レトルトカレーが微妙に高い
誰もが知る大手食品メーカー、ハウス食品からベジタリアン対応のレトルトカレーがリリースされた。これは日本のベジタリアン界にとって大きな躍進で、その英断によって多くの人々が勇気づけられた。しかしまだ価格が少々お高い。30個セットで購入してもカレー1パックあたり約244円。動物性食材を含むレトルトカレーなら探せば1パック98円なのだから、切実に痛いお財布は未だ楽になれない。
2020年のオリンピックで、世界中から様々な人が東京にやってくる。そのうちの何割かは確実にベジタリアンだ。具体的には、アメリカで14%、イギリス、カナダ、台湾で10%、そしてインドで42%もの人がベジタリアンとなっている。また、環境庁が今後積極的に開拓を図っていくべき外国人顧客層としてベジタリアンを挙げており、日本に新たなビジネスチャンスの到来だ。当然、ハウス食品からこのレトルトカレーが現れたのは来たる東京オリンピックに備えた布石である。
そんな日本においてベジタリアンはとても肩身が狭い。近年その数は増加しているが、周囲にそれをカミングアウトせず、自宅で一人だけの食生活を送るという、まるで隠れキリシタンのようにひっそりと生息している例も珍しくない。つまり今の日本ではベジタリアンになりたい個人の選択が認められる環境になっていないのだ。和、協調性、空気読み、大いに結構。けれど同調圧力に屈して食やそれにまつわる権利を選べないようでは、行動、思想、財産の自由が保証されている市民社会として、模範的とは言い難い。
そもそもなぜ、日本でベジタリアンはマイノリティーとされ、しかもカミングアウトできずにいるのか。その一つに、子供の悪口と同程度だが中傷が絶えないから、という事実が「ベジあるある」の中から挙げられる。「野菜だって生きているではないか」や「動物実験を経て作られた医薬品は服用するのだろう?」など、ベジタリアニズムへの根本的な誤解、曲解に基づく罵詈雑言が、日本のベジタリアンに向けて絶えず放たれる。周知のように、ベジタリアニズムと動物愛護を直結させるのは誤りだ。確かに「動物愛護ブーム」と呼べそうな現象がきっかけでそうなった者も存在するのだろうが。少し調べればわかる程度の仔細な解説は省き、最低限の補足だけ添えよう。ベジタリアンという食生活を実践する根拠や方法は実に様々であり、彼らを一つの思想のもとに一括りに捉えることなどできない。ただ、揚げ足を取りながらベジタリアン達を嘲笑する罵倒がいかに浅学菲才であろうと、手を替え品を替えて繰り返されては悪質となる。こういった現象について、ムラ社会的な風潮が根強い日本では「マイノリティーいじめ」とマイルドに言い換えた方が馴染み深いだろうが、どう言い繕っても端的に差別だ。
差別の根底には恐怖心があるという。生きていれば誰しも多少の恐怖心を抱えるが、その克服方法の一つが、自分たちより劣った人たちを見つけて攻撃することで自己を正当化するというものになる。そこに加えて、攻撃の対象に、属性でも容姿でも思想でも、自分にとって身近ではない未知の要素があれば、恐怖心はさらに高まりやすく、攻撃はしやすくなる。だから人類の歴史では常に「異端」が排斥され続けてきた。しかし、かつてはマイノリティーだった「黒人」の公民権運動は見事に成功し、人種差別は完璧にはなくならないまでも、レイシズムの称揚などいまや荒唐無稽である。全人口の半数でありながら男性中心社会の中では常に脇役だった女性についても、今では誰もが女性解放を声高に叫んでいるし、それらより歴史や規模は小さいが、オタク差別も影を潜めた。どうやら人類は徐々にではあるが、多様性を認め、違いを尊重しあいながら友愛を実践できる豊かな社会に前進しているようである。
しかし、経済効果という側面に着目してみると、事態はやや異なった様相を見せてくる。「黒人」をはじめとする有色人種は、どこからどこまでを何色の肌と識別するかはさておき、人口が多い。抑え付けておきたくても勢力が強くて難しいという要素は少なからずあった。また「女性」は前述の通り全人口の半数だ。それほど大勢でありながら、しかし社会の第一線での労働力とはあまり見做されていない者たちが有する、経済の世界に及ぼすポテンシャルは計り知れない。振り返れば、近年の日本の保守政権が進めようとする男女共同参画は、従来のままでは日本の経済が立ち行かなくなるという懸念から、女性を家庭の外の労働力とすることで経済の立て直しを図ろうという目的であった。オタク差別についても同様で、オタクカルチャーが世界中を巡ってくれる、いわば「ドル箱」だと判明するやいなや、やれクールジャパンだの何だのと新語を添えて持て囃し始めたに過ぎない。結果的にそれまであった偏見や差別がかなり緩和や撤廃されていったのだから、ここに誰も不満などあるはずもないが、世界人権宣言の理念からは動機が離れている。
