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追想批評宣言

批評は過剰な営みであるとしばしば言われる。それを言うなら文化というものが一般に過剰であるのかもしれない。さらに言うなら人間の思いというものがそもそも過剰であるのかもしれない。
過剰なものをめぐる過剰なもの言いを、次のような過剰なものについて述べることから始めてみたい。

1980(昭和55)年、剣戟テレビドラマの主役として人気を確立していた杉良太郎が自ら一編の詞を綴り唄った。 遠藤実が添えた音楽は当時流行りの歌謡ロック調である。序奏に続き、旋律に乗せた歌唱というよりは少々旧い歌よろしく前口上を、強い巻き舌を伴う下町口調でつぎのように語り下ろす。

昨日一人の男が死んだ
戦って戦って ひっそり死んだ
あいつは何の取り柄もない
素寒貧な若ものだった

特徴もない無名の青年が戦いの果てに孤独に死んだことをこのヴァースで報告したのち、それを歌い出しは逆接で受けて始まる。

しかしあいつは知っていた熱い涙を
戦って死ぬことをどうして死んだのかとは
訊かない 訊かない
でもあいつの青春は
何処へ何処へ埋めてやればいい

死を恐れず志を貫いたことを慮ったうえで、夭折の無念になお已まぬ戸惑いを吐露する。そしてサビにいたって「君は人のために死ねるか」と、歌唱つづいて語りの形で題名にあたる一文を繰り返す。そしてこの唄のそもそもの由来(杉主演の刑事アクションドラマの主題歌)につなげて「あいつの名はポリスマン」と、往時の歌謡ロックのひとつの極みを突き付けるがごとく巻き舌と小節を一層強く利かせた癖の強い仕方で歌い上げて一括りとする。
無名の単独者の短い生と非業の死、その無念をマッチョのヒロイズムと捉え直して弔うこと。そのふるまいの甚だ時代錯誤であることもすでに語り手は充分に承知しており、かくのごとく反時代的であるからこそなおさらに、語り手はこのヒロイズムをあらためて肯定し、むしろマッチョの美学を推し進める。その認識は後半(2番)で明確に言明される。

昔 人は戦さで死んだ
国のため戦って 黙って死んだ
いま熱い血は何処にもない
泣くことさえ人は忘れた

続けざまに畳み掛けて語る、先の大戦の記憶に託けたこれ見よがしな錯誤ともみえるその過剰さ、それへの違和感には少々堪えて、まずは続く歌唱を聴き届けよう。歌い出しはまた逆接で受けて始まる。

しかし世慣れたさゝやきや薄ら笑いで
倖せを守れるか
明日に男が死んで
消えても消えても
花も言葉もいらない
風が空を過ぎたら忘れてほしい

冷笑的迎合・妥協に対する単独者としての断固たる拒否を示し、死へとめがける孤独な儚さ・世俗否定を謳い、「君は人のために死ねるか」を再び繰り返すサビへと渡す。

許せないやつがいる
許せないことがある
だから倒れても倒れても
立ち上がる立ち上がる

一番目のサビのあと「あいつの名はポリスマン」と結び、二番目のサビのあと「そいつの名はポリスマン」と結び、最後には憎むべき仮想敵の存在とそれに立ち向かう不屈の意志を確認したうえ「俺の名前はポリスマン」と自ら名乗りを上げて結ぶ。

過剰なまでの激情と虚無感が入り混じりながらなお苛立ちが収まらぬと言わんばかりに叫び続けるこの唄に、私たちはまず戸惑い立ちつくしてしまう。発表された当時にしてすでに荒唐無稽として独特鮮烈な印象を以って受けとめられたとみえ、おそらくはかえってそれゆえに、以後深夜AMラジオ番組などに採り上げられ、近年にいたるまでたびたび思い起こされ、一部にいわゆるカルト的人気を得ているようである。ヒロイズム・マチョイズムに同一化または憧憬し心酔する、錯誤・反動と感じ反発する、社会性を措き娯楽と割り切って楽しむ、過剰さにむしろ滑稽をみて愛でる……いくつかの受けとめ方があるだろう。テレビのチャンバラ時代劇の主役として人気を博した役者がその世界観をそのまま現代に置き換えたような刑事アクションの主役を演じ、そして自ら唄うその主題歌だから、荒唐無稽なのも無理はなく、あとはそれぞれに受けとって愉しめばよい。好みに合わないなら遠ざければよい。……そうではあるのだが、何かが引っかかる。過剰であることの横暴を斥けたい気持ちと、真摯さを何らか受けとめるべきではないかという気持ちとが相克する。

