怪物はいたるところに:『シン・ゴジラ』雑感
もとより日本には怪物が多い、とは言いすぎだろうか。
言いなおそう。戦後日本の大衆娯楽作品においては怪獣・怪人・妖怪といった異形の存在、または広く、擬人的にふるまうが素朴な意味での人間ではないような存在が頻出する。キャラクター文化という言い方はそうした側面をもよく捉えている。キャラクターまたはキャラという形式はここ半世紀の日本の創作において、特に視覚表現に立脚して独特の発展を遂げた。また特撮という語も単に特殊効果撮影の略語であることをもはや超えて、そのような文化史的文脈を負った概念・カテゴリーとして認識されている。
だから怪物というモチーフに関して日本語で何かを述べるなら、『ゲゲゲの鬼太郎』でも『鉄腕アトム』でも『サイボーグ009』でも『仮面ライダー』でも東映戦隊シリーズでも『オバケのQ太郎』でも『ドラえもん』でも『妖怪ウォッチ』でも、いやその気になればハローキティでも、ともかく題材として使える作品には事欠かない。しかしまた、いま列挙した各作品のほとんどがそれぞれに膨大な蓄積を抱えているから、うち一つをとってもごく限られた時間と紙幅と思考能力では何かしら書き切れないものが残るだろう。
ここではさしあたり、時流に乗じて、昨2016年の国内ヒット映画の一つとなった『シン・ゴジラ』をめぐって雑感を綴ってみたい。
『シン・ゴジラ』は「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)。」というキャッチコピーを伴っている。『ゴジラ』シリーズ、特撮、日本映画、といった多層的な系譜と蓄積の上に成り立ち、そのような娯楽作品として当然に負う期待に応えるとともに、日本社会全体の時事状況に対するメッセージも色濃く含む。本作をめぐる感想・批評にもこの時事批評的な面に触れたものは少なくない。
約120分の本作のなかで、内閣やのち現れる事実上の作戦本部「巨災対」、またゴジラ迎撃作戦時の自衛隊の戦闘指揮所・前線指揮所などの合議の描写が綿密に描かれる。ゴジラの侵攻・破壊と迎撃作戦の特撮描写はもちろんのこと、作戦遂行時の現場・指揮所などの通信といった細部がマニアックなまでに詳細に描かれる。『エヴァンゲリオン』を支えたあの過剰なまでの情報密度が本作でも遺憾なく発揮されている。
本編前半では、閣僚会議や首相周辺の迷走を中心に、内閣と中央省庁を核とする日本の統治機構の鈍重さが強調される。 官房副長官という、若手議員の登竜門とも言われる中枢内の要職にあって事態を見通し、だがそれゆえに孤立気味の主人公・矢口が、中盤ではそのシステムの中枢から外れた若手・中堅のオタク的人物たちを集め「巨災対」を組織する。 日本政府に見切りをつけ核を用いる再占領さながらの独自迎撃作戦を企てるアメリカの影をにらみながら、矢口をはじめ首相補佐官・赤坂、アメリカ大統領特使・カヨコ、与党中堅幹部・泉といった世代の近い人物たちが連携する。 後半では首相を含め内閣がゴジラの攻撃によりほぼ全滅し、政府は拠点を立川に移し矢口・赤坂が内閣中枢へスライドして世代交代する。
こうした政治機構の物語と、ゴジラそのものが担う、昭和29年の第一作とも重なる核の脅威のモチーフとの組み合わせは、5年前の東日本大震災と東電福島原発事故の混乱という現実を明確に意識しているとたびたび指摘されている。総監督の庵野秀明が、またここ数十年の日本の大衆娯楽作品の多くが慎重に避けてきたとされる社会的現実への言及・関与に、この作品は3.11震災以後の作品として正面から取り組んだ、との意見は多い。むしろ一般観客も含め多分にそのような前提の下で本作は受け止められているようである。資本・人材においてこれほど大がかりに制作され発表される以上それは当然のことともいえる。ではそうした政治的想像力に関わる作品として本作の射程は如何ほどのものといえるのか。
