効果としての自己啓発書、その研究ノート:ノベル風に
悩む
S君は、悩んでいた。
仕事やら何やら、生活上の大小あらゆることががうまくいかない。要領が良くない、と言われる。お金があまりない。彼女はずっといない。先日はとある会議で話の要点がはっきりせず長すぎると同席した人たちからそろって文句を言われてしまった。
文句も当然だと頭でわかっても心では受けとめきれない。これでまた僕の評価が下がる。話が長くて要領を得ないとはこれまでよく言われてきた。これは僕の性格であって直しようがないのではないか。そもそも何もしなければよかったのではないか……取り留めのない後悔、みじめな気持ちばかりが心に浮かぶ。このままでは何も進まないとわかっているつもりだが、どうしたら抜け出せるか、みじめな思いがついとめどなく浮かんでくるのをどうしたらとめて前へ進めるかがわからなかった。そんな鬱屈した気分が何日も続いた。
出かける
このままでは何もできない。何もしないうちは何も改善しない。話が下手なのもあれこれの要領が悪いのもそれで評価が低いのも改善しない。むしろ状況は悪化する……。
長い長い鬱屈のあと、S君は思いなおした。
まず、自分が失敗したという事実を受け止めよう。しかし、もう自分を責めすぎるのはやめよう。それで何もできないままでいるのがいちばんよくない。何かをしなければ……。
S君は本屋へ出かけた。
「自己啓発」という言葉がある。勉強などをして自分を高めよう、自分の生活をより良いものにしようというほどの、日常語であるようなそうでないようなといった言葉だが、本のジャンルとしての「自己啓発(本)」というものには一種独特の趣きがある。その独特の趣きを、本が嫌いではないS君は警戒しこれまで敬遠していた。しかし、眉に唾をつけながら、または騙されたと思って一度読んでみても良いのでは、と少し前から思い始めていた。そしていま、こんなときだから読んでみよう、と思い立った。
何階建てかのビルがまるごと図書館になったような大きな本屋に入り、自己啓発本がどこに集まっているかと探す。
文学? ……といったら、真っ先にあるのは小説だ。エッセイの棚を探す。しかし、いわゆるあの「自己啓発本」はほとんどない。
心理学? ……フロイト、ユング、ラカン……大学の先生が書いたような専門書はたくさんある。しかしあの「自己啓発本」はここでもほとんどない。アドラーという人が最近売れている自己啓発本の元ネタだと聞いた気がするが……。
こういう、専門書もなるべく何でも置いてますよというような巨大書店では、自己啓発本のような一種怪しげで俗っぽい本はむしろ置いてないのかなあ……町の小さな本屋なら目立つところにあったと思うが……でも大きな本屋でも怪しげな本も結構置いてたと思うけど……
……あ。
経済・法律のフロアに行く。ビジネス本というジャンルがある。たぶん主に会社員向けに、仕事上のコツを集めたハウツー本や、“ちょっと上を目指す”人向けの経済や法律や会計などの基礎知識をまとめた本を並べる分野だ。そのなかで心構えや人生論をまとめた本があり、それが発展してある種“神がかった”ようになってきたのが自己啓発本だったのを思い出したのだ。はたして、あの「自己啓発本」がずらりと並んだ一続きの棚を見つけた。
うーん、ここまで遠回りしてしまった、わかっていたはずなのに……。ついつい寄り道してしまう癖も良くなかったかな。今日の最初の目的をついつい見失ってしまっていたかも。いやしかし、あまり自分を責めて何もしないよりはいい。見つけられたからよしとしよう……S君は気持ちを切り替えることにした。
買う
S君は1冊ではなく何冊かを読んでみようと考えた。自己啓発本が怪しげに思えるのは、“神がかり”だから、“宗教のように”感じるからだ。決まった教えのようなものを絶対視させようとしているのではないか。それで警戒して読んでいないのだけど。そういうこともあって、1冊だけに没頭してむやみに信じることを避け、「自己啓発」というジャンルに共通の考え方を探してみよう、それがあれば学ぶべきこともあるのではないかと考えたのだ。
