上北千明(本名:川喜田陽)氏を使った否定性
前編:批評再生塾の形式の特徴から
上北千明(川喜田陽)の「擬日常論」を読むと、一目で他の論考との違いが確認できる。それは引用部分だ。親切なことに、引用であると読者が分かりやすいよう、その部分にフォントの色や形を変えるという丁寧なデザインを施しているのだ。一つの論考の中に、数えると22か所もの引用が彩りを持って貼り付けられているので、引用文の面積が大きく見える。そんなこの論考は、次のようなセンチメンタルな詩で優しげに始まる。
帰り道、私たちは迷子にならないよう、田園都市線の線路を使うことにしました。
奥たんはけんめいに自転車を押す。
――ほんの一年前まで、たくさんの帰るべき命をのせて、輝いていたこの鉄のガレキ…
この論考はまた、批評対象を強く否定するではなく寄り添って解説し、引用するたび丁寧に構造を解きほぐして読者に提示するという細やかな作業を繰り返す。序盤から優しげに続く文章のムードは最後まで持続する。ウェットに展開するこの論文のラストは、次のように余韻を残しながら情緒的に締めくくられる。
あの日、電気が止まり電波が遮断された被災地で、スマートフォンの画面に残されたまま届くことなく津波に流されていった無数のメッセージを思う。 「いつでもできるなら後に回してもいい」と、そのように考えていたそれまでの日々を悔いた人々のことを思う。――そこから始めなければならないのだと、被災地の写真は語っているように思えた。
――ほんの一年前まで、たくさんの帰るべき命をのせて、輝いていたこの鉄のガレキ…
同じ道を、
この道を、
きっと帰ってくる。
こうして一歩一歩、つながっている――
書き手の心情を引用に乗せる感傷的なアプローチだ。読者に親切でありながら、「フクシマ」の被災者の弱った心に寄り添おうとする優しさが、一貫して論考全体を包んでいる。こうした優しさは論考の外でもうかがえるが、「優しさ」とは、具体的にどういうことか、これから述べていこう。
ゲンロン批評再生塾の特徴でもある「新・批評家育成サイト」では、まず受講生がそれぞれ、アイコン画像と名前を設定して読者にアピールすることが求められる。その中で、彼にはある傾向が見てとれる。彼の頭部を写したものでありながら、わざわざ不自然な、顔面を見せない画像をアイコンとして用いていることと、名前が偽名(ペンネーム)である点だ。つまりほとんど匿名なのである。加えて奇妙なことに、次点の受賞やプロデビューが決まるや否や、彼は名前を偽名から本名に変えた。なぜ、せっかく一度定めたペンネーム――他の何にも交換不可能な尊い宝物のはず――をすぐに破棄してしまうのか…? おかしな挙動から読み取れるのは次のようなものだ。まだプロになれるかわからないうちは、恥ずかしかったり怖かったりして、偽名――おそらく本人にとってさほど大事ではない(!)――を使っていて、高い評価やデビューが確約されたら「あぁコレで恥ずかしくないぞ、あまり叩かれることもないだろう」と安堵して本名を明かしたのである。
こんなことを言うと、そこは関係ないだろうとか、突拍子のないことだとかいった声が聞こえてきそうだ。しかし批評という営み、批評家という生き方は、文章だけ書いて発表していればそれで良いのだろうか? 批判や批評、評論など、耳に痛い内容も含む文章や意見を発信するからには通常、顔なり名前なりを公表するものだ。でなければ「新・批評家育成サイト」は、しばしば「卑怯」と謗られる匿名掲示板や匿名ブログと大差ないことになってしまう。実際、匿名掲示板等でなされた批判に対し、逆SEOを施すことで見えにくくするサービスを提供しているWEB広報会社は世間に溢れている。世間的には、批判をするのであれば顔や名前を相手に見せることがマナーであるとされているのだから、後ろめたくない態度で批評に臨むことは、批評家が負う社会的責任に含まれるのだ。
ところが彼は、ほぼ匿名の状態で、批評という批判の別名を長期間にわたって発表してきた。その点に於いて難色を示す者は多いかも知れない。もちろん、批評再生塾やゲンロン社からも、ふんわりした名前にはしないで欲しい、キチンとしたアイコン画像を入れて欲しいとのお願いは、当初から何度も、やんわりとだが繰り返しアナウンスされていた。批評家の社会的責任を放棄している弱い批評家である彼はしかし、自信がないうちは匿名になってしまう人間の弱さや、勇敢になりきれない者の気持ちも内包しながら、それでもしなやかにポスト震災を生き抜くための賢い発想を見せてくれる。