結局、この唄はなぜこのようなものとして生まれたのか、なぜこのように書かれ唄われなければならなかったのか。この唄が真に伝えようとしていることは何なのか、またはこの歌をこのようなものとして仕立て上げた内在的な力はどのようなものなのか。暴力的なまでに過剰な真摯さにむせ返り戸惑い立ちつくしながらも、しばし堪えてその真摯さを、否、そのさらに奥をこそみなければならないのではないか。この真摯さを伝えるためになぜこのような暴力的な力が伴ってしまったのかを。さらに言えば、その暴力性を受け手たる私たち自身が疎みながらなお惹かれてしまうそのあり方を。それまでを見通してこそ、この唄の何を受けとめることができ何を受けとめえないかがわかるのではないか。

無名の若者の無念の死を弔うことからこの唄は出発する。志や情けのために困難を恐れず生きたことはそれ自体讃えるべきことであるはずだが、早すぎる死によって成功への途も断たれた。せめてその死を弔うべきであるのに、そのように共感し弔う者が誰もいない。昔を思えばこのように戦いを生き戦いに死んだ者はたくさんおり、その頃人々はその思いを承け泣き憤ったのに、今ではそんな人々の思いが忘れ去られている……ここで語り手が真に求めているのはだから、懸命に生きて死んだ者への弔い、なお同じように生きる者への労いなのである。真摯さとそれゆえの辛苦への、気遣いとか共感とかいったものなのである。なにしろこの唄は「俺の名前はポリスマン」、つまりそのように懸命に生きているのは語り手自身なのだという宣言で終わるのだから。

同じように生き無念にも先立って果てた「あいつ」や「そいつ」を弔うことは、「俺」自らを労うことでもある。俺は戦っている、それで死ぬかもしれない、「忘れてほしい」とは言うもののやはり自らの生き方の意義を確認したいし、それを誰かしらに認めてほしいのである。だから昔の「戦さ」の記憶を思い起こしもする。あの時代は皆そうだったのに、今はその激しく懸命に生きる気持ちを忘れて冷たく軽薄に生き永らえるのかと咎めまじりに嘆く。この、命をも懸けんとする憤怒激情とそれゆえの辛苦、それへの共感の熱望、共感が容れられないことへの憤りが、もとの激情に立ち返ってなおさら激しさを増してしまい、この激しさに受け手の多くは共感よりも戸惑いや恐れが先立ってしまうのである。むしろ真っ先にこの激情をこそ分かち合え、恐れる者は去れと難ずるならばもはや致し方ないことではあるが……。

辛苦すら伴う激情という主観が、一方でむしろその辛苦をも不可分にして真なる証しであるとして肯定し、他方で拒否への反感からなおさら当の激情を焚きつけてしまう。このようなあり方はしばしば見受けられるが、根底にあるのは辛苦や激情の肯定や同一化よりもむしろ、共感や気遣いへの渇望、そして根源的な恐れではないのか。 ところがこの根源的な恐れを、恐れそれ自体ゆえに激情の鎧で覆い隠し忘れ去り、激情に駆られるままさらには激情を分かち合う「われわれ」を仮構してしまう……かくして、真に受け取るべき真摯さは過剰さに霞み砕け、受け手はたじろいだのち思い思いにその断片だけに惹かれ受けとってしまうのである。

