続けているのだ。その本質とは「永遠に続く片思い」に他ならない。どういうことだろうか。この作品の大筋を確認しよう。

 男子高校生「諸星あたる」は手違いで、強大な技術力、軍事力、戦闘能力を持つ宇宙人ヒロイン「ラム」と婚約する。「ラム」は彼を気に入り、交際や結婚を望み、勝手に彼との同棲生活を始める。しかし「諸星あたる」は浮気するばかりで「ラム」の求愛を受け入れない。心の奥底では次第に「ラム」を大切に想っていくが、表面的には拒絶し続ける。こうして作中では、求愛を続ける「ラム」と、それから逃げ続ける「諸星あたる」の様子が、物語の大半で描かれる。

 地球人より優れた技術を有し、経済面や社会的地位に恵まれている「ラム」は、身体能力に優れ、才能があり、なかなか頭脳明晰だ。加えて美貌の持ち主でもあるので、生涯のパートナーとして申し分ない。なので「諸星あたる」の、理由を明示しないまま求愛を拒否し続けるさまは、中盤以降は不自然だ。また、冴えない少年が理由なく美少女に愛される構図は、一見、男性目線の都合の良さから成立しているようだが、実はこの物語で男女の優位性は逆転している。それを明かすには「諸星あたる」が「ラム」の求愛を拒絶し続ける理由に着目するだけでよい。もし彼が求愛を受け入れたら「ラム」の恋が成就してしまうことだ。女性目線から見た都合の良さで考えれば、恋愛は、場合によっては成就しすぎない方が良いのである。

 内閣府による男女共同参画に関する世論調査によれば、結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はないと考える人は42.8%で、年々増加している。また、周知の通り日本は晩婚化、非婚化の進行、離婚率の上昇のように「結婚離れ」し、生涯未婚率も上昇の一途で、このまま行けば男性の三人に一人、女性の四人に一人が一生独身になる。

 「恋愛は片思いの状態が最も楽しい」と人口に膾炙しているが、恋愛が成就した先に、多くの女性に出産が課せられる現実と繋げてみれば、結婚や出産を必ずしも望まない社会へと移行しつつある昨今なら特に納得がいく。そんな「恋愛をするのは構わないけれど、成就の後に結婚と出産を強いられるのは不本意だ」との意見や考え、価値観と『うる星やつら』のメッセージは合致する。高橋は、いつか結婚や出産をするかもしれないけれど勉強と恋愛に専念するだけでいい子供の時期、つまり高校生活を繰り返し描いた。敢えてキャラクターを大人へと成長させずに「恋愛の楽しさ」を、高校生の結婚や出産は短兵急とする規範意識を担保に、成就しすぎない形で展開していった。

 つまり、高橋が女性原理を大切にしながらイメージする、成就しすぎる心配を排除した理想的な恋愛の一つとして表出したのが『うる星やつら』という不可思議な物語なのである。その本質を受け継いだ多くのコンテンツ達が、現在も老若男女に大きく支持されていることから、人々の中にある、恋愛は楽しみたいが結婚や出産には消極的な欲求が透かして見える。人々は永遠に続く片思いを望んでいるのだ。そう、社会は片思い化している。

 

 日本は五世紀頃から「女子と小人」をどう支配するかを最大の関心とする支配階級の思想、儒教を導入した。その教えは、武内義雄『儒教の精神』によれば「夫は外に出て公務に従事すべきもの、婦は家にありて内を治むべきもので、お互いにその本分を犯してはならぬ」「女性は家の内をあるべき場所とし、男は家の外をあるべき場所とす」「男は家庭内のことに口出しすべきではないし、女は家庭外のことに口出しすべきではない」といった差別的なものだ。近代からは教育勅語などに儒教の一部を取り入れて奨励し、現在でも多くの日本人は知らず知らずにその影響を受けている。それもあって近現代社会は儒教的な男女の結婚生活を前提にして作られている。それでは現代人の生き方と社会との齟齬が生じるのは当然だ。既に、儒教的価値観の元では、男性は口出ししてはならない部分にして女性だけの仕事とされる分野、介護や育児などで、人手が足りなくなったり、賃金が行き渡らなかったりして、深刻な社会問題になっている。

 そんな中、男性は「寿退社」でも育児休暇でも産休でも専業主夫でも、儒教的な価値観のまま、それは宜しくない、情けないと見做されやすい。家庭進出しようとすると「ヒモ」などの蔑称で呼ばれたり、パタニティーハラスメントに遭ったりすることからも、男性の家庭進出が遅れているのは明白だ。この状態では、結婚した女性には、社会での仕事と家庭での仕事の両方が課せられるので、もし出産したら女性にかかる負担は過度となる。その負担がどれほどかを知る手がかりとなる、具体的な数字を示そう。