高度に情報化された現代社会においては、顔や本名をインターネット上にさらけ出すことでリスクが発生するし、「出る杭は打たれる」の諺が指し示すように、顔や名前を出して目立つことを怖がってしまう弱さは、大勢が共通して持っている。批評を発表する際にも怖がって匿名になる気持ちは、ある程度仕方ない部分もあろう。だが、そんな彼の弱さにこそ、むしろ新しい可能性を見出すことができるのだ。彼の最終課題では、弱い者の気持ちも理解しながらの生き方を提案するという文章が展開されているのだから。
そんな彼の「擬日常論」を要約すると、次のようになる。「日常と非日常を分離して捉え、それらは交互にやってくるという認識は誤りだ。日常と非日常は常に共にある”擬日常”なのだ」と。そうであるからには当然、ポスト震災の日本が、311を忘れようとしていることや、「フクイチ」の事故はチェルノブイリとは違って歴史に残らなそうな気配、311以前の日常に戻ろうとする日本人の姿は、論旨からすれば否定すべき態度である。
しかし彼は、口頭試問での東浩紀氏からの質問のさい、「(震災後の人々が日常を取り戻そうとするのは)いいことだと思う」と、論旨とは矛盾した発言をしている。それはこう解釈できる。被災者、当事者の心情を思うと、何も心配のない状態、すなわち日常を求めてしまうのは、人情のベクトルから考えて仕方ないことから、そこまで厳しく徹しきれなかったのだ。実際、彼は「その部分はまだ踏み込めなかった」とコメントしている。人間の弱さに共感し、言うべき否定の言葉を適切に表現できなかった彼は、悪く言えば優柔不断だ。そしてそれゆえに、弱さとセットになった「優しさ」が垣間見える。
そんな彼のありようは、口頭試問である種の失言があったこと、手間をかけて読者に親切な書き方をしていること、そして顔を見せないアイコンと、自信がないうちは使い捨ての(!)偽名を用いて逃げ道を用意しているといった言動に、良くも悪くも通底して見え隠れしている。そうやって、どうしようもない人間の弱さに寄り添っているからこそ、清濁併せ呑む「擬日常論」は生まれた。日常でも非日常でもない「擬似的な日常」という新しい理念の提案は、ポスト震災の非日常をそのままでは受け入れられない弱さのある者にとっても、受け入れやすい形のアプローチとなっている。
だが、そんな「擬日常論」に書かれたものは本当にみな正しいのだろうか? 彼が「擬日常論」の中で選んだ批評対象は『花と奥たん』(2008年〜)と『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(2014年〜)の二作だが、彼はこれを、ポスト震災の価値観にそぐう「ポスト・セカイ系」に挑戦する作品とした。しかし前者が、高橋しん氏の『最終兵器彼女』(2000年〜2001年)のその次の作品であったり、後者が『最終兵器彼女』のアシスタントだった浅野いにお氏が描いていたりするからといって、それで「ポスト・セカイ系」の表現に挑戦していると考えるのはあまりにも安直すぎる。そもそも「セカイ系」とは何か? 少し迂回しよう。
後編:ポスト震災にかなう「ポスト・セカイ系」を求めて
「セカイ系」とは、世界があまりにも複雑、大量になりすぎて描けなくなったことから発生した表現手法である。現代美術の分野ではゲルハルト・リヒターの『グレイ・ペインティング』シリーズや、ラウシェンバーグのすべてがゴミになる作品などに代表されるが、周知の通り、現代の社会に於いては、世界を描こうとしても、あまりに複雑すぎるため、ただ描いたらグレーやゴミになってしまい、表現できないのだ。そのような現代社会の、複雑で大量すぎる情報の中で生きるクリエイターは、いっそ現実の姿を思い切り省略して、現実世界の有り様を描かないことで現実を表現する、という手法を開発した。したがって、抽象的な「世界の終わり」と、登場人物のごく身近で私的な部分のみを描写している「セカイ系」は、その2つの中間にあるはずの現実世界の有り様をまざまざとは描いていない。つまり、描こうとしても描けないのだから、描かないことでそれを表現し、作品として成立させようというわけだ。そして「セカイ系」のマンガやアニメ、映画などは国内外でヒットし、成功した。
では『花と奥たん』や『デッドデッドデーモンズ…』が、描けなくなってしまった複雑すぎる世界を表現する試みをしているかといえば、そこは怪しい。『花と奥たん』はまだ巻数が少なく判断しにくいが、もう少し刊行されている『デッドデッドデーモンズ…』を見てみると、「東京の上空に巨大な空飛ぶ円盤が現れて、高校生たちがスマートフォンで敵と戦う」といった内容だ。世界の終わりを想起させる出来事と、人々のごく身近な存在である「スマートフォン」の構図は、今まであった「セカイ系」と変わらない。しかもその上、批評文の提出期限前に発行されていた四巻では「政治的対立はくだらないから、みんなで仲良くしよう」というスタイルと、それを支持する「おんちゃんは絶対なんです!」というセリフも登場する。ここに、自意識と、女子たちの共同体で閉じこもる、従来の「セカイ系」そのままの価値観がくっきりとあらわれている。
