こんにちは第五福竜丸です。
こんにちは第五福竜丸です。絵の中に居る船です。実在の船をモデルにして岡本太郎という芸術家が僕を産みました。生まれはメキシコですが、今は日本の渋谷に居ます。僕らについて最近アツいらしいので、この機会に自分たちを少し語ってみようと思います。

とはいえ、自分で言うのも何ですが、僕はそれなりに有名なので仔細な自己紹介は必要ないと思われます。『明日の神話』(1969年)と題された絵の中に僕が居るとだけことわっておけば充分なのではないでしょうか。そしてここまで言えば、2011年の震災直後に起きた僕に関する事件のこと、皆さん結構ピンと来るんじゃないのかな、なぁんて自惚れも持っています。僕らのすぐ下に、僕らを真似たタッチで、原発事故の絵が置かれるという事件があったのです。とあるアーティスト集団が、僕らへの尊敬を込めながら行ったそうです。
嬉しかった。この件に関して怒っている人もいるとは知っています。でも僕はそれも含めて嬉しかったんです。いちおう有名ではあっても、雑踏の中であまり見向きされない僕らのこと、これをきっかけにあらためて知ったり、真剣に考えてくれるようになったりしたってことは確かな事実だし、それにより僕らの価値は上がったように感じます。どんな形でも自分たちの価値が上がったような感覚は嬉しいものです。
さて、僕を(皆さんから見て)右下に描いた『明日の神話』は、核の爆発のエネルギーを描いた巨大絵画だけれど、だからと言って僕らは、単純に核戦争に反対しているってものじゃありません。かと言って別段、平和に反対しているわけでもありません。基本的にアートというのは賛成や反対ではなく「問いかけ」を提示するもので、僕らだって同じです。核に関して看過できない社会問題がありますよ、と提示して、今にも何かが起こりそうなざわめきを観客に与えて、ただ問いかけるという以上のものではないのです。もちろん、数ある芸術作品の中には、何かに対して明確に賛成、反対の意見を表明して社会に訴えるタイプのものもありますが、僕が思うに、そういうタイプは少しランクが下のような気がします。だって、観客が自由に解釈する余地を多少なりとも奪ってしまっているわけですから。観客には自発的に考えてもらって、賛成か反対かはそのあとに各自が勝手に選べばいい。現代美術作品っていうのは大概、そういう風に「考えるきっかけ」としての装置なのです。もし賛成か反対かの回答を作品が先に教えてしまったら、観客は思考停止してしまう。それと同じで、この絵はこう解釈するといい、なんて風に誰かが読み方を提案してしまうのも、よくありません。だから僕もなるべく言いません。少しは言ってしまうけど、必要最低限だけにします。とにかく、僕らのことは各々が独自の仕方で捉えてほしいのです。
ところで、岡本太郎という人は、人々を励ます作品を作るのが好きだったそうですが、僕らのことも、明るい未来へ向けての励ましだと捉えてくれて良いです。当然、不吉な未来への警鐘を鳴らしていると考えたって構いません。観客によく考えてもらえれば、それでいいのです。こんな言い方をするのは、ちょっと偉そうかもしれませんね。でも、僕らは名作絵画なのだから、ちょっとくらい偉そうな物言いをしても許されると思います。
そんな誉れ高い僕らだけど、少しだけ問題もあります。それは、空間に対して作品が大きすぎるということです。巨大絵画と言われるだけのことはあって、僕らはおよそ、横30メートルもの大きさがあります。それが渋谷駅の中に展示されているのですが、その展示場所に対するバランスが少し良くないのです。どうして良くないのか説明します。
絵画作品を鑑賞する時にはある程度のルールがあります。その基本の一つが「適切な距離を取ること」です。大きな作品を鑑賞する時は、作品全体が一目で把握できるくらい遠く離れて鑑賞するのが普通です。一旦、作品から遠く離れて鑑賞して全貌を把握してみて、後から作品に近づいて細部を鑑賞する。そして最後に、キャプションに書かれたタイトルなどを確認して感動を得る。これが基本の「き」にあたる道順になります。こういったルートを辿ることで、例えばクロード・モネの『日傘の女』(1886年)なんかは、遠目で観た時と近づいて観た時とで印象や効果が変わり、観客に驚きや感動を与えます。具体的に説明しますと、遠目で見たときは柔らかい風が吹いているように観えて、近くで観た時にはつむじ風が通り過ぎる瞬間のように観えるのです。そう計算して描かれているのですね。他にも、アンリ=マティスの『ダンス』(1909年)なんかも有名です。これは大きな人間たちが輪になって踊っている絵です。これを遠目で見たときはただバランスが良いだけなのですが、実物の絵画に近づいて見つめると、自分も輪の一部に入り込んで、一緒に踊っているかのようなダイナミズムが感じられます。観客の肉体がフワッと動き出すような錯覚まであります。その効果や驚きが、これを名画たらしめる理由の一つです。こればっかりは実物か、せめて実物大のコピーでないと得られない効果なので、残念ながら縮小された図版では確認できません。展覧会で実物を見ることができる機会があれば是非、今言ったことが本当かどうか試してみてください。
