印刷

制度と状況と身体と

たとえば古代ギリシアのヘロドトスやトゥキュディデスの著述において、すでに世界史という見方の萌芽はみてとれるかもしれない。またたとえば下って中世イスラムの歴史家にはより確かな世界史への志向・認識があったといえるかもしれない。とはいえ、今日私たちが一応の常識として漠然と世界史なるものを思い浮かべるとき、その漠然とした認識の出発点を求めるなら、やはりヘーゲルあたりがそれとして思い起こされるだろう。つまり絶対精神の弁証法的自己展開としての歴史というやつだ。マルクスの唯物史観もそれこそヘーゲルのこうした発想を枠組みとしては受け継ぐ。ここで学理的に厳密な、というか偶像破壊的な読解、「じつはそれは間違っていて、正しくはしかじかであった」といった探究はさしあたり必要ない。ただ常識的に(何を以て常識と呼ぶか、との問いもまずは措こう)、一応は、漠然と、人々がまずはそのように思い浮かべる、ということが確認できれば良しとする。
ところで今日の批評という日本語にはいくつかの系譜が重なっているが、その一つには欧語のkritik, critiqueなどの訳語としての面がある。哲学(史)の文脈ではむしろ多く「批判」と訳されるこの欧語は、特にカント以来、哲学的または一般に理知的思考のあるべき態度を象徴する言葉として広く知られる。いわゆる批評的精神=批判的精神といったものはカント以前にもあったろうけれども、カントが自身の仕事の根本方針を示す標語としてこの語を用い、それによってこの語は特別な意味を帯びて知られているのである。これもまた通俗的理解の確認で足りるだろう。
今日の人々の常識的・通俗的理解というかぎりにおいて、世界史という言葉・見方にはヘーゲルが、批評・批判という言葉・考え方にはカントが思い起こされることをみた。結局のところ、世界史と批評・批判という二つの認識の、今日に直接つながるものとしての源流は、いわゆるドイツ観念論に、いや広く西洋近代理性主義という一つの大きな流れに求められるだろう。思えばいずれも、自分とそうでない何かというずれ、自分ではないものへの認識・対峙からより高次の全体への止揚・統一というダイナミズムをその基本構造としている(それは遡ればソクラテスあるいはプラトンの「無知の知」「汝自身を知れ」にまでいたりうる)。そしてまた、このような認識・思考法は一方で普遍を求めるあり方であるとともに、他方で西洋近代という特定の文化・時代に特有のものではないか(しかも理性なるものにはキリスト教的前提があるから)、またそれは結局支配への論理ではないかとの指摘――まさに批判――もまた幾度となく繰り返されてきた。

