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咥内批評宣言 〜美味学(ガストロノミー)のソテー 批評宣言仕立て チョコレートのソースとともに〜

咥内批評宣言

〜美味学(ガストロノミー)のソテー 批評宣言仕立て チョコレートのソースとともに〜

 

美食とは、もっとも身近な批評行為である。

汚れひとつないテーブルクロス、

綺麗に折りたたまれた食事用布エプロン、

両脇には美しく磨かれたカトラリー、そして本日のメニュー。

 

なにかを食べるとき、それを目前にするよりも先に、わたしたちは前情報を手にしている。これがなんの食べ物であるか。旬があるなら、時期はよいか。どこで獲られた・採られたものなのか。どのように調理されたのか、またその調理法は食材をどのように変化させるものか。たくさんの情報とともに、料理と、食材と対峙する。

例えば映画を鑑賞するにしても同じことがいえる。監督は、役者は、経歴は。前の作品はどうだったか。誰がどんなふうに解釈していたか。そこにどのような風刺があったか等々。その道を極めれば極めるほど、なんの情報もなしに、というわけにはいかないものだ。

 

実際に食べ物を口にするよりも前に、わたしたちは視覚や嗅覚、または聴覚から、多くの情報を手に入れることができる。味わう、という行為の権威者は舌ではない。むしろ咥内に食べ物を含んだ状態から得られる情報は、全体の5割にも満たない。鼻はとくに大事だ。香りから得られるものは味そのものよりもずっと多い、いや、香りなくしては味は創られない、といってしまってもいい。「嗅覚を奪われると味覚は麻痺する」と、フランスの美食家ブリア=サヴァランもその著書に嗅覚の重要性を記している。

ブリア=サヴァランは『美味礼賛』において、かの有名な格言、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」を残した人物で、18世紀後半から19世紀初頭に生きた美食家である。美食家とはいっても、ただただ食べてその記録を残しただけの人間ではない。彼は実に多様な学問に精通していたし、また政治や法の下で働いた人間でもあった。少々頭のわるい表現をすれば、随分と頭のよい人であった。彼が書いたこの『美味礼賛』の原題は『味覚の生理学』であり、副題には『超絶的美味学の瞑想』、さらには発刊当時この本を匿名で出したこともあってか「文学や科学のもろもろも学会の会員たる一教授からパリの美食家にささげられた、理論と歴史と日常の問題を含む書」との付記まである。この長い副題、付記を含めたタイトルを聞けば、これが単なるグルメ本でないであろうことは推測できる。

サヴァランはこの本の中で、美食についてあらゆる観点から言及しており、その項目は多岐にわたっている。そのうちの幾つかは「人文学的」視点でもって書かれていることには興味を抱かずにいられない。彼は生理学、医療にも深い知見のある人物で、同著でも味覚の仕組み、味の感じ方について科学的目線から解説をし、今日に繋がるあらゆる仮説を立てたのと同時に、一方では食に関する哲学的思索を行っていた。そのことは、以下の文章からも読み取れる。

 

「美味学の知識はすべての人間に必要である。それらは人間が受けうる快楽の総量を増加しようとするものであるから。」

 

美味しさとは体験である。批評もまた体験に他ならない。

 

体験は、生きている限り蓄積されていくものだ。体験が知識を生み出すことがあれば、知識が体験を生み出すこともある(これについては次章「記述とテイスティングの関係」で詳しく語ることとする)。

 

上記の文言は「成る程、美味しさは批評であり、批評は美味しさということか」と三段論法で了解するには、いささか不可解なものに思われる。本論では、批評と美味しさは「体験」という名のもと、イコールで繋ぐことのできるものなのかを、考えていく。

 

記述とテイスティングの関係

嗜好品と呼ばれる類の食べ物、例えばワイン、コーヒー、そして私の愛するチョコレートたち、これらを味わうとき、人は同じカテゴリー内にある食べ物あるいは飲み物——ワインならワイン、コーヒーならコーヒーを——食べ比べたり、飲み比べたりする。テイスティングにおいては、ただ美味しい、不味いと二つの箱に仕分けるような極端な判断を下すことはない。代わりに、自らの得た感覚を、あらゆる比喩表現を効果的に用いながら、他者に伝わるようなことばにする必要がある。

 