私たちは表現が伝える思いへの戸惑いや苛立ちに立ち止まりしばし堪え、この表現が他と対したとき自らを駆り立てては或る者を遠ざけまた或る者を惹きつける仕掛けを捉え、またそれの底にあるであろうものを眺め推し量った。それは、表われた思いにどう寄り添い、どのように受けとめ分かち合うことができるのか、またどのようにそうできないかという自分の思いを探ることでもある。そしてここでは、何を以て「われわれ」と呼ぶのか、という問題も見出される。ともかくも受けとめるとは何がしかを等しく真なるものとして分かち合うことであるからだ。それが多分に誤解と各自の思い為しによるものであると言ってもなお次のように言わざるを得ないだろう。すなわち、真なるものをまったく認めないことには私たちはもはや自ら何を言い何を為すことができるというのか。このときその表現を作者の固有の実存や、時代やジャンルといった製作背景に帰するのは間違いとも言えない。むしろ私たちはときにそのような知識や理解をさらなる理解のため積極的に援用もする。しかし、それだけに終わってしまっては結局、その表現がそれを伝えるべくそのように成り立った当の何かを切り捨ててしまうのではないか、その懸念は折に触れて思い起こすよう努めたい。私たちは批評一般と同じく、いやあるいはことさらに、対象への自分の違和感や苛立ちからまず出発する。そしてその違和感と、違和感を引き起こす当の対象のあり方との両者にまずはあえて寄り添い、それぞれの然るべくあることを聞き容れ、その奥にある何かまで至ろうと努める。この読み方をいま仮に「追想批評」と名付けることにする。私たちは表現が然るべく表現する思い(想い)を掘り下げたい。それは私たちにとってしばしば違和感を、苛立ちすらをも催すが、しかしそれだからといってただちに遠ざけるのではなく、あえてその緊張に寄り添い、その思いの奥にあるもの、その思いがそのようになるほかなかった事情を内在的に追い、推し量ろうと努める。この行ないは作品の製作時に対して後追いであることを含み、製作や作品世界内の進行を追走し随走することを含み、作品とその時代を追憶することを含み、作品について随想することを含む。以上の構えを明らかにするためには、このような突飛な対象を手始めに挙げるのが適当であろうと考えた次第である。

以下、目論見としては、先の大戦の降伏受諾の顛末という制作当時からの近過去を追った1960年代の『日本のいちばん長い日』と、緻密なSF設定の上に社会・政治の未来への想像力を広げた1973年の『日本沈没』を採り上げたい。両者において、真摯であるということと〈われわれ〉というあり方とのかかわりを私たちはあらためて問うことになるだろう。

 

『日本のいちばん長い日』と来し方の問題

『日本のいちばん長い日』は1965(昭和40)年にノンフィクションの書物として刊行され、まもなくこれを原作に橋本忍の脚本と岡本喜八の監督の下で映画が製作され、1967(昭和42)年に同じ題名で公開された。もとは当時文藝春秋社員の半藤一利が、とある座談会をきっかけとして関係者への聴き取り取材や文献調査を行ない書き上げた(当初は諸事情により編者として大宅壮一名義が冠され、大宅による序文が付されている)。遡ること20年前、1945(昭和20)年814日正午から翌15日正午までの24時間、御前会議でのポツダム宣言受諾決定から政府内の諸手続と、その阻止を図った陸軍抗戦派将校による宮城事件、そして玉音放送までの紛糾・鎮静・妥結の顛末を描いている。大宅による序文を引けば「〝二十四時間の維新〟」であり「いままで埋もれていた資料をもとに、日本人の精神構造を主題にして構成した、二十四幕の〝長編ドラマ〟」である。

ここで本作を取り扱うにあたり一点申し述べておく。以下本稿が注目するのは、この映画と書物の、史実に基づくものとして綴られた作品、物語としての、そしてそれに凝縮された状況認識の説得力である。のちに追う事の顛末の具体的仔細、各人物の役割や働き、個人や組織での利害などの背景等々については今日までさまざまな意見があり、言ってみれば歴史認識としての半藤説に対して異論も散見される。さらに言えば敗戦を815日、とりわけ玉音放送に象徴させてきた戦後の通俗的敗戦認識をめぐっても近年異論が挙がっている。しかし本稿は、公開当時から今日まで映画・書物ともに本作が一定の社会的評価を保っていることを重視している。むしろ戦後日本において一般的・通俗的に受容されてきた認識の内実にこそ関心を寄せているのである。史実との厳密な対照、その当否の判定、ましてや対抗的史実を以ての論難は関心の上でも能力の上でも本稿の負うところを外れる。それは別途然るべき人々が然るべき手続きを以て為すべきことであろう。なおあえて管見を述べれば、「それは事実如何にしてあったか」はもとより、書物や映画に、いや歴史としてまとまり広く人々に知られるなかでなんらかの物語的なものといった認識図式に落とし込まれざるを得ない。人間の思惑や関係、行動や出来事の背景や影響といった相関、これらのことは今ここにしてすでに不確定なものを孕んでおり、極言すれば〈ただ一つの正しい歴史〉に対応させるのはほとんど無理にして徒労というものだろう。

