《ジェンダー序説》あるいは逆ミソジニー/『忍たま乱太郎』論
序
今となっては見慣れて殊更に注目されるわけでもないが、元来「子供向け」のアニメーションに大人の、しかも異例の多さの女性客が群がる光景に世間が「腐女子」のレッテルを貼りつける。そんな経験が繰り返されて二十四年経っているから、なお目に止まらない。NHKの最長寿アニメ番組で、如上の宿命にあるのが『忍たま乱太郎』(1993年~テレビアニメ)だ。風聞によれば、この作品は劇場版第一弾の公開時、観客の約八割が大人の女性だった。決して他の名作に引けを取らない人気の『忍たま乱太郎』について、そのような奇妙さを解説しようというのが本稿の主旨である。なぜこの作品は「くの一」(女性客!)を引き寄せる強力な磁場となっているのか、と。
起:感涙の禁止
最長寿の看板なら、この作品に触れて感涙したという話題が人口に膾炙していそうだが、そんなものはない。それは当然で、この作品は一般に「授業も試験もドジばかり。だけど忍たまの毎日は、あかるく・たのしく・ゆかい、なのだ!」というキャッチコピーのまま、あっけらかんとしたアンチ・ヒーローものという読み方をされる。それはとても正しい。しかし、子供たちが忍術学園に通う「動機」という細部に着目するとき、作品のイメージは転倒し「実は違う」相貌を見せる。たとえば主人公の三人のそれを一瞥するだけでよい。「猪名寺乱太郎」は、代々貧しい境遇から脱出するため、無理をして進学校に通っているのだ。そして「きり丸」は、姓(苗字)の不在が示すように孤児であり、また、裕福な家庭出身の「福富しんべヱ」でさえ、実家での暮らしが「辛い」から勉強を口実に全寮制の学校へ逃げてきている。脇役についても同様で、「土井半助」は幼少時に戦乱で一家離散し、「食堂のおばちゃん」は弟と生き別れているなど、例はいくらでも挙げられる。時代考証から考えても現実的な惨たらしさが、この作品には多く潜むのだ。つまり、作品は「あかるく・たのしく・ゆかい」とは「実は違う」。一見すると「子供むけ」には不向きのような要素がひしめきあっているが、しかし『忍たま乱太郎』ではそういった裏側の設定がどうしても必要で、そうであるのに悲惨さを契機に観客の涙を誘う演出が見られない。まず「子供向け」なら陰惨な設定は不要ではないか? また、感涙をひきだせそうな題材を放っておくのは制作陣の怠慢なのではないか? むしろ逆なのだ。それはより高次の感動をもたらすための理論であり方法である「お涙や感動はいりません、最後までギャグでぶっとばしてください」という原作者からのルールにより、ある種の純然たる<感動>の獲得と薫育のため、敢えて選ばれた技法なのである。
むろん、涙なしではいられない種の感動で何かが伝わることを否定などはせぬ。しかしこの場合、用いる道具をギャグにする必然性があるのだ。その真意が温存されているからこそ、最新作に至るまで『忍たま乱太郎』の表象はギャグばかりで最長寿となった。だがここで、深層は悲愴なのに、表層を明るいギャグにしぼった作品の、真髄にあたる最も重要な存在は何者だろうか?