ここではチョコレートのテイスティングを例にとって話そう。と、その前にチョコレートに関するいくつかの前提を共有をしておく。

これはまだまだ最近のことではあるが、チョコレートのテイスティングが日本のチョコレート消費者間で行われるようになった。これはアメリカで生まれたビーントゥバー(bean to bar)というチョコレートを豆からよく見る板の状態にまで一貫してひとつのメーカーが作る流れが、欧州各地や日本に広がってきたことによるものだ。チョコレートのテイスティングというと首をかしげられることが多いが、ワインやコーヒーに例えればわかりやすい。産地で味が異なる、といわれると納得するだろう。チョコレートも同じなのである。生産地の環境、手をかけられたかどうかが品質に大きく影響する。

明治や森永といった大手メーカーの目にも下にも慣れ親しんだ板チョコレートは、BOSSやDYDOのブレンド缶コーヒーに似ている。通常これらのチョコレートには、さまざまな国で育てられたカカオ豆から作られたチョコレートが、さらにブレンドされて整形され、製品となっている。またコストを抑えたうえで風味を出すために、添加物も加えられる。安価で美味しいチョコレートはこうして出来上がる。

 

では、テイスティングにおいて使われることばとは、どのようなものだろうか。ビーントゥバーによって丁寧に作られたチョコレート、また腕の立つショコラティエが作った宝石のようなボンボンショコラ(注釈1)は、実に多彩な味わいを持っており、所謂五味である甘味、酸味、塩味、苦味、旨味だけでは到底表現し得ない。ここに、辛味、渋味を加えてもまだ足りない。よく使われる具体性をもった表現としては「他の食べ物に喩える」というのがある。「バナナのような香りがある」「アーモンドの風味がする」といったふうに、そのもの以外に喩える方法だ。

しかし、固有名詞だけでは喩えきれない風味もある。ここで便利なのが身体性を伴った表現で、共感覚表現がこれに当たる。「重たい味」というとき、舌に実際の重みを感じてそういっているのでないことは誰にでもわかる。「明るい音」という表現を使うときに、音が色としてみえているわけではないのと同じだ。

 

 

さて、上に書いたことを前提に、チョコレートのテイスティングを例にとって、批評において行われる記述との関係を探っていく。食べ物のテイスティングは、批評でいうところの記述に近い。

 

批評家の佐々木敦は2017年2月22日に行われた批評再生塾「『XX批評宣言』を起草せよ。【冒頭部分】」の講義で、批評における記述の重要性を説いた。映画批評であれば、重要と思われるシーンを筆者が文章にして伝える。レンタルビデオショップとインターネットがほぼほぼ普及しきった現代の日本において、それは不要な行為に思えなくもない。本来の映像、見たままのものは、なにひとつ変わらないからだ。同じ映画を観た人間に対してなら、事細かに状況説明を加えなくとも、「どの部分であるか」を伝えることは容易である。ストーリーのどのあたりで、誰がなにをしているシーンです、と書くだけでも十分だ。

 

ここでテイスティングの過程を想起してみる。まさに味わっているその最中に、あらゆる情報が流れ込んでくる。それらの情報の中には新しいものもあれば、経験済みのものもある。それらをなんとか共有可能なものにするために、ことばを尽くす。

 

正確な描写というものは存在しない。ここに記述することに単なる状況描写以上の意味がある。佐々木は、記述を、筆者「独自の変式」で出力されるものであるといった。それによって個性が現出するのだと。しかし場面描写的記述は決して筆者のエゴによって描かれるのではない。そこには「フィルターの共有」と「正確性の確認」というふたつの意味がある。フィルターは佐々木でいうところの独自の変式と理解してもらって構わない。作品や食べ物がある人間にどのように作用したのかを、知る

 

注釈1:一口サイズのチョコレートのこと。百貨店地下のショーケースで売られていたりする。

 

グルメハラスメント、それ即ち啓蒙。

知人に、サヴァランが生きていたならば、きっと美食家(グルマン)と呼んだであろう方がいて、彼はよく「グルメハラスメント」という奇異な単語を使う。これは、同じ食べ物——マグロならマグロ——の中でも特段に味の優れたものを人に与え、もともとその人のなかで持っていた「美味しさ」または「美味しくなさ(不味さ)」を一度、なかば強制的に完全破壊してしまう、いわば暴力である。しかしこれにより、体験した人間の中で起こるのは、新たな体験、知識を得たことによる、ある特定の食べ物へのイメージの再構築だ。もとの価値観には戻れない代わりに、全く新しいものを築くことになる。

 