久しく言い尽くされ、いずれに突き詰めても果てるところの見えないこのような話を蒸し返したのには、次に続けるような事情がある。⁰ 「世界史」も「批評」も、西洋近代という一つの文化のなかでまず確立してから、西洋近代とは異なる社会であった日本がそれに倣おうとして外来の概念として採り入れた。以来、世界史の視点から、批評するとか批判的に考える、といったことを日本で行なうには独特の困難が避けがたくついて回る。近代的思考、いや考えること一般にあたって、日本では独特の磁場が働いているのである。たとえば戦中の「近代の超克」のような出来事もそのようななかで生じている。また最近では東浩紀が小論「批評という病」で以下のように論じている。曰く、今日の日本社会は「七〇年前の敗戦のため、言葉と現実、文学と政治、理想と実践とのあいだに大きな「ねじれ」を抱え込んでしまった」、「言葉と現実が一致しない、一致できない国と時代」である、と。あるいはまた次のようにも言える。戦後日本では理念的なものが人々の支持信用を次々に失ってきた。安保闘争や学生運動から連合赤軍など過激な武闘派が現れ、やがて政治理念が信用されなくなった。地下鉄サリン事件以後は宗教がますます信用されなくなった。そうして即物的なものだけがそれとして認めるに値するという考え方がますます優勢になってきた。⁰ さらに付け加えたい。
大戦後も世界のどこかで絶えず何かしらの紛争は起こっていた。そして近年は北米や西欧にもいたる新たな緊張が生じ始めている。戦後70年、曲りなりにも平和を謳歌した日本もこのグローバル化した世界のなかでいよいよこうした問題に無関係ではいられない、世界の紛争に目を向けよ、それについて考えよ……というのは正論ではある。⁰ けれども、またしても通俗的に、人々の日常感覚に即せば、今やそうした正論に対しては内心ただちには受け入れがたいものがあるのではないか。人が傷つきあるいはむごい死に至るのは悲しむべきことである、とはいえ地理的・心理的に大きく隔たった私たちがそれについて日々の暮らしの手間と時間を割いて云々してどうなるというのか、自分の暮らしのなかの今ここで直面している煩わしい雑事はそれで解決するのか、我々だってこの日常のなかで傷つき苦しんでいる……仮にこのように言ったなら、それに対してただちに「非人道的」「権威主義的」「即物的」などと反論がありうるし「そんな言い方は人として間違っている」と憤る者もあるかもしれない。しかし、まさにこのような、正論が、または正論を語ることがはらむある種の横暴さ、節操なさにこそ今や人々はくたびれてしまっているのではないか。⁰
トランプがアメリカ次期大統領に選ばれた背景としていくつかのことが挙げられているが、その一つとして、正しさ・倫理(的であろうとすること)の暴力性と閉塞に疲弊したからというのは決して小さくないのではないか。正しさ・倫理の根拠や実践として「批判」がしばしば結びつけられる。自分を律し他へと目を向け、絶えず問い、より良い正しさへと更新すべきであるといったように。しかしこうした修行のようなあり方は多くの人々にとって拷問にも近くすら感じられる。正しさ(を語る者)のほうもあるときは守れと言ったりまたあるときは壊せと言ったり、または壊すという態度を守れなどと言ったり気分屋にもみえる。そしてそうした「批判」すらも、その他の状況と同じく、長く続けばやがて習慣化し定型化し制度化するだろう。そんななかで「もうくたびれたのにというあなたたちの素朴な気持ちは正しい、どこが悪いのか」「悪いやつがいる、悪いやつが悪い、悪いやつをこそ叩けばいい」と叫んで登場し支持を集めたのがトランプやドゥトルテだったのではないか。倫理へのこうした疲弊・閉塞はもはや日本に限ったことではない。
日々の暮らし、生きてあること自体がすでに状況であり、状況の堆積が制度であるだろう。言語や貨幣も制度である。職場や学校や地域や親族の人間関係、「付き合い」は状況か制度か境界的ともいえる(日米安保体制と日本国憲法もある意味では同様に?)。いわゆる「しつけ」も制度およびそれを身につけさせることであるし、暮らしのあり方の隅々まで制度は行き渡っている。制度はしばしば人間を抑圧するが、とはいえ状況と同じく制度もそれなしに人間は人間たりえない。身につけ(させ)るという日本語の言い方が的確に示すように、各人にとって制度は結局身体感覚と結びつきある種の身体的・生理的条件反射となっているだろう。たとえば貨幣という物体をむやみに汚損したり破壊したりはできないという特別な感覚がそうであるように。そしてその状況と制度のなかで絶えず相剋が生ずる。今や科学技術や行政機構や経済市場や人間関係など制度が広く深く発展し複雑化し、それを基礎としてある程度利便的で文化的な現代の私たちとその暮らし=状況があるとともに、制度の桎梏としての面も広く深くなり、どうにも動かしがたく作り替えがたいものになってゆく。あまりに複雑化し各人の立場も切り分けたこのような諸々の制度の絡まりのなかで、状況に対し自分であらためて考えて臨む余裕も見通しも失われる(制度は良くも悪くも「余計なこと」を考えないようにという思考と行動の節約の原則と結びついている)。それでもなお「より正しくあるように批判的であれ」との声はやまない。また「ルールは破るためにある」との言い方がかつてあった。それは制度が他でもなくそのようであることを疑い批判し状況として捉え直せ、との意味だったろう。しかし身体感覚にまで結びついた特定の見方・心理を各人の内省だけで「批判」し更新するのは相当に難しい。「自然に還れ」という言い方は普通理性主義とは異なるとされるのかもしれないが、その「自然」と西欧近代思想が前提する「理性」とは結局同じことではないのか。そしていずれにせよ、その「自然」なり「理性」なりの全てではないにせよ意外に多くの部分が制度的つまり文化的に構築されているのかもしれないのである。