それでは、ベジタリアンというスタイルへの差別はどうか。ここで少し、ゆるいペスコ・ベジタリアンである筆者の実体験を交えて綴ろう。
人間社会に於いて、飲食を共にする行為は重要なコミュニケーション手段だ。よって食事を伴う社交の場で何度も繰り返し質問される。「どうしてベジタリアンなのか?」と。そして、目的を社交とする場面なのだから、いくらでも挙げられる「理由」の中から適宜、話を膨らませやすそうな部分をチョイスして回答に充てている。例えば「高校生の時に食文化に疑問をもったことがきっかけ」や「体調を崩して、健康になりたい気持ちが大きくなった」や「アニマルライツの問題に取り組んでいるから」などだ。相手によっては環境問題に言及しても良い。
しかしそういった、嘘ではない程度の「理由」は、本質とはあまり関係が無いものだ。後付けされた枝葉であって、根本からは離れている。では、なるべく根本的で本質に近い回答をここで述べると、「なんとなく」になる。どういうことか。それは「髪型」になぞらえると把握しやすい。「なぜあなたは黒いおさげ髪なのか?」という質問への答えは、校則で決められているからだったり、病床に伏しているからだったり、作業効率を上げるためだったり様々である。一方で、考え抜かれたポリシーから、鮮やかなロングヘアや坊主頭を貫く男性、ぱっつん前髪であり続ける女性などがいることも知っている。
筆者は髪型をポニーテールに結い上げたり、都合でベリーショートになったりする。なぜかと問われれば、輪郭を誤魔化したいから、楽だからと答える。しかしどちらも本質的な回答に還元させれば「なんとなく」だ。
そんな時、別段、枚挙にいとまがない「理由」たちの中から、それらしいものを挙げて回答しても構わない。それとは別に、容姿に関するコンプレックスも水面下から影響していることだろう。ただ、そういった仔細な必要性をなるべく満たせるよう、ライフスタイル全体を調整していった結果「なんとなく」その髪型をしているというのが実際のところだ。
食に於いてもほとんど同じで、言い出したらキリがない細かな「理由」たちや、うまく明文化できないモヤモヤが複雑に絡み合った結果「なんとなく」今の様子に落ち着いた。緑色のワンピースを愛用していたり、部屋の換気扇の作動音がうるさかったりする「理由」が何であるのかと同じで、1つに集約できる明確な答えがあるケースとは異なる。言い換えるなら、鼻歌で『君が代』を歌ったり、歴史の教科書の顔写真に髭を描き足したりする行為が、傍目にナショナリズム、または権威主義への反抗のようであっても、当人にとっては特にそうではないように。歌うのも描くのも「なんとなく」の表現だ。誰に迷惑をかけるわけでもなく、ただそうしたくて、自由気ままに。
ところが、日本におけるベジタリアン嫌悪感情の燃え上がりようといったら、まるで親の仇でも取るかのような激しさだ。何を食べるかを、保証された権利の範囲内で選択し楽しんでいる様を「偽善者」と呼んで弾劾する。それは、「なんとなく」の集大成である表現として非肉食であることは公共の福祉に反さないはずだが、しかし社会的な意味を含ませやすいことが一因だ。確かに、髪型で例えるなら、頑強なフェミニズム思想を明確な理由に掲げながらショートのヘアスタイルを貫く女性のように、ベジタリアンである理由を常に明快に語りながら、主義めいたものを翳すタイプの者もいる。つまり過激派だ。その場合、日本では、肉食を好むマジョリティとは異なる思想を持ったマイノリティーであると見做され、いじめ(差別)の格好の標的となり、悪者とされて弾劾される。
だが繰り返すが、ベジタリアンは一つの主義、思想のもとに集結しているわけではない。敢えて全体の共通項を挙げるとすれば、それは気持ちを食のスタイルに適用させる表現者という点である。もし表現媒体が紙などの平面や舞台上、もしくは服装や髪型であればマイノリティーいじめ、つまり差別の対象にはなりにくいのだが、ひとたび「食」となると、日本では話が別となる。なぜなら日本には「もったいない」の精神が深く根付いているからだ。説明しよう。