このグルメハラスメント、つい先日、わたしも友人にしたばかりだ。相手が相手だったので、面白かった。その相手というのが東大に在籍している年上の友人で、ツイッター上で、彼が院試の面接に合格したとで知ったわたしは、「おめでとう。良質なチョコレートでもあげたい気分だよ」とリプライを送った。すると「ありがとう」というお礼のことばに続けて「本当にくれるの?笑」というメッセージがきたではないか。はて、彼は信仰の程度はさておき一応の仏教徒だった気がするが……まあ、誰にでも魔というものは差すものだ。とはいえ私も半分は本気で放った台詞なので、逢って渡そうというはなしになった。場所は東大の本郷キャンパス。忙しい彼に逢うのはいつもこの場所だ。わたしが彼に持ってきたのは、厳選した10種類のチョコレートだった。これを全部食べたら、もとの感覚にはもう絶対に戻れなくなる、題して「チョコレートの脱構築セット」。知識欲旺盛な彼がチョコレートについてぜひ色々と教えてくれというので、得々とチョコレートについて説いてみせる。ちょうど場所が自習室だったので、ホワイトボードを使い説明する。その様子はさながら個人授業だ。わたしが一通り話終えたとき、まだ一欠片もチョコレートを口にしていないにもかかわらず彼がこういい放った。

 

「脱構築された!」

 

なんと、それは早くないか。彼の中のチョコレートの概念もとい、それを有する体系の在り方は、座学の段階で更新されてしまったようだ。しかし面白いのは、彼は新しい経験を獲得する(食べたことのないチョコレートをテイスティングをする)よりも前に、新しい知識によって、チョコレートという食べ物に対するイメージを破壊され、その上で再構築していることだ。知識によって既存の知の体系が再構築されると聞いても、哲学の素養がある人間はみじんも不思議に思わないだろうが、ここでそれが食べ物を味わう「美食」という行為において同じように行われたことに着目したい。

私が彼にチョコレートを食べてもらうよりも前に座学のようなかたちで前提の共有をしたのは、自身の知識をひけらかすためではない。より「美味しく」食べてもらうため、また違いを分かってもらうためだ。舌の肥えた、という表現があるが、肥えた舌をもった赤ん坊は存在しない。味覚は記憶や知識と深く結びついている。例えば、はじめて食べたことのない国の料理を食べると、それが慣れない味であるばかりに「美味しくない」と判断する。ところが同じものを何度か食べていると、あれ、美味しいかもと思う瞬間がやってくる。それは舌がその新しい味に慣れた証であるが、もちろん舌には記憶装置など存在していないので、経験が脳に刻み込まれている、といったほうがいいだろう。

 

世界に名を馳せる日本人ショコラティエのひとりに、小山進がいる。バレンタインシーズンに彼から直接話を聞く機会があったのだが、こんなことを言っていた。

 

「僕のチョコレートは、なにも知らないで食べたら、ただ美味しいね、で終わってしまう。でも、何が入っているか、どんな考えで作られているかとか、それらを知った上で食べると、食べた時に「わかった!」という驚きがあって、それが面白い。僕のチョコレートは、そうやって楽しんでもらいたい」

 

味は知識によって構築される。さきのテイスティングのはなしと結びつけていえば、ことばによって再構築される、ともいえる。

 

※念のため記述しておくと、この私と東大生Kのやりとりはすべてノンフィクションである。

 

味の実在・非実在論

『美味しんぼ』という漫画がある。アニメ化もされている大作で、かなり有名な作品なので、タイトルくらいは誰も一度は耳にしたことがあるはずだ。私自身、以前からこの作品のことは知っており興味を抱いてはいたものの、漫画を呼んだことも、アニメを観たこともなかった。にもかかわらずここで私が『美味しんぼ』の名を出した理由というのは、この作品の世界観にある。『美味しんぼ』の世界では、味の良い・悪いが客観的に認められることになっている。これは大方、現実世界にも当てはまる。一般的に、「美味しいか・美味しくないか」の判断は、個人差はあれども判別できるものと思われている。

これらのことをもう少し突き詰めて考えていくと、味はそこに在るのか?という、より根本的な疑問が生じる。味の存在論である。味はみえない、しかし味という概念は、たしかに確立されている。味がどこにあるのか、いや、そもそも味は在ったのか、という問題。

 

アリストテレス的にいえば、味は、食べ物のなかに質料(ヒュレー)としてあり、それは人間が口にすることで実現される、と言い表せられるかもしれない。

 

以下の文章は、『ことばは味を超える』(2003)からの引用である。

 

味は「もの」である。これがすべてのメタファーの出発点だ。「もの」として見なされるから、味は「存在する」のであり、「味がない」といえるのも、味が「もの」だという認識があるからである。「もの」だから、調味料などを使って味を「付けたす」こともできるし、臭みやくせといった不必要なものは「消す」ことができる。