本作を観た私の率直な、そしていささか乱暴かもしれない感想は次のようである。特撮映画としてはたしかに、(しばしば庵野秀明的ともいえる執拗なまでの)綿密周到さで以て作られているが、しかしどうも何か小粒にまとまりすぎているのではないか。特に社会―政治的想像力という側面も鑑みると、何か物足りなさが残るという印象を抱いている。このような印象は、劇場へ足を運ぶ機会をずっと先送りするうちに、ネタバレを含むいくつかの詳細な感想・批評を事前に見聞きしてしまっていたからなのか。あるいはまた、長距離旅客機の機内サービスでたまたま配信されていたため、あまり精細でもない小さな液晶画面で英語字幕版を観て、飛行音により音声は半分ほどしか聴き取れなかったという視聴環境の問題もあるのか。とはいえもう少しこの私見を述べたててみよう。
さきに駆け足気味に触れたが、本作は大まかに2つの柱からなっている。一つは、巨大怪獣が市街の大小の建築物を次々に破壊し、人間側の各種従来兵器も通じないという特撮アクション。もう一つは、大災厄に対峙する人間側の、個々人なり組織や社会全体規模なりのドラマ。どちらも『ゴジラ』シリーズの系譜上の作品として当然に期待される要素ではある。本作の特徴の一つは、特に後者の軸において、内閣周辺に主な焦点を当て、自衛隊の作戦指揮系統などにも適宜目配りしながら、PF(ポリティカル・フィクション)とくに広義の官僚組織内の群像劇として、しかもときに執拗なほどの詳細さを以て描き出していることである。
さらに言えば後者の軸、官僚機構の物語としての面は、本質的には密室劇だと言ってよい。大河内内閣も、巨災対も、立川移転後の里見臨時内閣や統合対策本部も、また作戦時の自衛隊幕僚・幹部らも、現場という外界の状況を得ながら、本質的には密室と言ってよい空間内で合議と意思決定を行なっている。主要人物たちが政府中枢にありながらそれなりに現場に目配りしている描写はたしかに散見される。ゴジラ上陸・一時撤退後の被災地を矢口らが視察する。 ヤシオリ作戦にあたっては、まずその準備として、凝固剤の製造や作業車の手配から米国主導の核攻撃作戦実施を遅らせる工作まで巨災対メンバーが中心になりさまざまな事務交渉の描写がある。 作戦実施時は矢口らが屋外に出て丸の内・東京駅付近の現場を遠望し、第一陣壊滅など現場の情報に呻吟する。タバ・ヤシオリ両作戦時の市ヶ谷・朝霞の指揮所や前線の通信・作戦行動の描写も綿密周到である。とはいえ結局、物語の主な筋立てをなす意思決定はすべて密室で行なわれ現場へ下命されている。初上陸したゴジラへの攻撃ヘリによる初動攻撃の寸前、逃げ遅れた住民を見つけたとの現場からの報告により大河内首相は攻撃下命を断念する。これとても、現場の自衛官が中枢へ逐次情報を送ったから一時停止されたのではあるが、最終的に中止を決定したのは状況報告を受けた大河内である。物語の本筋を左右する行動選択の責任と権利は現場の人間には一切与えられない。もちろん現実に照らせばそれこそが統制であるといえるのだろうけれども。
官僚組織の物語という要素は映画・テレビの作品で従来からいくつもの先例がある。日本の作品としてたとえば『白い巨塔』などを挙げてもよいし、押井守が監督した『機動警察パトレイバー the movie』シリーズもそのうちに数えてよいだろう。また、『パトレイバー』にもその要素があり、さらに部分的には『エヴァ』にも見受けられることだが、ここ20年ほどこの種の作品の流行として特徴的なのは、警察(という合法的実力組織)の官僚機構としての側面を強調し人事の出来事や内部の政治的動向などを事細かに描くというものである。1997年に始まったフジテレビのドラマ『踊る大捜査線』は以後約10年にわたってスピンオフを含めテレビドラマ・映画をいくつも制作してはヒットし、2000年に始まったテレビ朝日のドラマ『相棒』も同じくテレビ・映画で、現在にいたるまで次々に続編を制作し根強い人気を誇っている。また日本周辺の国防/軍事問題を絡めたPFとしてはかわぐちかいじの一連のマンガ作品を挙げることができるだろう。