世界史とか批評・批判とかいったことにはこのような、日本という地域性と現代という時代性と制度なるものの根本構造とが絡まり合った一層の困難がある。そのなかで表現、たとえば演劇についてその可能性を考えるとき、古代ギリシアで社会に対し果たしたのとそのまま同様の働きや力を今日期待するのは難しいのではないかと私は考えている。古代ギリシアと現代(の、たとえば日本、たとえば東京)とでは、すでにみたような意味での制度の複雑さがまったく異なるだろう。そもそも演劇は生身の演者が観客と相対して表現を行なうという枠組がある。そしてその枠組から、今日の高度に記号的に抽象化し複雑化した制度をそのままに表現するにはなじまないように思える。科学技術や市場・金融などテクノロジーと呼ばれるもの、人間的契機からなるとはいえ動き出せば人間の統御を超えて半ば自律的に作動する非人称的な体系の不気味さなどは、たとえばすべてをカメラという経路にいったん通し物理的な光と陰と色の配置に転換してしまう映画という表現(そしてこれもテクノロジーだ)とは異なり、生身の人間と観衆とが向き合う演劇という表現では表わしにくいように思える。  しかしまた、むしろそうした構造上の制約により、制度と状況のなかで生ずる人間的相剋という根本問題は、演劇においてこそきわめて効果的・象徴的に生々しく表現しうるだろう。また、制度・状況の身体的根拠をも良く表わしうるだろう。だから、演劇が今日、世界史的観点を踏まえた批評性といったものを獲得するとすればむしろ、制度と状況のなかでの思い、行ない、やりとりという、日常のなかに見出せる人間の生の基本的なところを掬い取ることこそがますます重要だろう。
たとえば「のんのんさん」(*1) という小さな劇では、日本の民衆信仰と都市化に伴うその衰微という制度・状況を一つの軸に、また(部分的に数名の脇役を伴いながら)二人芝居という枠組で、中年がらみの一組の男女の出会い・交流・別れを軸に、日常のさまざまな状況の並立や交錯や相剋を描き出す。制度に従順に生きてきた女と制度に半ば背を向け風来坊に生きてきた男が出会い、信仰風化と再開発で消えかけた小さな社の存続に一計を案じ意気投合する。信仰という制度を利用し存廃の危機という状況を変えようとし、そのなかで信仰祈願に際した人々のさまざまな状況をあらためて目の当たりにする。一計は当初上手く運びかけながら結局行政の制度と状況を動かせず功を奏さずに終わる。また風来坊として制度に背を向け生きるうち海外でパスポートを失くし不法に帰国した男は、女の兄でもある友人のパスポートを持っていた。その友人を自分の身代わりに死に至らしめたと後悔する男は、ある事件の解決を図ることで制度と状況に向き合おうと決め、引き留める女をおいて別れを告げる。こうした一連の物語の実感は、主役の二人の口調や立ち振る舞いといったそのつど細やかな演技によって支えられている。そして、悪を裁くといったような態度は採らない。劇中の「神様っているのかな」「たぶん、一人ひとりの心のなかに」といった旨のやりとりは、題名の「のんのんさん」という民衆信仰上の神を実体とみなすのではなく、制度・状況として扱うという作品世界のあり方をメタフィクショナルに表明してもいる。
本谷有希子と飴屋法水らによる劇(*2) はまた違った切り口で、状況と制度のさらに原初的な面を追っている。