 

「もの」だから、もちろん所有することもできる。「持ち味」という言いまわしがあるが、ふつう味を持っているのは食材である。

 

食材は自身の内に味をもつ。つまり、味は食材という「入れ物」に入っていると見立てられているのだ。その味が出ていってしまうと大変だから、料理の際にはうまみを「閉じ込めて」、「逃さない」ようにするのがポイントになる。(p.158)

 

たしかに、わたしたちは食べ物に対して「苦味のある食べ物」とも「苦味をもつ食べ物」ともいったりする。また「肉汁を閉じ込める」のような具体的な表現とは別に「美味しさを閉じ込める」という表現もよく使われる。

ここでははっきりと、味は存在すると述べられている。同著で味を表現するためのあらゆることばを「味ことば」と呼び、パターン化して分類している。このような仕事をしているにもかかわらず、著者はなぜ「味」の存在を安易に認めてしまったのかは疑問である。味が食べ物という箱に入るのではない。味そのものが人間の都合のために用意された「箱」でなのである。それは、味が「もの」であるという表現そのものがメタファーであることに示されている。

 

美食家(批評家)は幸せか

 

ここではまず根本的な問題に立ち戻りたい。なぜ私たちは食べ物を味わうのか、だ。単純に、快楽主義的に、〈美味しいほうがよい〉からか。それならば、美食家は美食などせずに「バカ舌」でいるほうが良いのだ。より良い味を求めれば高位の幸福を手にできるかもしれないが、それは喩えるなら識別できる色の数が増えたようなもので、今までにない「美味しさ」を手に入れるということは、同時に多くの「不味さ(美味しくなさ)」を手にすることに他ならない。これは先のグルメハラスメントの話題に繋がっている。

 

サヴァランは『美味礼賛』で、美食家は幸せであるこを得々と綴っている。以下はサヴァランによる「美食家(グルマンディーズ)」の定義である。

 

グルマンディーズ(美食愛、うまいもの好き、食道楽)とは、特に味覚を喜ばすものを情熱的に理知的にまた常習的に愛する心である。

グルマンディーズは暴飲暴食の的である。食べ過ぎをしたり、酔いつぶれたりする人はすべて、グルマン(美食家、食通)の名簿から締め出される。

グルマンディーズの中にはフリアンディーズ friandise(dantiness)(あまいもの好き)も含まれる。フリアンディーズとは、けっきょく、軽くて上品な少量の御馳走、ジャムやお菓子などを好くことに他ならない。それは婦人たちや彼女らに似た男のために許されたグルマンディーズの変種である。

(『美味礼賛(上)』瞑想 十一 グルマンディーズについて 定義より)

 

「テイスティング」という行為もまた、面倒なものだ。あれは美味しく食べる・飲むために行われるのではない。端的にいえば、それは知るために行われる行為である。知識欲や探求心から、人はワインやコーヒー、チョコレートをテイスティングするようになる。私もそうだ。テイスティングを行うには、環境と自らのコンディションを整える必要性がある。静かで、十分に落ち着ける場所である必要がある。精神的、肉体的にも整っていなくてはいけない。なぜ私たちは食べ物を味わうのか。それはなによりもまず自分自身の知識欲や探求心を満たすためだ。「なぜ人は勉強するのか」という問いがある。役に立つからと答えることもできるが、万学の祖とされる哲学がスコレー(暇)から生じたことを考えると、それよりも単に楽しむためと答えるほうが自然ではないか。

 

この「なぜわたしたちは食べ物を味わうのか」という問いは、ここまでの論を踏襲すればそのまま「なぜわたしたちは批評を描くのか」という問いに並行移動(スライド)させられる。

 

  • 箸休め「主客未分の味わい」

食べ物を食べている最中、それがあまりに素晴らしいと、食べている感覚さえ失うようなことが、本当に稀ながらある。それは、なにか一つの物語を経験しているようで、視界は目の前の現実よりも、その食べ物の味が生み出す景色を見、まわりの音は物理的距離はそのままで遠くへ遠ざかり、一瞬がとても長い時間感じられる。

これは西田幾多郎でいうところの純粋経験であると私は考えている。西田自身の喩えでは「美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ」ている「刹那」とあるが、これは音楽鑑賞に限らず経験可能な超越的体験である。

 

  • 批評を〈再成熟〉するにはどうすればよいのか

 

