彼女と彼女の猫。
私が初めて新海誠の作品を目にしたのは、高校一年生の時、パソコン教室での自習の時間。自習とは名ばかりで、皆ネットサーフィンをしていた。私もそうで、YouTubeで音楽を聴いていた時だった。ふと目に写ったモノトーンのサムネイルが気にかかった。新海誠が1999年に初めて自主制作した手描きアニメ『彼女と彼女の猫』だった。
1、『彼女と彼女の猫』について
新海誠のフィルモグラフィーを振り返る時、一般にその処女作は『ほしのこえ』(2002)とされる。『彼女と彼女の猫』は、わずか五分にも満たない短編アニメーションだ。しかし新海自身が「初期衝動と原風景そのもの」(注1)と呼ぶこの作品を、単なる習作の一つとして数えて良いものであろうか。このことについては、先日発売された『ユリイカ』の新海誠特集において、同作について批評した大久保も指摘しているところなので深く言及しない。だがしかし、この作品が新海誠という、いまや国民的に成長した一人の監督、その作品を読み解く上において非常に重要であることは間違いないだろう。
2、「高貴な貧しさ」を必然的に魅せること
『彼女と彼女の猫』は、五つのセクションに分けられている。その全編がモノトーンで構成される。これは、言うまでもなく新海自身が自主制作アニメを作成するにあたり、自らの負担を極力減らすべくして取った策だ。手描きを主にし、3Dアニメは補助的な使用に控えているのも、同じ理由からである。大久保が『「彼女と彼女の猫」論』のなかで「高貴な貧しさ」と呼んだこの制約からなる条件。これを「敢えて」の演出として魅せることができる技量が新海にはある。
例えば劇中に登場する「子猫のミミ」は、主人公兼語り手である雄猫の「チョビ」のガールフレンドとして登場する。チョビのセリフには、字幕に加えて新海自身の声が当てられているのに対し、ミミのセリフは字幕のみである。これは単に声優を用意できなかった、出来たとしても、それにかかる手間を考慮して用意しなかった。そう考えて差し支えないだろう。だが新海のこのアニメーションは、見る者に「貧しさ」を感じさせない。セリフは、白地に明朝体の一種とみられるフォントで表示される。そこに声はない。しかしその余白、声がないことが、むしろ画面を追う私たちにとってのインパクトとなる。加えて寂しさといった感情が、色のない文字に込められているように感じられてくる。
モノトーンのアニメーションについても同じことが言える。
「生活していくことの漠然とした寂しさ、微かな痛み、ささやかな温もりなど、言葉では伝えにくい感情を映像と音」で表現しようとした(注2)というこの作品において、色はむしろ排除されるべきであり、それによって平凡な生活の中で感じる、言いようのない寂しさや孤独感が強調されていると感じる。彼はカラーアニメーションが作れなかったわけではない。この作品を作成するにあたって効果的な演出として、モノトーンを選択した。もし、この作品が、新海誠というたった一人の人物によって、しかも当時サラリーマンだった彼が空き時間を酷使して作成したものだいう事前情報なしに鑑賞したなら。初めて作品を見たものはそう考えるはずだ。
3、詩的な言葉選び
彼の作品はいつも「ことば」が印象的だ。新海誠の作品をいくつか見たことのある者ならわかるだろう。新海はことばにこだわる。例を挙げよう。8月に公開された上映中の最新作『君の名は。』では、バンドグループのRADWINPSが劇中歌はじめ全ての音楽を担当している。新海は、今作において劇中歌の「とあるワンフレーズ」を観客に聴かせたいがためだけに、アニメーションの尺を20秒延ばす、といったことをしたそうだ。(注3)
これは、アニメーション制作の現場において「おかしな」ことである。見る側にとってはたったの20秒かも知れないが、作る側にとってはあまりに大きい20秒だ。なにせ、この数十秒のために新たな絵が必要となる。しかも静止画ではなくアニメーションだ。一枚や二枚で済むはずがない。そんな手間ひまをかけてでも、新海は観客にRADWINPSのボーカル、野田洋次郎の「こえ」を届けようとした。新海にとっては劇中歌のワンフレーズが、セリフと同等もしくはそれ以上であるということだ。ことばにこだわる彼にとって、音楽は単なるメロディーではない。詩(うた)なのだ。
『彼女と彼女の猫』には、こえのあるセリフと、こえのないセリフがある。そのどれもが、確実に見るものに伝えられていく。チョビのセリフはゆっくりと、明瞭に、短い言い回しで紡がれ、ミミと、チョビの飼い主である「彼女」のセリフは、字幕であるがゆえに存在感を持っている(細かくいうと「彼女」には2度だけ声付きのセリフがある)。それはセリフというより、語りというより、詩に近い。「地軸が音もなくひそりと回転して」というような過剰なまでの比喩表現、テンポ良く短く紡がれることばたち、反復されるミミのセリフ、多用される体言止め。これだけ見ても、『彼女と彼女の猫』内のことば(語り、声つきと声なしの両方のセリフ)たちは詩的な性格を持っている。
4、途切れた風景が紡ぐもの
生活感のある部屋の風景、建物の隙間から覗く青空、高架下の茂み。
新海誠の作品において特徴的な、ナレーションやセリフとは直接的に関係しない風景カットの連続した切り替え。この特徴はすでに、『彼女と彼女の猫』で強く現れている。
「カットの切り替えのなかで映像作品としての強度を出していきたい」
「つまり、カットが積み重なっていくことでなにかが紡がれていくというのが好きなんですよね。」
新海はインタビューにおいて、このように語っている。カットの積み重なりによって生み出される「なにか」とはなんであろうか。それは時間であり、言葉では伝えにくい感情(注2参照)であり、物語である。
前章で語ったような詩的なことば選びに、風景が組み合わさることで、生活の中で私たちが感じる、ことばだけでは表現しえないもの、複雑な感情を表現したのがこの作品であり、またその後の新海誠作品でもあると言えるだろう。
作品の「擬態」しようと思ったポイント
始まり方
注1、2016年に同作を原案としてアニメ化された『彼女と彼女の猫ーEverything Flowsー』の公式サイト内、新海からのスペシャルコメントより。http://www.kanoneko.com/comment/
注2、新海誠の旧公式サイト「Other voices-遠い声-」から『「彼女と彼女の猫」について』より。
http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/cat/index.html
注3、『ユリイカ』2016年9月号
新海誠特集 RADWINPSへのインタビュー より。
文字数:2774