「もったいない」という言葉は2005年から世界共通言語として広まり始めたが、もともと日本人に強く染み付いた感覚を示す。世界共通言語としては4Rの概念を一言で表せる言葉という位置付けだ。そして、ベジタリアニズムの中には4Rのひとつ、消費削減(リデュース)の目的が含まれており、ベジタリアンの中には「もったいないから」という理由での実践者もいる。「肉食は、限られた地球資源を過剰に消費してしまう。そんなのもったいない」というわけだ。
ところが社交を伴う飲食の現場では、そのイメージは転覆させられる。この部分は個々でかなり対応が異なるのだが、皿に出された調理済みの食肉を拒否して「食べ残し」にするタイプが槍玉に挙げられるだろう。飲食物を提供する側へ、予め動物性のものは購入や調理しないようお願いできるのがベストだろうが、それが叶わなくても「食べ残す」ことでせめてもの意思表示とする。それとは別に、自分では積極的に動物性の食品を口にしなくても、同席した友人達が食べ残した分だけは「もったいないから」として食するベジタリアンもいるのだが、このタイプは日本以外では非難されがちだ。
現状、増えすぎている肉食の割合を減らすことで、地球全体の資源の無駄遣いが削減できるはずでも、それは捉えにくい。むしろ飲食の現場では、目の前に食べ残された食肉そのものへの「食べ残すなんてもったいない」という感情こそ召喚される。日本の食料廃棄量は世界トップクラスであるので、食に関して「もったいない」と最も発言しにくい国民であるはずだが、そこは可視化されにくく、したがって日本人に「加害者」である意識がゼロであるのと同じ構造だ。そうして日本では、ベジタリアンへ「アレルギーでもないのに肉を食べ残す、わがままな悪者」という烙印が押される。
社交を伴う飲食の現場で非肉食を非難された場合、いわゆる「過激派」のように、それなりの理論武装を展開してみせるのも一つの手段だが「いじめ」の性質を知っているのだから、悪意ある多数から、まるで「魔女裁判」かのように理不尽に論難されると予想がつく。とすれば、わざわざいじめを受けに赴くようなものであるから、どうりで日本のベジタリアンはそれを隠したがるわけだ。
本稿で明かした諸々が原因の一つとなり、国内に潜在するベジタリアン志望者は踏み切りにくく、人口が増えにくい。その分、ベジタリアン対応食品の需要も未だ少ないままで、天下のハウス食品のレトルトカレーを買おうにも、1パックあたり244円も支払うことになってしまうのだった。こうした懐事情から踏みとどまっている層が多いことも想像に難くない。
ところが2020年になれば世界中から多くのベジタリアン達が東京に集ってくる。そうなっても日本特有のベジタリアン嫌悪感情は変わらず炎上していられるのだろうか。また、やや高価なベジタリアン対応食品ばかりが並んでいる状態で、食事を提供する側は困らずにいられるのか。もし、オリンピックが始まっても東京の飲食店で非肉食メニューがほとんどないままだったり、あったとしても表示がないままだったり、それどころか「ベジタリアンお断り」の張り紙を店頭に掲げたりしたら、差別だと世界中から糾弾されるのは火を見るより明らかだ。それ以外でも、飲食の場で店員や相席者などが彼らに難癖をつける態度を取ったとしたら。外国人にだけ大量のわさび入りの寿司を配膳してあざ笑っていた「市場ずし」を忘れてはならない。あちこちでマイノリティーいじめを起こして己の優位性を確認して安心する日本のムラ社会感覚は世界規模では通用しない。加えて彼らは、日本や東京にお金を落としてくれる潜在的上客でもある。つまり今のままでは二重に下策だ。
ベジタリアン人口が多い国や地域ではマクドナルドにベジタリアン対応バーガーが並び、特にベジタリアンではない層も自由に選んでそれを購入し、食を楽しんでいる。それと比較すれば、日本における差別がどういうことか、有り様がわかりやすく浮かび上がる。様々な次元から東京オリンピックは国内の時代遅れさを炙り出すが、このピンチをチャンスと捉えなければ、勿体ない。
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