こうした諸作品の影響も当然無視できない。が、以下に述べるように、『シン・ゴジラ』が本質的に参照しているのは岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』だろう。1965年初版のノンフィクションを原作として岡本喜八版が1967年に公開され、またつい最近の2015年には原田眞人の監督によるリメイク版が公開された。そして『シン・ゴジラ』ではゴジラの内部構造について重要な鍵を握る牧という科学者が名前と写真だけ登場し、その写真の姿は岡本喜八だった。2005年に亡くなった岡本が、没後十余年の本作に写真だけという形で引っ張り出されている。本作はだから乱暴に言えば、『エヴァ』のフォーマットによる『ゴジラ』の変奏であり、また庵野秀明版の(そしてやはり『エヴァ』のフォーマットを多分に用いた)『日本のいちばん長い日』なのである。そしてその点に本作の魅力も弱点もあるのではないか。
『日本のいちばん長い日』は1945年8月14日正午の御前会議から、翌15日正午の玉音放送までの24時間を描く。24時間というごく限られた時間の、制作当時すでに社会的に確定した史実を追うというのが主たる筋であり、さらに言えばそのような劇的な史実の再確認・再認識こそが『―いちばん長い日』の核心なのである。作品世界(が描く史実の世界)は当然戦時体制下で、一般市民を含む末端の現場の者の意志・行動は事の成り行きを左右しない。いや、宮城事件の当事者たちは事を左右しようとしていたのだろうが、それだって事実関係としては、陸軍省の将校や近衛師団といった中央のエリートたちの、官僚組織内での勢力争いの域を出ない。しかもクーデタ計画は結局失敗に終わる。このように幾重にも限定された物語だから、官僚組織内という密室劇であるのは当然であり、あとはそのなかでの各人物の葛藤確執苦悩決断を丁寧に描いていけばよいのである。
そしてこうした『―いちばん長い日』をそのまま、2016年の、しかも3.11震災以後の日本の統治機構を描くPFとしての『シン・ゴジラ』に導入するのは何か据わりがよくないのではないか。いや問題は、『―いちばん長い日』における敗戦の史実の再認識と、半世紀後の日本の状況を踏まえた『シン・ゴジラ』における社会―政治的な想像力=創造力の展開という眼目のずれにあるのではないか。
話が少々抽象的になった。もう少し具体的に述べてみよう。
『シン・ゴジラ』を群像劇だと言った。たしかに登場人物がやたらと多く、また当代日本を代表する役者がずらりと並び、それぞれに重要な役割を果たす。とはいうものの、やはり本作の主役はわりあいはっきりしている。要するに矢口が主役であり、彼の決断・行動選択、さらに踏み込んでいえばリーダーシップが物語の主な筋を左右しているのは明らかだ。ハリウッド映画と比べて登場人物は個の力ではなく組織の力で動いているとの評もわからないではないが、矢口の存在はやはりある程度ヒロイックとも解せる。ゴジラに対する初期からの的確な認識はやがて巨災対に参加する環境省職員の尾頭ヒロミが示しているが、彼女も役所勤めの専門家として意見を求められて答えたのであって、日本政府関係者で対ゴジラ認識と政治行動の両者を初期から的確に意識し(ようと努め)ているのは矢口、と強いていえばその相方の赤坂、また官房長官の東くらいだろう。立川移転後の臨時政権下でさらに矢口のリーダーシップが前面に出る。