ジャンルというのは得てしてそうかもしれないが、自己啓発本というのはとりわけぼんやりしたジャンルだ。大きな書店で実際に迷ったように、もとはビジネス本というこれまた雑然といえば雑然としたジャンルからいつの間にか発展し、書き手はさまざま。語り口や理由付けも、偉人伝、人生論、心理学、経済学、経営や会計やマーケティングの理論、宗教、思想史、脳科学……多種多様だ。自己啓発本という分類に入るかどうか迷う本もある。だからこのジャンル全体を数冊で過不足なく代表させ捉えようとするときりがない。実際この「自己啓発」の売場は、背の低いS君にはやっと手が届くかという最上段から足下の最下段まで、幅は1mくらいの一区画がいくつも続き、その全体にわたってびっしりと本が並んでいる。たぶん何百冊という数だろうか。何冊か読むだけでも大変なのだから、S君はあまり完璧を求めず、読みやすそうなものを選んでいくことにした。
探してみると薄めの本やマンガ仕立ての本もあった。新刊本を何冊も買う値段に迷いもしたが、結局買った。帰りの電車でまた後悔を感じたけれど、せっかくやって来て時間も使ったのに買わないのはさらに無駄ではないか、ここはやはり買って良かったのだと思いなおした。
読む
S君は買ってきた本をさっそく読み始めた。
読みやすそうな本を選んだせいもあるのだろうが、意外に速くすらすらと読める。
何冊か読んでみて、共通点がわかってきた。
- 因果説と原則(正しさ)重視
現状には何かしらの原因がある。良い現状にはそのような結果をもたらす良い原因が、同様に悪い現状には悪い原因が対応するのであり、現状を改善するには良い結果にふさわしい原因となる特定の状態を作り出す必要がある。この因果関係は「原則」または「法則」といえる揺るぎないものである。正しいことに正しく則る努力を続ければ対人関係を含め必ず良い結果がもたらされる。 - 自分への信頼と責任
自分の判断と行動こそが自分を向上させる。自分は自分の現状に対して責任があり、またそれを良く果たす能力、問題を解決する能力がある。他の人や環境・社会のせいにしていては何も改善しない。無力感にかまけず自分で改善する努力をすること。
(人に対して基本的には誠実に接することが重要で、また時には助けを求めることも必要である。しかし頼りすぎてはいけないし、また逆にけなし続ける人は避けたほうが良い) - 目標・想像力 具体的に、現状より高く/大きく
目標を具体的に、できるだけ完成像として想像すれば、それを目指してふさわしい努力・工夫ができるようになる。また、現状の改善を望む以上、その目標は現状を超え出たものであるべき。 - 変化重視
人間は現状維持を求めがちだが、それは結局望ましくない状態を保つことにつながる。現実はそもそも変化するものである。変化を恐れていては当然改善もできない。より良い状態・目標へ向けて、むしろ自分から少しずつでも変化するよう努めることが大切である。
突き詰めるとこうした要点が共通して残る。常識的といえば常識的なことを言っている。ただ、その常識的なことを実行して続けるのが難しいのだけれども。読者の抱えるそうした難しさを打破する、打破できるような気にさせるべく、それぞれにさまざまなしかたで肉付けし説得力を与えているのである。19世紀半ばのサミュエル・スマイルズ『自助論』(『西国立志編』、原題『Self Help』)は逆境に立ち向かい功を成した名士の列伝。20世紀初めのジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』(坂本貢一訳、2003年、サンマーク出版刊)(これは邦題で、訳者あとがきによれば原題は『As a Man Thinketh 』(人が考えたように)) は因果説と人生の関係の説明。20世紀後半のフランクリン・コヴィー『7つの習慣』は「習慣」を重視し段階を追って自己啓発を図る綿密な教育プログラムシステムになっており、セミナー団体が組織されその監修でまんがによる解説本(2013年、宝島社刊)も出ている。1990年代末に日本でもヒット作になったスペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』(門田美鈴訳、2000年、扶桑社刊)はネズミと小人が出てくる小噺とそれについての話し合い。近年自己啓発本を何冊も売り出している苫米地英人は認知科学(心理学とコンピュータ工学)の知見に基づくとする教育プログラムを提案する。語り口はさまざまだが思い切ってまとめれば「より良い行ないを自分で積み重ね続ければいずれ問題を解決して自己実現ができますよ、そしてそれはあなたにもできますよ」ということなのだ。それだけといえばそれだけのことなのだが、多くの人にとってそれを実行し続けることが難しいのをどの本もそれなりにわきまえたうえで書いているようである。つまり一世紀または一世紀半ほど前から現在にいたるまで、突き詰めれば同じ原則についてあれこれしかたを変えながら説明し説得しているのだ……。