承:忍術学園の目的
この作品がまず表象するのは、畢竟するに「いじめ」がないこと。事実、原作『落第忍者乱太郎』には、掲載媒体が朝日小学生新聞であることも手伝って(※1)多くの小学生たちから、いじめがない忍術学園がユートピアのようだと感想が寄せられている。それほど『忍たま乱太郎』はあくまで「子供向け」だ。後述する「ダサピンク現象」の不在は、決して「女性向け」ではないコンテンツを目指したからもたらされた。これについて仔細な部分は次の章にゆずるが、どうしてそうなったのか、まずその当初に着目しなければならぬ。この時、疑問の発端は『忍たま乱太郎』の原作者がすでに30年前に着目した場所と重なり合うことになる。
コンテンツの受容者を小学生に求める尼子騒兵衛は『正忍記』や『万川集海』などを引きながら、作中の設定を「資料に当たれば裏が取れるものにした」と断じてみせる。例をあげれば、登場人物の服装や髪型、町の光景、民家のしつらえ、行商人の荷物の担ぎ方……枚挙にいとまがないほど時代考証に厳格で、作中には現実的な風景が満ちる。児童たちの学習といった契機でこの仕様になったが、本格的なそれが、奇しくも日本史を知っている大人の鑑賞にも耐えうる魅力となった。
如上、大人からの人気が高くなったが、実は徹底して「子供向け」を貫く『忍たま乱太郎』の真髄はすなわち、子供社会の中の格差や抑圧たる「いじめ」がないこと。そのために陰惨な表象は排除された。現実的には格差や抑圧が一切ないわけがないが、「実は違う」と思わせるべく、いっそ野蛮なほど軽薄にギャグで笑い飛ばす演出は「子供向け」のねらい、平等で明るい子の育成という命題に都合がよい。
支持層が想定外の大人になった場合、現実的には「実は違う」が、しかし無視されがちな抑圧について、子供社会では「いじめ」だったものが、大人社会では別の存在へと移行する。結果的に、大人社会の抑圧のうち、ジェンダーやフェミニズムとこの作品が結びつくことになったのは、当初のねらいとは異なるだろうが、しかし原作者の尼子騒兵衛はたしかに女性であることを強調しておく。
転:ピンク色の忍者はいない
なぜこの作品は女性からの支持を強烈に引き寄せるのか? ここを説明する前に『忍たま乱太郎』には「恋愛」がないという特性を銘記したい(※2)。理由は如上、この作品は「子供向け」だからだ。よってこの作品は大人の女性からの支持を集めることとなる、まさにその経緯に「ダサピンク現象」の逆説が見出される。念のため「ダサピンク現象」について、名付け親から引用して確認しておこう。(Twitterアカウント@YuhkaUnoの発言である。)
「ダサピンク現象」とは、決して「ピンク=ダサイ」という意味ではなくて、「女性ってピンクが好きなんでしょ?」「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」「女性って恋愛要素入ってるのが好きなんでしょ?」という認識で作られたものの出来が残念な結果になる現象のことを言います。
だが「かわいい」については『忍たま乱太郎』にも上記のような要素が見出されようか。一見、デザインが丸みを帯びていることで登場人物は「かわいい」。ところが、それでも性差のない描写は、成人した女性が嫌うものとは趣が異なる。たとえば『プリキュアシリーズ』(2004年~、女児向けアニメ)が好きな女児は多くても、大人の女性でこれを好む者は少ない。しかし『忍たま乱太郎』ならば成人女性にも人気が高いのだから、違いが確認できる。次いでそれ以上に強く、恋愛とピンク色の不在がここで際立つ。一目瞭然だが、このコンテンツにはピンク色が少ない。ただ重箱の隅をつつけば、忍術学園の女子生徒だけは例外的ながらピンク色の忍び装束を身にまとっており、まさしく「ダサピンク現象」そのものだ。しかし男女別学の学校を舞台に、女子が登場することはあまりない。さらに、鮮やかな色彩の忍び装束は物語にも非常にそぐわない上、設定から鑑みても矛盾するのでギャク化している。ここにギャグという格子を通した詐術があるが、仔細はまた後述する。
しかし作中には、「女らしい」ヒロインがいないわけではない。それどころか高頻度で、女装した男性たちが登場する。そんなヒロイン「山田伝蔵」扮する「伝子さん」は、しっかり化粧を施し、しなのある動きで「女らしく」振る舞う(その様は不気味だ)。身体的には男性なので「実は違う」が、たしかに彼(女)はヒロインだ。もし、身体的にも女性の登場人物がそうであれば「ダサピンク現象」になってしまうことは明白である。つまり、「女らしさ」の不気味さを、露悪的な表象で示すこと。と同時に、男性たちを主人公にした上で「恋愛」を禁じた『忍たま乱太郎』は「ダサピンク現象」をかなり回避している。
挙げればきりがない女性軽視の氾濫や不在の一端をたどりながら、引きつづき、ジェンダーの場に直面して証して来ようか。
結:ギャグの隠れた機能