留意すべきは、世界の終わりと身近な物事の中間にある、現実社会の具体的な様子や情報を省略しないで描ければ「ポスト・セカイ系」たり得るが、『デッドデッドデーモンズ…』の中では相変わらず、社会という中間項がすっぽり抜け落ちている点だ。それにより、本来複雑であるはずの世界は、少年少女たちの未熟な自意識を短絡的に反映した「セカイ」になり平板化している。それなのに「擬日常論」で、これらがあたかも「ポスト・セカイ系」であるように考えてしまったのは、書き手が(おそらく意図して)ポスト震災の価値観と「ポスト・セカイ系」を混同しているからだ。「日常」という捉え方自体が誤っているという考えは、身の回りの物事を考える視点をズラしてみようという提案である。その視点の新しさが「ポスト・セカイ系」たりうると読者に誤解させながら論を進めるのは、「擬日常論」の新鮮さを強調するには有効だったろうが。
このように、ポスト震災と「ポスト・セカイ系」の誤謬はあるが、ゲンロン社が「擬日常論」を次点に選んだのは賢い選択だ。なぜならこれを選出し、世に送り出すことで、世間一般による「フクシマ」は歴史に残らないかもしれない気配の中、「フクシマ」を忘れよう、消そうとする人々へのアクチュアルな批評を成立させやすいからである。世界に誇れる批評誌を作らんとするゲンロン社にとっては、社会に警鐘を鳴らし、否定性を投げかけるのが仕事のうちだ。そして東日本大震災からもう5年たち、日本人はどんどん震災を忘れようとしている。このままでは「フクシマ」は歴史に残らない。ポスト震災を生きるにあたって、それでいいのだろうか? このような時代であるからには、世界的な知名度の高さから東日本大震災に直結する問題提起を読者に投げかけるのが、最もわかりやすく手っ取り早い。海外からゲンロン社や批評再生塾を見た場合でも、ポスト震災に関心を寄せ、それにかなう「ポスト・セカイ系」を求めるさまは、原発事故が地球規模の問題であることから、興味、関心を集めやすいだろう。批評が海外からどのように見えるかは非常に重要だ。
そして上北千明(川喜田陽)の中に、顔を隠して名前を複数用意するといった逃げ道を用意してしまう弱さがあるからこそ、上から目線で叱り飛ばすのではなく、被災者の弱った心になるべく寄り添って、抵抗のない提案をしてみせるといった、「ポスト・セカイ系」に到達こそできていないが、ポスト震災のための残酷でないジンテーゼが生み出せた。卑怯であることと賢いことは、相反する要素ではない。そんな、匿名のまま、またはペンネームを――とんでもないことだが――使い捨てながら(!)批評をする彼は卑怯かもしれないがとても賢い。そんな彼を次点に選び、ポスト震災の批評を彼によってアピールしようとするゲンロン社もとても賢い。
人間はそこまで強くなれないかも知れないということは、彼の「(震災後の人々が日常を取り戻そうとするのは)いいことだと思う」との、ある意味の失言が口頭試問で発せられたことからも感じられる。また『デッドデッドデーモンズ…』は、ポスト震災の価値観にかなう「ポスト・セカイ系」ではないし、上北千明(川喜田陽)も、新しい「擬似的な日常」よりも、従来の日常の方を「いいことだ」と、実は称揚している。すると、彼はゲンロン社の思想に味方する論旨でもって、実はそれと正反対のことを仄めかしているのである。
だかしかし、批評再生塾の運営やゲンロン社は、それを当然お見通しだ。その上で彼の「擬日常論」を評価し、支持することで、「福島第一原発観光地化計画」「フクイチプロジェクト」を掲げるゲンロン社それ自身に対する自己批評をも、ゲンロン社は遂行することができるのだから。ゲンロン社は、批評誌を発行するゲンロン社自身による自己批評も忘れていない。
弱さと賢さを併せ持っている上北千明(川喜田陽)と、もっと賢い批評再生塾の思想やゲンロン社の組み合わせによって、彼は商業誌にプロデュースされ、人生の花を迎える。いま、批評再生塾二期に集っている受講生たちは、まだ怖くてネットで自分をアピールできない臆病さを抱えているかもしれない。しかし人間が弱いのはある程度仕方のないことだし、また、批評再生塾は、まだ弱いものでも賢くしなやかに育て上げるための場所である。ここに集ったからには、これからどんどん、自己批評も含めて「批評れ!」ば良い。人は、批評を通じて成長できるのだ。決して弱さとセットの「優しさ」ではない、真の意味での「優しさ」を持つ強靭な講師たちが、きっとあなたの進む道を照らしてくれる。
上北千明「擬日常論」
(http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/kamikita/1065/)
文字数:5991