……一冊の量が少なめで読みやすいものが多いとはいえ、二日間でこんなに何冊も集中して読めるなんて人生初めてじゃないだろうか……内容もざっくりつかめている……自己啓発本ってこんなに読みやすいのかな、偶然かな……なんだか前向きな気持ちだ……。
批判してみる
予想していたよりも読んでいて納得できるところが多い……S君は内心肩透かしを食らったような気がしていた。
S君の密かなちょっとした天邪鬼が頭をもたげる。
……あえて批判を考えてみるか……。
もっともといえばもっともだが、手を変え品を変え一世紀以上言い続けていて、やっぱりできないという人は自分を含めて世の中にたくさんいるはずだし、実際自己啓発本は本屋からなくなりそうにない。それどころか本によってはよく売れているようだ。なぜなのか? やり方が効果的ではないのではないか? 目標を具体的にイメージするって、現にできないことはイメージできないこともあるのではないか? 目標や価値観・原則を自分で考えて、それが独りよがりでないと言い切れるのか? 普遍的な価値・原則というけど、実際の日常生活ではお互いに言い分があって譲れないこともあるんじゃないか? できないけど求めてやまない自己実現というのは、結局できないできないと求めているのが自己目的化して繰り返されてしまうんじゃないか? それで本を売って利鞘を稼いでいるのでは? そういえば同じ本を数年間隔で形を変えて何度も売り出している……これって時間差のAKB商法じゃない……?
……いろいろ考えたのだが、どれもいまひとつ決め手に欠けるような気がする。むしろここまで書き出してから、だんだん自分が卑しいような気がしてきた。結局のところ、続けるとかいった努力がめんどくさいから逃避してこんな難癖を考えているだけ、ただの負け犬根性なのではないだろうか……自己啓発本では明に暗にではあるが共通して「変化のための日々の継続は力である」と言っているのだから……。と思いながら、……うーんこんなふうに本の批判を良くないことと思ってしまうのは、一種の暗示なのだろうか……主体性がないのだろうか……、などなどとうねうね考えてしまっていた。
うねうね考えながら本をぱらぱらとめくっていたら、こんな一節が目に入ってきた。「「自助の心を持った人を助ける」といういい方には、一種の論理的矛盾がある。論理的には矛盾であっても、それは常識的には真実である。」(「訳者のことば」、『自助論』竹内均訳、2013年再刊、三笠書房刊、270頁)。『自助論』の現代日本語版の訳者で物理学者の竹内均はここで、『自助論』は若者にも読んでほしいがもう少し上の年代の人にも読んでほしい、本人の自己実現のためもあるが加えて年下の「自助の心を持った人」を助けてほしいからだ、と書いている。そう、自助というならそれこそ自己啓発本などと特にラベルをつけた助けもいらないのではないか。しかし実際のところ、世の中で人ひとりが文字どおりの独力でできることなんて限られている。それどころか、良く生きようとする日々のちょっとした努力を続けることもなかなかに難しい。だから多くの人々は不平不満を溜め込みながら日々生きながらえている。お前ら自己責任だろ、とはねつけられるとだいたい「やっぱりね」で終わってしまう。「いや、できるよ、やってみなよ」と励まして変化のきっかけを与えてくれる誰か、何かが欲しい。
そういえば……また別の「自己啓発」
ふと、S君は思い出した。そういえば、こないだ買ってまだ最初の何ページかしか読んでない新書があったな。なんか厚めのやつ……。部屋に散らかって文字どおり積読になっている、カバーのかかった本のなかから一冊を探し出した。
……これも自己啓発だとか書いてあったな。でも、何冊か読んで考えた自己啓発本とはちょっと違うような……これも読んでみるか……。
その本を読み終えるのには一週間くらいかかった。他の「自己啓発本」と違って、説明していることがちょっと常識的ではなく、これはどういうことなのかとそのつど考える時間がかかった。
……ふむ。