他殺という原因による死亡者数
他殺という原因による死亡者数  《日経DUAL 舞田敏彦著 より引用》

 厚生労働省によれば、2009年〜2013年で他殺された死亡者数は0歳の乳児が最も多い。そして児童相談所の虐待相談の統計から、乳児を殺害した加害者の多くが、夫が家庭進出していない女性(妻、母)なのである。つまり男性(夫)が家庭進出せず、出産後のオーバーワークを女性(妻、母)一人でこなさなければならない状態では、その女性(妻、母)は耐えられずに我が子を虐待死させるケースが多いのだ。無論、出産した女性が全てそうするのではなくても、強いられる過度の苦痛から、乳児への虐待を犯した方がましであるといった気分や考えに陥り、死亡させるまでそれを実行する女性(妻、母)の数字が、他のケースの他殺の数字より圧倒的に多いという事実は動かない。

 したがって多くの女性は、結婚だけなら耐えられそうだが、もし出産したら、社会での仕事か、出産後の育児とセットになった家庭での仕事か、そのどちらかを手放さねばならないと脅迫される形だ。とすると、社会での仕事が生きがいの者なら、出産を優先して社会での仕事を一時的にでもストップさせる選択はありえないので、女性へ過剰な負担を強いる体制が是正されないうちは、何としても出産を回避せねばならない。男性にとっても、家庭進出したくてもできず、妻が自分たちの子供を虐待死させてしまう事態は望ましくない。

 しかし内閣府のウェブサイトでは「女性が働き続けることができる社会を目指して」といった見出しはあっても「男性の家庭進出が生活を調和させる」といった見出しはない。社会計画が片手落ちであるなら、男女ともに、出産につながりやすい結婚はしなくて良いと考えるのは自然な流れだ。加えて、少数派である家庭に入りたい女性は除くとして、過剰な負担にストレートに襲われる女性からすれば、特に出産を忌避する流れとなる。だから、恋愛を楽しみたい、そのあとに結婚するのも悪くない、けれど出産は「成就しすぎ」なのだ。

 もちろん『うる星やつら』は原作者の高橋だけで成功したのではない。アニメ版の多くを監督した押井守は、インタビューで明らかなようにこの作品を否定していた。中でも『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では作品世界を大胆に破壊した。これは『うる星やつら』が女性原理を強く全面に出した作品であるから、作品全体への拒絶を表明した押井はまるで男性原理を押し切ったかのように見えるが、実は違う。少し迂回しよう。

 敗戦後の日本人は、様々な次元でアメリカの支配にコンプレックスや不満、不安を強く抱いたので、それを解消したい欲求が前衛芸術作品として表れた。その最中、赤瀬川原平は『復讐の形態学 殺す前に相手をよく見る』(1963年)で、資本主義リアリズムを提唱した。言い換えるなら、人々に「今、よく見ないとならないもの」である対象を克服するために、逃避しないよう誘う作品である。この作品は国家と貨幣と芸術の繋がりを鮮やかに批評し、市民社会のメタ意識を具現化したものだ。日本人は敗戦によって様々な理念が失われつつあったが、こういった前衛芸術の勃興によってそれを取り戻せるように思われた。

 ところが強い批評性を備えたこの作品は、国家から糾弾される。かの有名な千円札裁判だ。美術史上に残るこの事件で、アーティストと批評家達は重大なミスを犯した。それは「これは芸術であるから犯罪ではない」と主張したことだ。これは一見正しいが、赤瀬川の作品は国家や社会、政治への痛烈な批判なのだから、芸術の価値を擁護しているようで、作品と作品の内容、つまり批評性や政治性や思想を無関連化させようとする主張は認められず、赤瀬川は有罪となった。この時アーティストと批評家たちは、日本のハイ・アートを創生する試みに失敗した。

 これを機に日本のリアリズム芸術は萎縮してゆく。社会全体が理念を見失い、メタ意識を持ちづらい時、それを取り戻そうと問題提起するのがアーティストの社会的責務であるのに、これ以降、日本のハイ・アートは低迷を続け、今でも世界のトップ群に追いつけていない。むしろ、だからこそ、日本ではサブ・カルチャーが大きく花開いていった。そして必然的に、本来ならハイ・アートが担うはずだった社会的責任を、部分的にだがサブ・カルチャーが代行するようになる。クレオール化の始まりだ。人々の中にある敗戦のトラウマを『ゴジラ』(1954年)が代弁し、屈折させられた精神を『あしたのジョー』(1968年〜1973年)が癒し、トラウマからの回復を『宇宙戦艦ヤマト』(1974年〜1975年)が呼びかけた。