それでは、僕らが展示されている渋谷駅の通路はどうして絵画鑑賞に都合が良くないのでしょうか? それは、横30メートルの絵にふさわしい距離だけ画面から離れると、柱などが視界を遮ってしまうからです。場所の本来の目的は通路だから、通路としてふさわしい位置に柱や階段などがあります。そのため、絵から遠く離れても近づいても、視界が遮られて、一目では正面からの全貌確認ができません。なので、僕らは、画面を分割して把握するしかない状態になっています。本当は画面全体で1つのまとまりとして鑑賞してもらいたいのに、それはなかなか叶いません。
冒頭で触れた「事件」では、ちょうど僕が描かれている画面の、(皆さんから見て)右下の空いたスペースに、追加の絵が設置されるという形でした。階段から手が届く範囲にしか追加の絵を置けなかったのでしょうね。それで、僕らのことは、ちょうど僕がいる右下のパーツばかりが、あらためて有名になったのです。注目を浴びることは嫌いじゃありません。むしろ絵画の一部として生まれたからには本望です。ただですね、この絵画は僕だけじゃなくて、他にもたくさんの登場人物が煌めいているので、僕ばっかり有名になるのは、ちょっと奇妙な感じがしてしまうのです。けれど、そのように鑑賞せざるをえない展示方法がなされているのだから、あえてパーツを分けて説明してみましょう。

いの一番に説明すべきパーツは「骸骨」君です。なんたって『明日の神話』の主役は、画面中央にいる彼なのですから。彼はとても饒舌だから、自分語りをしていい機会があるのなら、喜んでいくらでも喋ってくれるでしょうに、急に有名になった僕に出番を取られて、もったいないなぁ。ともあれ彼のことは、僕らがもともとはメキシコに居たっていう文脈を知ると捉えやすいキャラクターです。メキシコでは骸骨を飾ることがあるそうだから。いつでも生と隣り合っている死を思いながら、核の爆発の炎に焦がれ続けている彼は、なんとも情熱的です。主役なだけあって、彼だけ画面を盛り上げて描かれているのも憎いところです。僕らのことを考える際は、変に有名になってしまった僕のことばかりじゃなくて、ぜひ、主役である骸骨の彼について想いを馳せて欲しいと思います。前にも説明したように、どう解釈するかは観客一人一人が自分で探し出し、選び取って欲しいけれど、僕らの中の主役は彼だから、真っ先に彼について考えるのがセオリーになります。
次に、隠れた主役である「明日」君です。彼は、画面の(皆さんから見て)左に、抽象的な形でもって描かれている奴です。僕らがほんとうに、観客に一番考えて欲しいのは、現在進行形の災いのことじゃなくて、それらをみんな乗り越えた先にある「明日」のことです。彼がこれから画面の中央へやってくるように描かれていることからも、彼が真実の主役だってことが分かります。そんな「明日」君が居る位置は、骸骨の彼を中心にして、ちょうど僕と反対の位置になります。こう説明すれば、いかに「明日」君が重要か、わかりやすいでしょう。重大な社会問題を示す、一番困ってしまう存在が僕で、生と死の混合物である骸骨の彼を挟んだほぼ反対側に「明日」君が居る。つまり彼は一番喜ばしいキャラクターってことですね。
『明日の神話』は、(皆さんから見て)右下の僕がやけに有名になりました。それにより、今まさに日本人の全員が、まるで「死の灰」をかぶってしまったかのように、暗い深みに沈んでいる現状が浮き彫りにされました。僕らが改めて有名になる機会がまたあるなら、今度は「明日」君が脚光を浴びるような、問題を克服して自分の手で未来を切り開く喜びにあふれる時代になっていると、いいよね。
※1、※2:画像は『明日の神話』再生プロジェクトオフィシャルページ(https://www.1101.com/asunoshinwa/asunoshinwa.html)より引用
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