 

さてこの映画は原作の大要を活かし、冒頭30分をポツダム宣言受諾をめぐる内閣の動静を描く前日譚に充てたのち、残り2時間を費やして24時間の群像劇を克明に描き出す。ここで、1時間ごとに一幕で計二十四幕の長編ドラマという小説仕立ての原作とは表現媒体を異にすることもあり、映画では際立った存在感を放つ二人の人物を実質的な主役と認めてよいだろう。一人は三船敏郎演ずる阿南惟幾陸軍大臣、もう一人は黒沢年男演ずる陸軍省の抗戦派青年将校畑中健二少佐である。一方では、国家・天皇に仕える帝国陸軍の代表にして閣僚として、戦争終結の「大御心」に応えるべく尽力する責務と、降伏を前に動揺し一部には激しい反発もある「陸軍六百万」の「粛々たる退却」を統率する長としての責務、その間で文字どおり懸命に役目を果たそうとする阿南陸相。他方では、創設以来初めての帝国陸軍全面敗北を受け容れられず、降伏の屈辱よりも玉砕の名誉をと血気盛んに訴え叛逆を企てる畑中少佐。帝国陸軍という一つの組織に居合わせ、互いに理解と団結を求めながら叶わず、やがて終戦工作とその阻止という相反する流れをそれぞれに象徴することになる。
810日の御前会議で天皇が戦争終結への意志を明確に表わした後、阿南は陸軍省の高級将校を集めて訓示する。抗戦か和平かにかかわらず「今後如何なる事態に立ち至るとも、厳正なる軍紀の下に一糸乱れず団結し、越軌の行動は厳に戒めなければならない」と。畑中は血気を抑え黙して訓示を聴く。おもむろに抗戦派青年将校の一人椎崎中佐が厳しい面持ちで質す。「大臣は進むも退くもこの阿南に付いて来いと言われたが、それでは退くことも考えておられるのですか」――阿南は「不服な者は、この阿南を斬れ」と厳しく応える。
陸軍の抗戦派は、陸軍大臣主導の戒厳令で終戦工作を阻止し本土決戦に持ち込もうと画策していた。ポツダム宣言が「全日本軍の無条件降伏」を要求し、かつ天皇の地位の墨守は明言しなかったからである。これを受け容れることは陸軍とその拠って立つ天皇・国体の全否定につながる。その計画を阿南に持ち込むが、阿南は首を縦に振らない。14日の御前会議後、つまりいちばん長い24時間が始まってすぐ、阿南が陸軍省に帰ってくるなり将校たちが取り囲む。ここに至って阿南と畑中は直接に対峙する。「御聖断は下った」。天皇の最終決断によりポツダム宣言受諾の政府方針が決したことを阿南は告げる。この上は「大御心」に謹んで従うのみである。「不服なものは、この阿南の屍を越えてゆけ」――岩壁のごとき威厳を前にして畑中は嗚咽号泣する。三船演ずる阿南の老練な威風と黒沢演ずる畑中の狂おしいほどの若々しく純朴な熱情とが直接に対峙する。そして以後両者は袂を分かち、終戦への流れと終戦阻止の流れとに分かれてゆく。

 