熟成肉、というのがここ数年の日本ではうけている。その名の通り「寝かせた」肉のことをいう。欧州では肉を寝かせて食べることはさほど珍しくないが、日本ではまだまだ新鮮な肉が主流だ。新鮮なほうが良い、というのが一般常識になっている。けれども必ずしもそうではないのだというのは、この「熟成肉」というワードから伺える。肉を熟成させるには、温度と湿度が管理された貯蔵庫でおおよそ2週間以上、長いと3ヶ月ほど寝かせる。もちろん外側にはカビが生えるわけだが、削ぎ落とせば問題ない。中身は腐ることなく、素晴らしく育っていく。ただその素晴らしいのは適切に管理された熟成肉に限った話で、ひどいところだと腐りかけの肉を、これは「熟成肉」だといって出していると聞く。

批評というカテゴリーには、明確な境界線が存在していない。「肉料理」というと肉単体の料理のことをいうのか、肉がメインの料理のことをいうのか、4割くらいの肉が入っていればいいのか、わからないようなものだ。野菜を食べようと「サラダ」を注文しても、野菜より肉あるいは魚が多いこともある。作ったものに情報を貼るのは提供者でも、それがなんであるかの判断は、結局のところ消費者(読者)に委ねられている。

 

消費者の拡大にもっとも有効な手段のひとつがムーブメント(流行)を起こすことであるが、これは”まじめな”提供者にとってはデメリットが多いのも事実だ。急速なムーブメントは無知な消費者と提供者の双方を産む。上の熟成肉の例で、衛生上よろしくない肉を提供するのは提供者の無知であり(無知を装っている場合も考えられるが)、それが売れるというのは消費者の無知でもある。

読者や消費者を広げたとき、”まじめな”提供者たちが行うべきことは決まっている。質の高いものを提供しつづけること。そして、それを受け取るものたちを啓蒙することだ。

 

あとがき

 

この文章には、多分に「体験談」が盛り込まれている。また一般的に批評と呼ばれる文体としては柔く、それは普段から批評文を読み込んでいる読者諸君にとっては頼りないものであったことだろう。

「批評は対話から生まれる」。これは、今回の文章が批評再生塾の最終課題として提出されるより前の講義で、講師の佐々木敦が塾生に放ったことばだ。わたしはこの文章を書きながらとくとそれを実感した。この文章には私のアイデアなどひとつもないと言ってよい。その殆どは対話から生じた、他人から得たものだ。

 

食はアカデミックな研究ではもっぱら科学の対象である。それはチョコレートとて同じことだ。実際『チョコレートの科学』という本も、日本の大学教授らの共著で出版されている。何種類の香気成分が含まれているのか、油脂が酸化しにくいのは抗酸化物質であるカカオポリフェノールが含まれていることによるからだ、そういう研究が興味深く意義深いものであることに違いはない。他のどの食品でもそうだ。「食を科学する」とグーグル検索をかければ3,050,000件の検索結果が得られる(2017年3月4日現在)が、「食を人文科学する」と検索して得られるのはその3分の1ほどの量だ。(注釈2)これは人文科学する、という表現が一般的でないからともいえるが、実感としても、食を「人文科学」的に捉えて研究、批判している文章というのは少ない。今回の参考文献のひとつである『いま蘇る ブリア=サヴァランの美味学』の著者、川端晶子は自らの専攻分野のひとつが「食哲学」であると同著のプロフィール欄に記しているものの、学問的に食哲学が認知されているかといえば答えはノーだ。食、とくに美食はこれまで語ってきたように、批評と非常に親和性が高い。それにも関わらず、批評の対象は文学や演劇、映画や音楽ばかりで、漫画という今や大衆に迎合された文化でさえ対象となる機会は少ない。

それならば、私は食を人文科学の射程にかけよう。批評の対象として捉えよう。そう思って書いたのが今回の論考である。

 

注釈2:グーグルイグザクトサーチで完全一致した結果のみの場合、「食を科学する」で18,500件の、「食を人文科学する」だと0件の検索結果が得られる。

 

おもな参考文献

ブリア=サヴァラン著、関根秀雄・戸部松実訳、1967年、『美味礼賛』上下 岩波文庫

川端晶子著、2009年、『いま蘇る ブリア=サヴァランの美味学』東信堂

瀬戸賢一 編著、2003年、『ことばは味を超える』海鳴社

クロエ・ドゥートレ・ルーセル著 宮本清夏・ボーモンド愛子・松浦有里 監訳、2009年、『チョコレート・バイブル』青志社

西田幾多郎著、1979年、『善の研究』岩波文庫

 

文字数:9507

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