著者が「最強の運命論」と名付けるその主張は、S君が何冊かの自己啓発本からまとめた要点と比べて少なくとも一点が決定的に異なっていた。正反対だった。その本では因果説を採らない。「すべての出来事があらかじめ決まっていて、しかもそこには理由も必然性も因果性もない」というのだ。すべての出来事がすでに決まっていて、しかし個々の出来事、何が決まっていたのかはそのときにならないとわからない。もう決まってるならやってもやらなくても同じでしょ、とつい思ってしまう。「自己啓発本」はその点を「いや、為せば成る、為さねば成らぬ」と言って行動を奨める。しかしこの本では、決まっていても、運命でも、因果律などなくても、むしろだからこそ行動しよう、と言う。
「何もかも決まっているからこそ、意志というものを発動させる。でもその結果だって決まっている。……だとしたら結局は、どちらが愉しいか、どちらが自分の心に幸福を与えてくれるのか、ではないでしょうか」(『未知との遭遇【完全版】』303頁、星海社新書)。何が何だかわからなくなってきた、でもなんとなくおもしろそうな気もする……。
この本ではこのように「最強の運命論」=何もかもすべてがすでに決まっているという世界観を示し、物事の未定/既定という境目はつけられないとして、しかし本人にとっての未知/既知という境目が重要だと説く。因果律がないとしても、未知であるうちは行動したほうがいい、と強調する。どうも、「何もかもがすでに決まっている」というよりも、「自分の身に起こったことをすべて必然と考える」、起きてしまったことは「もーしょーがない!」と思って受け入れる、ということが大切だと繰り返している。かつて高校や大学で聞いた、資本主義発展の一因にもなったというカルヴァンの予定説に似ている気もするし、『元祖天才バカボン』の「これでいいのだ」も思い出す(「もーしょーがない!」というキーワードはあるマンガからの引用だという)が、この本の眼目としては、後悔という心持ちの、非論理的だがまたそれゆえに強い負の力、行動をやめさせてしまう力をどう抑え込むか、ということに力点を置いているようだ。そして因果説か運命説(予定説)かという点以外はおおよそほかの自己啓発本と近い。自分への責任と信頼、目標の掲げ方といった点についてはあまり積極的に述べていないが、起きた(とわかった)ことは受け入れる、未知であるかぎりは行動したほうがよい、といったところは自分を起点に考えることと実質同じだろう。また行動重視の点とあわせて変化重視の点も一致する。
やり方と心持ち、サプリとしての「自己啓発本」効果
いろいろ読んでみて、S君は思った。
自己啓発本とは、サプリや健康食品のようなもの、だろうか。
いわゆるサプリメントというものがS君はあまり好きでない。薬のようでもあり薬ではないようでもあるあのあいまいさが怪しげに思える。自分の好物とかうまいものを普通に食べたり飲んだりするほうがよいではないか……。
しかし、人はそう理屈どおりに割り切れるとも限らない。良い人は良く悪い人は悪い、で納得できるわけでもない。現にS君だって鬱屈悶々としている。そこで何かきっかけが、そして励ましが欲しい。特に心持ちの力というのはばかにならない。人にもよるだろうが、後悔の負の力などというのはときに本当に絶大なものがある。結局、自己啓発本というものが存在する意義といったらその大部分は、心持ちを整えること、それによって変化のきっかけを読者にもたらすことにあるのではないか。こういった本を読んでも前向きな気持ちになれない、受け入れられないという人ももちろん多いだろう。それはたぶん、サプリどころではなくて寝込んで休んだり医者に診てもらったりしたほうがよい病人がいるのと似ている。
とにかく一つひとつの本はすべての読者にとって良いものとは限らない、むしろそれぞれの意義や効果は限られている。あとは読者が良さを見出し引き出すほかない。というとごく凡庸な結論だが、要するに「自己啓発本」も一つの本なのだろう。読んでためになることがあれば利用すればよく、ちょっと違うと思ったらそういうものと割り切ればいい。とはいえ割り切るのもこれまた難しいのだが……おっとまた悪い癖が始まりそうだ。S君は鬱屈が続いてしまう癖を少しだけ自制してみようと思った。日々少しずつの変化・努力がより良い自分へと続くのだろうから、と。
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