近衛第一師団長森大将は、かつて陸軍大学校での教え子だった東部軍不破参謀の訪問を受け「息子が親父の意見でも聞きに来たと」察し、終戦への大勢を前に動揺を示す不破を諭して承詔必謹の方針を確認する。近衛師団の決起を促しに来る若い将校を追い返していると言い、「わしの信念は動かん。東部軍もしっかり腹を決めておけ。かりそめにも、陛下の大御心に背くようなことは……ただしこれは、終戦とはっきり決まったらの話だがな」と。
近衛師団を決起させ宮城を包囲し天皇の翻意を図る終戦阻止のシナリオとして畑中らは「兵力動員計画」を練る。そして、自動車に乗って移動する閣僚らとは対照的に、自転車を駆って陸軍上層部の説得に奔走する。方面軍や師団の司令官級が動けば阿南も追認するのではないかと考えたのだ。しかし行く先々の老練な将軍たちはいずれもまともに取り合わない。のち宮城事件を鎮圧することになる東部軍司令官田中大将にいたっては、畑中の入室を見るなり「俺んとこに何しに来た!? 貴様らの考えておることは聞かずとも分かっとる。帰れ!」と一喝する。
 行き場を失って陸軍省に戻り井田中佐に面会した畑中は、あらためて自分たちの計画と熱情を訴える。井田は自身の心情としては畑中に全面的に共感しながら、他方で陸軍上層部の動かしがたい大勢を苦々しくも充分に理解しており、自分の無力さに打ちのめされ不貞腐れている。ある種のエロスすら感じさせるそのニヒルな佇まいは高橋悦史という演者の持ち味にまったく拠っているのだろうが、降伏・敗戦がほとんど明らかに定まっているという背景を前にして心情の実感を象徴的に抽き出している。
父(天皇)と家(日本帝国、国体)の乗っ取りあるいは取り潰しの危機を何としてでも食い止めようとする息子(抗戦派将校)は、兄たち(陸相以下陸軍上層部)を説き伏せに回るが、兄たちは大人の事情に子供が口を挿むなと取り合わない――といった具合に要約できるだろうか。末弟(畑中ら)は家を守ろうとし、兄たちは家の理屈で末弟の求めを斥ける。父がこうと決めたからであり、年長者たちから見てそれが次善の策だと思えるからである。しかし幼い末弟は、家を守ろうとしてきた辛苦と奮い立たせてきた猛りを忘れられない。実際の家の向こうに守るべき理想の家を望み見て、実際の家は欺瞞だと叛逆する。家を守ることが末弟たちの実存の意味を支えていたからだ。

 

それにしても、一億もいる国民の本音からすれば、玉砕の名誉で一致団結などしないのではないか? とすれば抗戦論は中央の軍人官僚の横暴な浅慮に過ぎないのではないか? もちろん史実としてそのような側面は戦後幾度となく指摘されてきたし、現場での専横の告発の恐れなど事態をめぐる大小さまざまな利害思惑があったことだろう。そうではあるのだが、あえて抗戦派の理屈に引き続き耳を傾け、また前線・末端に目を転ずると事の難しさが見てとれる。
原作に従って、映画は都心から離れた3つの場を並行して描く。海軍大佐小園安名は精鋭の302航空隊を抱える厚木基地の司令として徹底抗戦を主張する。房総沖に迫るアメリカ軍機動艦隊を前に中央の指揮系統から離れて独自行動を図るが、最後にマラリアで倒れて独自行動は頓挫する。埼玉の児玉基地では横須賀沖のアメリカ艦隊を攻撃すべく特攻隊が出撃する。強面の将校が出撃しようとする若い特攻兵たちに檄を飛ばす。地元民が多数集まり、女性たちがおはぎを差し入れ、子供たちも加わり日の丸を振って「予科練の歌」を歌い激励する。そして横浜では陸軍大尉佐々木武雄が、勤労動員中の学生たちに檄を飛ばし、やがてトラックに分乗して上京、首相らの焼き討ちを図る。史実とは風貌が異なるとも言われるが、壮年の天本英世の怪演ぶりが黒沢に伍する印象を残す。横浜の学生が持っていた岩波文庫の『出家とその弟子』はやがて軍靴に踏まれる。これらは前線・末端の動きである。かれらは戦争の個別具体的な辛苦に直面し、それを乗り越え士気を奮い立たせてきた。辛苦が回りまわってむしろ実存の根拠を支えてすらいる。この循環を絶って戦争をやめることの困難があらためて迫ってくる。終盤、児玉基地で戦争停止を連絡する副長の言葉に強面の飛行団長が沈黙するとき、複雑な面持ちに見えるのは私たち受け手の思い為しだろうか。

 

