2つの漫画と2組の夫婦
【課題1】
【課題2】
この瞬間をわたしはどんなに待ったことか!!
沈黙しているお前に向かってひと言以上しゃべる機会をどんなにかユメ見て来たことか……
いいたいことは山ほどある わしは…… わしは……
52歳になるサミュエル・クリンゲラインは宇宙局長でありながら、自らパイロットとして太陽系の極限に挑む航海へ出発した。わざわざ宇宙の彼方まで移動し、送られたアグネス夫人の画像に一方的に話しかけるしかできない状況になってやっと、無口なはずの彼は堰を切ったように語り始める。これが『老雄大いに語る』(1976年、藤子・F・不二雄)の筋書きである。回想シーンでは、健康のために作った野菜ジュースを夫に飲ませようとするアグネス夫人とのやりとりが描かれている。夫が嫌いな野菜ジュースを飲むのを渋っていると、夫人は激しく話して彼を説得し、それを飲ませる。しかし彼が野菜ジュースを飲むことをためらっていたのは、タバスコを入れすぎていたからだった。
ここに登場する夫婦が深い愛情によって結ばれている可能性は、充分にあり得る。というよりむしろ、彼らは実に仲睦まじい。どういうことか。
夫は、沈黙した妻に向かってたくさん喋ってみたいと欲しているが、もしこの二人の間に愛情がないのであれば、その機会を作ったり待ったりすることなく、速やかに妻から離れれば良いだけである。ここに仲睦まじさを見出さないことの方が難しい。誤ってタバスコを入れすぎた野菜ジュースのエピソードも、愛情のなさではなく、夫婦のコミュニケーションのたどたどしさを可愛らしく描写しただけにすぎない。決して無機質ではないホットな、愛情を帯びて仲の良い夫婦の「不器用さ」を示すこのエピソードは、むしろ夫婦の仲の良さを印象づけるのみだ。
この作品の読解に不可能なのは、極めて強い愛情によって結ばれている可能性ではなく、そうではないと解釈することの方である。愛情がないのであれば、社会的に成功している夫は今すぐにでも妻と離縁すればいいし、妻だって、もし生活に不満があるなら、シェルターにでも駆け込んで助けを求めればよい。しかし彼らはそのようなことは行わず、互いに少々の不器用さを抱えながら円滑に生活している。そう、彼らは不器用だ。夫婦の間には、愛情のなさではなく、ただ不器用さが横たわっているだけなのだ。愛情があるがしかし不器用であることと、愛情のなさは似て非なるものであるどころか、真逆の性質を持つ状態である。つまり、彼らの間には愛情がある。そして、彼らを結びつけているのも愛情である。
一方『コロリ転げた木の根っこ』(1974年、藤子・F・不二雄)に登場する夫婦の方は、愛情ではなく憎悪で結ばれている。
女房なんて力づくで押さえるべきものだよ。けっきょく、女がしたがうのは男の強さなんだから。
なにをいうんだね あそこまで飼いならしたのはぼくだよ。ヤツも最初は猛獣でしたよ。ぼくが牙を抜き爪を切ったんだ。なによりきいたのが最初の一発だったね。新婚第一夜!ぼくがなにをやったと思う?ヤツをほったらかして芸者買い!!
妻をまるで人間扱いしていない夫はこう語りながら、理不尽な理由で、妻をひっぱたいたり突き飛ばしたりするのであった。妻の方は、従順に夫に従うフリをしながら、事故に見せかけた夫の殺害をはかっている。
彼らの『老雄大いに語る』の夫婦と決定的に違うところは、DVが確かに存在するということだ。その上で、夫は時間をかけて計画的に、妻を、逆らいたくても逆らえないように仕向けたので、妻が離縁したり、DVを訴えてシェルターに駆け込んだりしていない理由はそこにある。しかし、できる範囲での打開策として、事故に見せかけた夫の殺害をはかっている妻の姿は、むしろ憎しみに溢れる家庭内でしばしば起こる、よくある光景だ。新婚第一夜で芸者を買うエピソードはいささか珍しいだろうが、妻の、消極的ながらも家族の死を願い、可能な範囲で実行するさまは、愛情の存在しない家庭として典型的である。自分にも似たような経験があるという者も少なくないだろう、2015年の時点で日本国内のDV相談件数は過去最多なのだから。
『老雄大いに語る』に登場する夫婦の間にも、妻が夫に対して怒鳴るといったDVらしき行動があったが、もし夫がこれに本格的に不満であるなら、妻と離れるための行動をいつでも好きなように起こせばよい。しかし夫は、妻の画像に向かって話しかけるといった、ささやかな、反抗ではない不器用な対応を求めた。ここには殺意すらなく、実に可愛らしい様相を示すのみだ。そして『コロリ転げた木の根っこ』に登場する妻が、不満があってもはっきりとは反抗しない姿はこれと似ているかもしれないが、実際のところはまるで違う。まず社会的に力を持っているのは妻ではないし、妻は作中で描写されているように、逆らえないようにされてしまったのだ。積極的に逆らわないからといって、前者の夫の例と同じだとは言えない。
二つの作品に登城する夫婦の差異は、夫婦間において不満を持っている側が、男性である夫か、女性である妻かの違いとも重なる。大前提として、夫と妻の力関係は対等ではない。まず、どちらの夫婦も社会的、経済的に力を持っているのは男性である夫の側であり、妻はあまり力がないこと。次に、夫婦間で不満や問題があれば、夫ならいつでも好きなように打開のための行動を起こせるが、妻の側はそれがしにくいことだ。特に『コロリ転げた木の根っこ』に登場する夫婦は、「(妻が逆らわないように)力づくで押さえるべき」と夫が自ら語っていることで、それが明白である。ここで描かれる憎悪に満ちた家庭の様子は、深刻化しているDVの現場を知る者にとっては頓狂な物語ではなく、実にリアリティのある日常である。この物語が描かれた当時(1974年)なら日常的ではなかったのかもしれないが、少なくともDVが顕在化されつつある昨今、こういったものは珍しくはない。
『コロリ転げた木の根っこ』に登場する夫婦が、極めて強い愛情によって結ばれている可能性を考えることは不可能だ。この妻は、夫の殺害、つまり世界から夫の存在を排除することを願っている。あたかも愛情があるかのように錯覚させているのは、夫が妻へ、決して逆らわないように仕組んだという病的な要因によるもので、それは誤読でしかない。だが、それでも敢えてその可能性を仮定してみるなら、次のようなものになるだろう。
妻を虐げることで夫は満足している。その妻はいつか夫を、事故に見せかけて殺害すると夢見ることで精神保健を保っている。なかなか来ない殺害成功のときを待つことで夫婦の時間は流れてゆく。夫は妻を縛り、妻も、そうとは知られずに夫を殺害すると決めているため、夫から離れられない。そこに夫婦のねじれた絆が、執着という形で存在する。
この場合、虐げられる妻が夫に執着して殺害しようとするのは、復讐であるとして筋が通るが、しかし夫が妻に執着する理由はない。なぜ夫は妻を虐げるのだろうか? 答えがあるとすれば、夫が妻を好いている、という可能性だ。理由なく人を好きになることを愛情と呼んで良いだろう。
しかし、こう言った読み替えはあくまで可能性の一つを提示しているに過ぎず、やはり常識的な考えでは極めて難しい。だが、人はしばし常識の範疇を突き破って愛情を表すので、この夫が妻に向ける感情が真実の愛である可能性を否むことも、またできはしないのだ。
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