『忍たま乱太郎』とジェンダーの関わりについて考えるさい「土井半助」が欠かせない。彼は原作者が語るとおり「保父さん」だ。
ステレオタイプなら、学歴や職歴が一流の男性が、子守り、洗濯、針仕事といった「女性の仕事」に、無報酬で従事させられる姿は現実的でない。しかし『忍たま乱太郎』で「土井半助」は人気投票の第一位だ。ここにギャグの隠れた機能が働いている。
彼はプロの忍者だが、しかし職場で業務外の児童の世話に追われてしまう。自宅に帰れば、半ば引きとった孤児「きり丸」を支援しながら見守るシングルマザーとして重労働に明け暮れる。ステレオタイプの、男性的にはおかしさが、女性には(すすんでその道を選んだ者を除いて)抑圧がここに凝縮される。
まだ達成されていない女性解放運動とバックラッシュに挟み打たれ、どちら寄りにも傾けにくいこうした表彰は、前の章の、子供社会の抑圧である「いじめ」と、大人社会の抑圧である「女性軽視」がそれぞれ、たしかに存在するがしかし、ギャグで昇華している現象と同質の構造を呈す。本来はこのようなことは絶対にありえないと仄めかしながら表彰する、つまりギャグで笑い飛ばすことにしかできない三つの詐術。ギャグは、白黒はっきりさせたくない場合に非常に都合がよいのだ。「実は違う」と仄めかしながら納得をもたらす技法なのだから。
一つ目は、実は登場人物たちに強い抑圧がある格差社会だが、笑い飛ばすことでそれを無効化させて「いじめ」がないユートピア(=どこにもない場所)を描くこと。
二つ目は、実は女子生徒にピンク色の制服を着せる女性軽視があるが、そんな事態はあり得ない(=現状、どこにもない場所)とギャグで無視させること。
三つ目は、実は、主に女性への抑圧が作中にも現実社会にもあるが、しかしギャグで反発を回避すること。
如上の詐術により『忍たま乱太郎』は、実は女性解放を待望している当事者たちからの人気を勝ち取った。つまり忍者という表象まさしく、抑圧された要素の承認への切実な欲求。『忍たま乱太郎』は忍者像に厳密な時代考証を添え、現実味のある忍者を描写するが、心理学者のカートランド・ピーターソン『Mind of Ninja(忍者の精神)』によれば、暴力と残酷さを有した忍者は、我々がずっと抑えてきた自分の暴力と残酷さの表れであり、だからこそ人々は無意識に忍者に惹かれるのではないかと解釈される。すなわち、忍者は現代のシャドウの解放。この場合、性差を感じさせない忍者「土井半助」に特に思い入れることで、ジェンダーやフェミニズムに関する抑圧や怒りへのカタルシスが発生する。
もう『忍たま乱太郎』に大人の女性客が殺到する現象を看過できない。つまり、セクハラやミソジニーなど多くの抑圧の中で生きる日本女性の多くがこれに熱中し、かりそめでも解放の快感を得ていること。そこに依拠した異例の大ヒット。奇しくも全米忍者ブームのきっかけが、フェミニズムの潮流であったように(※3)。
終
なぜ『忍たま乱太郎』は女性を引き寄せる強力な磁場となっているのか、冒頭の問いに戻ろう。この作品のねらいは「子供向け」だが、しかし子供と大人の区別なぞ近代に捏造された幻想に過ぎぬし、その無根拠な制度にとらわれて失敗した作品は多くある。だが制度的な「子供向けはこうあるべきだ」という思い込み、いわば「子供版ダサピンク現象」を超えた構造にこの作品は到達しているのだ。それは人々の中にある、どこにもない楽園を求める気持ちと、格差や抑圧と、忍者という現代のシャドウの解放との一致。しかも同時に「実は違う」と仄めかせる詐術、ギャグを反復して用いて、矛盾を昇華し、読者や観客に受け入れさせる高度な技法。『忍たま乱太郎』はそれらの匙加減がよい。だから異例の繁栄を続けている。これが答えだ。
註
1:読者層に合わせ、小学校を模した6年制の学校が舞台。しかしこの学園で1年生は10~11歳、6年生は15~16歳。時代背景から上級生は現代に置き換えるとほぼ大学院生。ここに「子供向け」と「大人向け」の括りにとらわれすぎていない思考が読み取れる。
2:『忍たま乱太郎』初期で「大川シゲ」が「福富しんべヱ」の鼻水を拭き取る、あたかも恋愛のような描写があった。しかし近年では原作者の意向を汲んで恋愛とおぼしき表象は禁じられている。作品世界に色恋は存在するが、積極的に描かれることは稀。
3:批評再生塾第1期最終課題「『昭和90年代』の『批評』【冒頭部分】☆大山結子☆『忍者・シャドウ全開ヒーロー』
http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/ohyama/1038/参照。ほか参考に、尼子騒兵衛先生作「落第忍者乱太郎」・NHKアニメ「忍たま乱太郎」情報系ファンサイトhttp://www.gru-ran.com/。
「【年表】現代日本の批評1989−2001」に記載された固有名群から、渡部直己を選択。
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