畑中が将軍たちに追い返されるなか、阿南もまた自身の責務として別の軋轢の只中にある。和平派の東郷外務大臣や米内海軍大臣との対立。詔書での戦況認識記述をめぐる、山村聰演ずる米内海相との激論は圧巻である。米内は各地に散らばる戦線での死者数を列挙し、このうえ犠牲を重ねるのか、戦争継続が不可能であるのは現に明白であると机を叩いて訴える。対する阿南はその事実に、個々の戦闘には敗けたが、戦争の勝負はついていない、「陸軍と海軍とではこのへんの感覚が違うのである」とほぼ正反対の評価を下し譲らない。阿南のその抗弁の背景には畑中ら陸軍抗戦派の動きもある。敗色濃厚であることをたやすく認めては抗戦派の反発を抑えきれない。何万何十万という莫大な死を経てすら、生存の優先か生死の根拠の死守かと相容れがたく対立する。やがて所用で海軍省に戻った米内は、海軍内でも降伏拒否・徹底抗戦の突き上げが激しいことを目の当たりにし、閣議に戻ると阿南案をあっさり受け容れる。
総理大臣鈴木貫太郎は、日清日露戦役にも参加し帝国海軍の水雷術の発展に貢献した生粋の海軍軍人であり米内海相の先輩である。他方、予備役に入り侍従長を務めた際に侍従武官だった阿南が心酔したという。こうした史実を併せて考えると一層興味深いものがあるが、笠智衆演ずる鈴木総理は笠の持ち味そのまま、軍人然どころか一見好々爺の趣きである。しかし、閣僚の激論に口を挟まず納得尽くで妥結するまでを見届ける、他方でポツダム宣言受諾の日取り延期を進言する阿南に「それはできません。悪しからず」と明確に断るといった腹芸ぶりに、軍人出身の肝の据わった人物像がよく重なる。
長い激論で詔書の決定が遅れたため、玉音放送の録音は夜にずれ込む。決起を促すため汗まみれになって軍の目ぼしい将校へと奔走する畑中、児玉飛行場からの特攻隊出撃の場面が交錯する。畑中の熱意に動かされた井田が森師団長の説得を試みる。井田が訴えるのは要するに、これまで文字どおり死を覚悟して(そのように教え込まれ命じられて)戦ってきたのに本土決戦もせず負けを認めるのは卑怯である、聖断を理由にするのも責任逃れである、これまでの戦死者や今まさに戦っている前線兵らに申し訳が立たないということである。生の根拠としての辛苦と闘争という転倒循環がここでもあらわになる。森は感服を示しながらも決起を明言しない。阿南の義弟竹下中佐と面会したあと井田と入れ替わりに師団長室に入った畑中が燃え滾る血気をついに暴発させる。畑中らが森司令官および同席していた義弟の第二総軍参謀白石中佐を勢いあまって殺害してしまう。こうしてクーデタは退路を断ち宮城占拠の実行へとなだれ込む……。
クーデタには近衛の一部の連隊が参加し、森師団長の命令が偽造されたが、やがて田中大将率いる東部軍に鎮圧される。前後して15日早朝には阿南が自刃する。畑中は占拠していた内幸町の放送会館から決起声明の放送を図るも東部軍からの電話連絡で諭され断念、椎崎とともに宮中周辺でビラを巻いたのち両名とも自刃する。クーデタに関わった近衛師団の古賀参謀も安置された森師団長の遺体の前で自刃する。

 

終盤、志村喬演ずる下村情報局総裁が言う。

あらゆる手続きが必要だよ。儀式、と言ったほうが正しいのかも知れないがね。日本帝国のお葬式だからね。

玉音放送を含めた政府の正規の手続だけでなく、宮城事件をももたらしたさまざまな混乱、殺害・破壊や自刃まで、すべてのことの上に初めて日本の敗戦=終戦が成った。あるいは防げたこともあったかもしれないが、何がどのように防げたのかはわからない。まさにそのさなかに、循環のさなかにある人々にとってはなおさらに。おそらく進むにも退くにも何らかの犠牲が避けられなかった。

 

『日本沈没』と行く末の問題

『日本沈没』は小松左京によるSF小説であり、またこれを原作として製作された映画である。小説刊行前から映画化の企画が進み、1973(昭和48)年の間に小説刊行と映画公開が続いた。映画は本編監督を森谷司郎、特撮監督を中野昭慶、脚本を橋本忍が務めている。さきに触れたように橋本は先立って『日本のいちばん長い日』でも脚本を書いた。また森谷と橋本は黒澤明作品への参加で頭角を現し定評を得た人たちである。なお以下では基本的に映画版を基に考察し、必要に応じて原作小説との異同を付記する。
その数年前の1970年には大阪万博があり、小松はテーマ館サブプロデューサーとして関わっている。また同年は連合赤軍の浅間山荘立てこもり事件や三島由紀夫と楯の会の防衛庁占拠・割腹自殺事件もあり、従来の社会と政治の理想が急速に退潮していく時期で、のち大澤真幸が「理想の時代」から「虚構の時代」への画期を成すと指摘している。
日本列島の沈没とその予測という中心設定は、地球物理学や情報科学といった当時の先端的科学理論をもとにしている。その上で、日本政府や国際関係といった社会・政治の動きまでドキュメンタリーまたはシミュレーションのように具体的に描いている。小松は60年代に梅棹忠夫らと知り合い、万国博の構想や日本未来学会の創設にも加わった。そうした未来学の思潮のなかでこの作品も準備されたことになる。東京オリンピックと大阪万博を経て二十余年前の敗戦の焼け野原はすっかり近代都市へと様変わりし、戦時下の記憶は薄れ国体論も革命論も色褪せて、物質経済的繁栄と科学技術の輝きが世の中を隈なく照らすと信じられ始めた時代だった。