告知のかぎり、この劇は題がない。告知では本谷・飴屋含め4名の出演者に役名らしい名は付かず、まとめて「出演と作制」、本谷はまたあらためて「テキスト」(脚本?)と役割が書かれるだけ(当日配られたコピー紙のパンフレットにも、内輪のメモ書きのような砕けた調子の役割分担が一言ずつ添えられているだけ)。観客と演者との明確な物理的境界もない倉庫のような会場で、飴屋がハンドマイクを手に観客の前に立ちおもむろに「…私、本谷有希子といいます」と自己紹介する。ああ前説の冗談かと思えば、そのまま本谷有希子として芥川賞受賞後の周囲の変化への戸惑いを早口で並べる。メタフィクショナルな手法も用いて出だしから演劇やら性別やら日常の制度を揺さぶりにかかる。次には子供のくるみが本谷を演じ、セバスチャンが記者役となり芥川賞受賞作家としてのインタビューが始まったり……4名の出演者が、役を固定せず、ときにむしろ演技とも演技でない当人としての発話ともつかない様子で、10分前後のエピソードを取り留めもなく並べていく(私は参加したことがないが演技のワークショップ、特にエチュードと呼ばれるものはこんな様子だろうか)。セバスチャンとくるみが当人として語り合うらしきなかで出てくるフリードリヒ2世の幼児実験の話は、言葉というよりはやりとり・コミュニケーションの根本的重要性を示すのだろうか。言葉、仕事・肩書、家族、誕生といったことにまつわる制度をおもむろに少しずつ揺さぶり、あらためてそのつど状況として生きられるあり方を淡々と描きながら公演は続く。エピソードの終わりではときに、前面で演技していた飴屋とやや後ろで黙って傍観気味に佇んでいた本谷とが台詞の最後の語句を唱和させる。クライマックスは飴屋と本谷の掛け合いあるいは対決。飴屋は「本谷さーん! 本谷さーん!」と必死で呼びかけ、本谷は応えて、苦しいなか振り絞るように「あ、い、う、え、お…」と発声する。出産と言葉を考え産み出すこととを重ね合わせる。また「あいうえお」は日本語の(統語論的に)有意味な文とは普通みなされないが、それが日本語を話す上で最も基本的な分節単位であることは日本で初等教育を受け日本語を話して暮らす者には条件反射的にわかってしまう。「あ、い、う、え、お」がやがて「あ、い、し、て、る」へと移ってゆく。戸惑い苦しんだ末に誕生を祝福すること。言語と身体との根本的な結びつきもこの劇の中心テーマである。

世界史とか批判・批評とかいうことが日本で、あるいは今日、もはや考えられないとか考えるべきでないとか言いたいのではない。理性と呼ばれる理知的なあり方や言葉での議論が根本的に無効になったとか言いたいのではない。ただそれにはつねにすでにこのような困難が隠れている。演劇は理屈の、言葉の基にあって見えないものを見せうるだろう。言論以外の表現がなしうる批評性は言葉だけでは語りがたいものを的確明瞭に語ること、以て言葉による批評へと引き継ぐことにこそあるのではないだろうか。

注 (*1) 「のんのんさん」⁰2016年8月21日~28日、於:新宿サンモールスタジオ 脚本:大正まろん 演出:加藤忠可、高澤良則 出演:中原和宏、小代恵子、ほか(筆者観覧回。トリプルキャスト)

(*2) 「 」(無題) 2016年8月5日〜9日、於:原宿VACANT 出演と作制:本谷有希子、飴屋法水、セバスチャン・ブルー、くるみ

文字数:6413

課題提出者一覧