ゴジラという破壊神に良く対峙し旧弊を立って新秩序の樹立を図る人物、と考えてふと連想するのは田中角栄である。そういえば近年は田中角栄の再評価が小ブームとなり、かつて田中を批判した石原慎太郎までも田中角栄を再評価する小説を出版している。思えば旧制高等小学校を最終学歴として首相に上りつめた田中角栄は、自民党・中央政界においてゴジラのような存在だったのではないか。そして近年の再評価の論調は、田中の卓越したリーダーシップへの称賛、そして再来への期待である。またしても乱暴に言えば、矢口というのはゴジラに対峙しうる21世紀の田中角栄としてイメージされているのではないか。しかしここでいくつかの破綻がある。まず何より、矢口は3代目の世襲議員であって、田中のような叩き上げ・成り上がりとは出自がまったく異なる。物語上の矢口というキャラクターの正統性は田中角栄のようなカリスマ性や合理性よりも、むしろ少なからず血統の伝統に求められているのではないか。また、田中のようなカリスマ性・リーダーシップがもはや現実的でないのは、曲がりなりにも日本が繁栄発展し、社会基盤をはじめさまざまな面で複雑な分化を遂げ、各関係者の利害が調整困難になったというきわめて現実的な条件によるのではないか。たとえばごく大雑把に考えても、ゴジラ上陸のような災害・危機時の対応について、昭和30年代または40年代の東京と現在の東京とでは問題の性質が異なるのではないか。人口や建築や各種インフラの密度、要求される安全性や生活の水準、関係する行政上の諸手続……さまざまな面で現実的に質的差異が存在するのである。
もう一つ指摘しよう。矢口は山口3区(総監督の庵野の出身地を含むという)選出の衆議院議員と設定されている。ともかくも、政治家がずいぶん出てきて、与党の若手幹部として矢口を助ける泉などは地元選挙区に戻っていたためゴジラの攻撃に遭わずに済んだというのに、誰かが地元有権者とやりとりする姿がまったく出てこない。これだけの大災害を社会的現実として考えるなら、米国やら中国やらがらみの国際情勢はもちろんのこと、国内の有権者=一般市民の動きは決して無視できない。しかし一般市民の動向は結局、ゴジラ出現に騒いだり逃げまどったり疎開したりする、いわばゴジラの破壊アクションに伴う風景としてしか描かれない。全年齢向けとして暴力的描写を控えるにしても、社会―政治の問題に触れるならば何か別の形で描かれるべきではなかったのか。
素人の思いつきではあるがたとえばこういうのはどうか。準主役の一人にあたる赤坂は内閣総理大臣補佐官であるとともに、衆議院議員としては東京8区(杉並区)選出という設定である。ゴジラ上陸、タバ作戦前後、ヤシオリ作戦前の都民集団疎開といった各局面、または集団疎開時だけでも、赤坂と、被害の危機に瀕した地元有権者との緊迫したやりとりが描かれてもよかったのではないか。赤坂が役職上も物語上も中枢にいてそうした描写を加えると煩瑣にわたるのなら、都内選出の国会議員を別に脇役として登場させればよい。矢口や赤坂らとの対立、地元での陳情などのやりとりを描くのである。たとえばゴジラが最初に上陸した大田区周辺ならば衆議院議員選挙での東京3区・4区にあたる。また東京3区は品川区を中心に大田区北西部、さらにさらに島嶼部を含み、都民疎開の話も絡めやすいかもしれない。ヤシオリ作戦に臨み、実働隊員たちを前に、死の危険と作戦の意義を熱弁する矢口の描写が必要だったなら、東京選出の一議員が政府と地元有権者との間で板挟みになり矢口らと対立し、しかし矢口らの構想に心を動かされ、東京都集団疎開にあたり地元民を説得するといった場面も同様に必要ではなかったか。もっともこの描写を入れると物語が複雑化・長尺化し、どう少なく見積もってもさらに30分くらいは必要になるだろう。はじめから上映時間3時間くらいでやる気ならできたかもしれない。2時間では短すぎる。
取り留めのない雑感を並べた。結局、いまのところの印象としては、ヒロイズムというにも現実的群像劇というにも中途半端ではなかったかということなのである。映像表現としての密度は申し分ない。しかしながら何か、造り物としてよくできているが、現実的想像力としてはいま一つ……とみえてしまったのである。何が真の怪物なのか、ということだ。ところで蛇足だが、庵野は『ヱヴァ』はどうまとめるのであろうか?
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