 

さきに挙げた『日本のいちばん長い日』は、敗戦決定の間際まで、むしろ敗色が色濃いからこそなおさらにあえて〈栄光のための死〉を目指す論理が力を増していた。死へと向かう闘争の辛苦がむしろ生の根拠となり闘争をさらに駆動するという転倒循環。それを断つためにもさらに幾人かの命を必要とした。忘れ去られたはずのこの論理は『日本沈没』のなかで再び亡霊のごとく姿を現す。
山本首相の主導で、日本列島沈没に備えるD計画が進められる。陰の実力者渡老人は一人の僧侶と二人の学者を集め(原作では学者の専攻などは示されないが、映画版では「京都の社会学者と東京の心理学者」とされる)、D2計画で日本人を海外へ移民させるための計画書をまとめさせる。それはケース別に次の3案にまとまる。海外で新たに国家建設を図る・各地に散らばり同化する・何処にも受け入れられない、というものである。しかし実は、3名の有識者は当初いずれとも異なる結論に達しかけていた。それは、このまま何もせず日本人が日本列島とともに海に沈んで滅ぶのがよい、というものだった。提言書を手渡しながらこの究極の結論を告げるやりとりは、原作では有識者と渡老人、映画では渡老人と山本首相との間で行なわれている。原作・映「極端な考え方」(原作)、「付属的意見」(映画)とされているが、小説では渡老人が「やはり――そういう考えも出てきよりましたか……」と述べ、僧侶が「そこが――日本人が他民族と決定的にちがうところかもしれません。そういう考えが出てくるというところが……」と「薄目を開けて自分にいうようにつぶやい」ている。
渡老人は「あなた方三人――その考えが出たとき、ご自分たちの年を考えたかな?」とたずね、一緒に暮らす初枝(映画では「花江」)を指して、彼女のような若者のことを考えたか、と質す。渡は、日本列島とともに日本の文化や言語がなくなって日本人がただの人間になればよいが、文化や言語は歴史的な業であり、「日本人は、まだ若々しい民族で」そうはいかないだろう、と示唆する。その後しばらくして、富士山の宝永火口が噴火するなかで、別室に移っていた有識者の一人が過労のため倒れ絶命したことが示唆される。
197X 年という設定はほぼ執筆当時の同時代ということであり、有識者たちはほぼ間違いなく(各人はどうあれ世代としては)成年男性として戦争に行き、壮年期に終戦を迎えた世代だろう。30年ほど前にはいつ死んでもおかしくないような日常を送っていたのかもしれない。学歴などからいくらか安全な地位にいたかもしれないが、近しい人など世の中全体がそういう空気に満ちていたと思われる。国体や皇国史観といったものを戦中どう捉えていたかはわからないが、国家のための死と運命としての死とが身近だった時代を生きたことにはなるだろう。
終盤、映画では田所博士が山本首相と会い、日本とともに死ぬと告げる。原作では田所と渡が会い、長い会話がある。あろうことかそのなかで、この滅びの美学が反復して表明される。田所は日本沈没の可能性を感じたころ、そのことは隠していようと思っていた、と言う。それは自分の科学者としての勘で、言っても誰も信じないだろうからと初め言うのだが、会話を続けるうち、実は日本人が日本列島とともに沈没して滅ぶことを望んでいた、と告げる。「日本人はみんな、おれたちの愛するこの島といっしょに、死んでくれ。[……]なぜと言って……海外に逃れて、これから日本人が、味わわねばならない、辛酸のことを考えると……」そのあと渡の指摘から田所は、日本列島という「おふくろ」に恋をしていた、と告白する。そして続けて、日本列島の山河や四季の風景、生態が消え失せてしまえば、それはそのまま日本人というものもなくなってしまうことを意味する、と述べる。
こうした見方は『日本のいちばん長い日』で描かれた陸軍軍人の死生―国家観とも相通ずるものがある。一言で言えば、国家と個人の同一視であり、いよいよ国家の危機に際したならば国家とともに死すべし、それが正義であるという発想だ。その発想を根底から支えているのは、死へすらも向かう辛苦こそが生の根拠を成すという見方と、生の根拠を与えるのはただ国‐家のみという見方である。これらが特に戦争状態のなかで生じた転倒と循環であることはすでに見た。しかし同時代を生きた者にとって、そのからくりは見えない、または見えたとしても日常の実感として忘れがたいだろう。1931(昭和6)年生まれの小松は14歳で終戦を迎えた。徴兵年齢が下がってきて近い将来の自らの死を思いながら生きてきた小松少年の経験が、ここでも色濃く表われている。
思えば、戦争は人為の出来事とは言え十代の少年には抗う術もない災厄である。しかも無差別空襲から原爆投下にいたるアメリカ軍の日本本土攻撃は、技術の面も含めてその圧倒的な物的経済的優位を日本国民に見せつけた。当時を生きた人々にとってその大戦と天変地異とに災厄の経験としての大差はないと言えるかもしれない。これを傍証するかのように、映画での第二次関東大震災の陰惨な描写の多くが東京など都市の大空襲の記憶の反復であることは明らかだと思われる。小松がどの程度関わったか否かわからないが、監督の森谷、特技監督の中野、脚本の橋本ら映画製作陣も多くは戦争経験者のはずだから、映像的想像力はむしろまず大戦の記憶を基にするだろう。