 しかしあくまで、人々を楽しませて元気付けることを目的とした娯楽であるサブ・カルチャーは、楽しさに価値を置く日本人の同調圧力も相まって、人々に理念まで含めたリアリズムを提供できてはおらず、市民社会のメタ意識には到達していない。理念や社会全体のメタ意識が欠けている時、それを生み出そうとするリアリズム芸術を人々が求めるのは自然の流れであるが、人々がそれを求めて辿り着くサブ・カルチャーたちは、リアリズム芸術としては不備がある。サブ・カルチャーによる、理念までの包括ではない、中途半端なリアリズムに包まれた日本人の状態や価値観は当然、幼くなってゆき、幼さを積極的に肯定しながら楽しむコンテンツが隆盛する現在へ至る。

 日本のコンテンツが幼さを肯定するのが自明な状態では見えにくいが、高橋の世界観は、女性原理というより少女原理と表現するのが適切だ。それは『うる星やつら』の主人公たちが高校生という子供のままで、いつまでも大人へと成長しないことから明らかである。そう、無限に続く子供の恋を永遠に謳歌する少女趣味。結婚や出産は大人がすることだから、子供の世界には恋愛だけがある。大人になるのはタブーだから、結婚や出産につながる恐れのある恋愛は成就しすぎてはならない。だから「ラム」は永遠に片思いする。それはとても楽しい最高の娯楽だ。留意すべきは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で押井が否定したのは『うる星やつら』が徹底した娯楽であって芸術ではないという点である。「映画には娯楽的側面と芸術的側面の二つがある」と語る押井による『うる星やつら』世界への破壊行動は、ハイ・アートとサブ・カルチャーのクレオール化について、混交の按配が、幼い娯楽に寄りすぎている不均衡さについてなのだ。高橋は娯楽の追求を、押井は芸術の追求をそれぞれ目指すので、初めから目標が異なっている。つまり押井の主張は、日本における芸術の足りなさへの苛立ちであり、楽しさ、幼さを煎じ詰めた純然たる娯楽作品はもう手がけたくないという意思だった。押井は、しばしばロリコンと揶揄されるほど過剰に幼さを肯定する日本のオタクコンテンツ全体に対する拒絶を、たまたま『うる星やつら』の劇場版で表明したに過ぎない。幼いことに価値を置き、子供の恋愛だけを楽しみたいと志向する社会の「片思い化」がこの時すでに確固としてきていたからこそ、目標が異なる押井は反発したのであって、むしろ彼の『うる星やつら』への抵抗は社会の片思い化を裏付ける。

 後に高橋と押井は袂を別ち、前者は純粋な娯楽漫画を今でも製作し続け、後者は文化庁メディア芸術祭の審査委員となった。

 

 敗戦後にあらためて創造されるはずだった、日本のハイ・アートの繁栄は、千円札裁判でのアーティストと批評家たちの失敗から頓挫した。それを覆さないまま、否定性を基軸とし、批評性とリアリズムをもって社会への問題提起を痛切に表現するという社会的責任を果たしきれていないのが、日本の多くの美術、美術家、アーティストの現状なのだから、国内でアーティストの地位が低く見積もられているのは致し方ない。その上で、芸術、美術が背負っているのに果たせていない責務を、部分的にであっても代行しているオタクコンテンツなどのサブ・カルチャーが、ハイ・カルチャーに代わって大勢に強く支持されるのは至極当然だ。

 『うる星やつら』を原型とし「永遠に続く片思い」をメタ・メッセージに乗せて発信するコンテンツたちは、楽しさばかりを求める幼さを肯定すると同時に、片手落ちの男女平等への不安を暗喩しながら、大衆を魅了し続けている。こういった事態から導き出されるのは、怒りや悲しみが不可避な大人へ成長することなく、ただ楽しさだけを求めて遊び続けていたい幼さへの欲望と、それを支える、成熟しなくて良いという価値観だ。誰しも不安からは逃れたくなるが、それは幼稚な逃避でもあるとして常に己を律するのが大人の振る舞いだ。しかし幼さを認める価値観のもとでは、現実逃避を好んでも邪な趣味ではない。となれば、永遠の片思いに耽溺する娯楽はコストパフォーマンスが良い。なにせ、人間は一年を通して常に発情期であるので、いつでも恋愛の興奮を楽しめるのだから。恋愛の欲求はとてもプリミティブで動物的なだけに、非常に強い快楽なのだ。

 作り物のユートピア世界に染まる行為は、ただの現実逃避か、最終的には新たに開かれる未来へ繋がるステップかのどちらかだが、仮に前者だとしても、この価値観が広まった社会においては大したデメリットではないので、とても都合が良い快楽だ。だから人々は、出産や親になることで生じる苦痛、大人の責任から逃避できる、永遠に続く片思いの快楽を享受する。メディアは永遠に続く片思いを喧伝し、販売する。消費者は永遠に続く片思いを購入する。大いに浸ろう、永遠の片思いの快楽に。咎める者はどこにもいない。

 芸術と批評が汚名返上し、社会の男女不平等が是正される時が来るまでは。

 

文字数:6362

課題提出者一覧