東浩紀はわたしたちになにを求めたか
1、東浩紀の課題とその意義
「批評再生塾第1期を総括せよ」
これがゲンロン批評再生塾第2期の初の課題であった。東が掲載した課題についての説明文には、以下のような記述がある。
去る3月、批評再生塾は、第1期代表として吉田雅史・上北千明(川喜田陽)の2名を商業誌へ送り出すことを決定した。彼らの論文はネットでいまも読める。そのどちらかを選び、熟読したうえで、批評文を記すこと。
この文章を正確に読み取るならば、わたしたちは昨年度の代表者二名、すなわち吉田と上北の修了論文のどちらか一方を批評対象として選択し、その批評文についての批評を書かなければならない。だが、それがわたしたち2期生に課された、本当の課題なのだろうか。
課題のタイトルは「批評再生塾第1期を総括せよ」である。
「総括」とは、バラバラのものをまとめることだ。吉田や上北にとって、彼らの書いた修了論文はそれまでの期間、彼らが批評再生塾を通して学んだことの集大成であるかもしれないし、それゆえ、その修了論文を批評することは、吉田ないしは上北を総括することともいえるかもしれない。ただ、彼らの修了論文に対する批評を書くことが、批評再生塾第1期を「総括」することになるかと聞かれたなら、答えはノーである。
先の引用部に該当する第二段落の文章内容がそのまま今回の課題であるのなら、この「批評再生塾第1期を総括せよ」というタイトルは妥当ではない。しかし、東は仮にも(というと失礼になるかもしれないが)、プロの批評家である。課題内容に不相応なタイトルをむやみに付けるものとは、とても思えない。東はこの課題説明文のなかで、「批評家の仕事は批評」であることを二度も記述し、強調している。この文章の反復には意味があるだろう。つまり、吉田と上北、そのどちらかの修了論文を批判することだけが、今回の課題ではない、ということだ。吉田か上北の修了論文に対する批判を書く、それもまた一つの回答ではあるが、それだけがこの課題の絶体解ではないのである。彼の真意は、課題と、その課題の説明文として出されたこの文章を、2期生のわたしたちが「どう批判的な目線をもって」読み解くのか、という部分にあるのではないだろうか。そうであるとすれば、わたしたちが今回提出すべきは、やはり吉田や上北、あるいは横山らの文章に対する批判などではない。
2、批評再生塾第1期を総括せよ=?
今回の課題でわたしたちに求められているものが、昨年度の論文に対する批評ではなく、課題そのものへの読解能力であったとして、東がわたしたちに出した「批評再生塾第1期を総括せよ」というテーマは、いったいなんだったのだろうか。東がこのようなテーマを掲げたのには、なにか意味があるのだろうか。ただのカモフラージュとみるならばそこまでだが、このテーマ自体にもまた意味があるとすれば、それはなにか。
「批評再生塾第1期を総括せよ」という東のことばを思い切って言い換えるなら、「批評再生塾を批評せよ」となるだろう。わたしは今回の課題が、必ずしも文字通り「第1期」についての言及を伴うべきものだとは考えない。今回の授業科目を思い出してもらいたい。「批評」である。仮にゲスト講師が用意するテーマを「小テーマ」と呼ぶならば、回ごとに設定された授業科目は「大テーマ」だ。今回の小テーマは批評再生塾第1期の総括であるが、先の議論が正しければ、わたしたちが書くべきは、昨年度の課題に対する批評やまとめなどではない。仮にそうであるとして、つまり、この大テーマの意味するところが「批評に対する批評」ではないとして、他にどういった解釈ができるだろうか。
わたしたちがここで持つべき目線は、批評再生塾一期生のものではなく、佐々木や東、他ゲスト講師らの目線でもなく、ましてや批評再生塾2期生としての目線でもない。それらの目線は、すべて「批評再生塾」という枠の内にあるものでしかないからだ。必要とされているのは、枠の外側からの目線である。これは今回の課題に限った話ではない。「批評」という形で文章を書くとき、わたしたちは批評対象と、それを受け取る人間、その双方が身を置く、一つの大きな枠の、その更に外側に身を置いて、それらの関係性を見つめなければならない。
わたしが今回、与えられた課題そのものと、東の課題に対する説明文に焦点を絞って批評を書いた理由はここにある。批評再生塾では、講師が受講者に課題を与え、受講者はそれに応える。そして講師は提出された課題を吟味し、評価するといったサイクルが作られている。わたしたちはそこ(批評再生塾という枠組みの中)で、自らが選択した批評対象に懐疑的でありながら、与えられるテーマそのものに対しては、驚くほど従順になってしまってはいないだろうか。実際、今回の課題に対しても、なんの疑いもなく、吉田の『漏出するリアル〜KOHHのオントロジー〜』ないし上北の『擬日常論』に対する批評を書くのみに終わった2期生が、いったい何名いただろう。講師と生徒という関係性が、必ずしも主従関係を生み出すわけではないことは、批評再生塾生であれば百も承知であろうと思う。それでも無意識のうちに、課題には素直に応えるものであると考えてしまっているのだ。
批評再生塾生であるということは、たえず批評再生塾の価値を疑い続けるということなのだ。
東がそういうように、わたしたちは批評再生塾そのものに対してもまた、批判的なまなざしを持つ必要がある。そうでなければ到底、批評を再生させるという大仕事を成すことはできないだろう。
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