 

では『日本沈没』はそのような滅びの美学を日本的とする見方にどう対処したのか。
映画では、山本首相が渡老人から日本人移民化の提言書を受け取ったのち、D計画の地殻変動分析室の場面で移民計画が思うように進まないことが示されたうえで、首相官邸での会合の場面が続く。日本人の移民を進めるD2計画の担当者である野崎特使が計画そのものの困難を語ると、山本は憤慨して反論する。

――民族が国土を、自分の国の土地を失ってしまったら、よその国へまで行って生きる権利は、今のところは誰からも保障されてない。それが国連、いや世界の現状だということです。
――それと今度のことは本質的に問題が違うよ!

そしてもう一度渡の下を山本が訪ね、おおよそ次のような旨を述べる。このまま何もせぬのがよい、とそこまで考えた先生方は偉かった。いったんそこまで考えたから、日本人が生き延びる行く末についてあらためて考え尽くすことができたのだと思う。そのうえで、私は少しでも日本人を生かさなければならない。これからは自分が直接諸国と交渉する。十万人、それがだめなら一万人、それがだめなら千人、いや百人、いや一人だっていい。少しでも多くの日本人を送り出すのが私の責務である、と。
前後して、潜水艇の若き操艇手である小野寺がD計画を離れ、玲子とともに日本を出てスイスへ向かうと同僚の学者・幸長に告げる。自分は国家公務員ではない、同志的結合で結ばれてはいたが民間会社を無断退職した風来坊で臨時雇いの身分に過ぎない、と言うのを聞いて幸長ははっとする。激務のなかで彼の地位を確認する者がいなかったのだ。そしてそれでも小野寺はある意味で飄々と生きている。小野寺と玲子のスイス行きはやがて玲子が噴火に巻き込まれて頓挫するが、今度は小野寺は日本に残り、救助隊に参加しながら玲子を探す。小野寺の乗った自衛隊のヘリを、じつは地上から眺めていた玲子らしき姿があった。原作での摩耶子にあたる人物は映画では登場せず、映画のらすとでは玲子らしき女性が雪の中スイスの鉄道に乗り、他方小野寺は包帯を巻いた姿で荒涼として広がる平原のなかを進む貨物列車に乗っている。
日本の外に日本は無しとする有識者や田所、殊に過保護なまでに日本人を心配する田所とは対照的に、日本という大きな家に縛られず、危機に際してなおさら、閉じこもるのではなくともかくも外に出てみよ、というのが山本首相と小野寺の象徴する姿勢である。田所が家にこだわる父だったとすれば、山本首相は家から出ることをすすめる父だったと言えるだろう。

 

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