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X化した‐がる社会:(自分語りとしての)社会認識とそのキャッチコピー化について

期初の講義のたびに「授業に対して消極的な学生」を引き合いに出して社会学の通説での役割概念の硬直性を語る先生があるとき手にしていたのは、当時出たばかりの『マクドナルド化する社会』の邦訳本だった。「社会学の定義は社会学者の数だけある」というのも先生の講義での決まり文句だった。なんだよそれは、ちょっと無責任じゃないかよ、などと不出来な学生ながらに内心思っていた。
それから何年か後、私の記憶が確かなら、放送大学のとある講義で「社会学とは近代市民社会の自己認識である」といったことをある社会学者が述べていた。わかるようなやはりすっきりしないようなもやもやした気持ちは大きく変わりはしなかった。
あれから幾年経ったのだろうか。思い出話が増えるあたり、私ももう若くないということだろう。


「○○化(する/した)社会」という言い方は最近に始まったものではない。近代化、産業化、モータリゼーション、グローバル化、情報化、IT化、……20世紀は「○○化の時代」だったのではないかとも思える。
とはいうものの、近年では「○○化(する/した)社会(/世界)」といった言い方が異様に増殖しているとの印象も強い。「○○」のなかにさまざまな語句が入る、キャッチコピーのような「○○化(する/した)社会(世界)」……そんな題名の新刊が書店の目立つ台に平積みされ、あるいはネット書店のトップページを開くと書影がでかでかと目に飛び込んでくる、そんなことが増えた。
思えばそのような「○○化」という言い方が日本で特に増えたのは、アメリカの社会学者ジョージ・リッツァの『マクドナルド化する社会』の邦訳書(1999年刊、原著初版1993年)が出て以後ではないかと感じる。「○○」に世界的ファストフードチェーンの名を代入して「マクドナルド化 McDonaldization 」とはなかなかにキャッチーでジャーナリスティックである。一私企業の経営手法が世界に広まり一種の社会基盤として機能しているという現代的な事実を象徴的に言い表わしている。
そして世紀が改まってから、日本では「○○」の中にじつに様々な語句が代入され続けている。ここ10年ほどの間に出版された書籍の題名に限っても、友情、ディズニー、バイオ、保険、世界、ディスカウント、カーニヴァル、観光、グーグル・アマゾン、ジェンダー、フラット、動物、感情、ヤンキー、心理学……こうした論説はそれぞれに興味深い観点・論点を含む。とはいうものの、「マクドナルド化」という言葉には何か特異な、群を抜くものがあるように感じるのは私だけだろうか。
○○化という言い方がずいぶん前からあり、前世紀は○○化の時代だったのではないか、とさきに述べた。現在も続く近代という時代がそもそも変化を本質的特徴とするのではないだろうか。それ以前の時代から変化したという認識から新たな時代区分として近代と呼ばれ、さらにその近代自体も絶えず少しずつ変化している。変化のなかで自ずと違和感が生じ、その違和感から人は、いや社会は、時代は自らを何事かと省みる。その意味では、「社会の○○化」というのはその気になればいたるところで発見できることになる。とはいえ、さきに挙げた20世紀の「○○化」といういくつかの語句は、年を追って日を追って次々に現れたのでもなく、普通名詞を基にして、ある程度社会全体にわたる状況を言い当てている。

「マクドナルド化」という言葉が破壊的なまでに画期的だったのは、私企業の著名な商標というそれ自体すでに固有の象徴としての機能を担う名辞を変形して、公共空間の構造の時代的特徴がある程度包括的に表わせてしまい、結果できた語句があらためて先鋭的象徴性を帯びてしまっている、という重層的象徴構造があるからだ。精神科医の中井久夫が用いた術語を借りれば、キャッチーで象徴的なワーディングは多く徴候的関心によると考えられるが、「マクドナルド化」には時代・状況の兆しを先取りしうる徴候的なものと、すでに出来上がった、あるいはまた現に作動している時代・状況の仕組みを眺望しうる索引的なものとの両方の要素が併存している。
しかしその後に続いた同種の言辞の多くは、名辞・象徴としての固有性と説明としての包括性、また徴候性と索引性の併存においていまひとつ及ばないように思われる。それでもなお「○○化する社会」の類の言い方は、 良くも悪くも軽やかに、むしろ消耗材であるかのように次々に現れては消えてゆく。そのほとんどは個別的・部分的な理解・説明にすぎない。変化を捉える微分的把握が雨後の筍のように次々に溢れ出てくる一方、これらを踏まえた地平を眺めやるような積分的把握は見かけなくなった。いやもしかすると、徴候的で微分的な「○○化」のフレーズが、むしろ同時に、索引的で積分的で包括的な状況了解の標語として、半ばあえて誤読されているのだろうか。「マクドナルド化」は徴候性の方へもたれかかりながらも両方の面を持ち合わせていたように思われる。しかしそのあと、もう世界はあまりにも複雑に分化してしまったし、今さら一人ひとりでは何もできないしわかりすらしないから……との無意識での断念の下に。

「マクドナルド化」という言葉は社会学から現れた。社会学とは変転する近代市民社会の自己認識である……というのは、さきに述べた社会学の自己定義の一つである。それで不勉強な元学生の意見ではあるが、社会学は――とあえて乱暴に一括りに言えば――、大学制度と批評との緊張関係にもかかわらず、批評を自らの主たる使命かつ手法としているような、言わば社会批評学と呼んでもいいようなところがある。批評という語の語源とも並行して、良くも悪くも人文的伝統と言えるだろうか。もともと、近代に法学が整備され、また経済学が成立し発展してから、そうした研究では対象化できない、いまだ掴みどころがないがどうも違和感がある、考えるべき何かがあるとして意識されたものを社会という対象として理知的に捉えようと始まったのが社会学だった。だから社会学は本質的に、言ってしまえば直感的な、得体の知れないもの、そしてその得体の知れなさ、を対象の要件としている。この対象は法学や経済学ほど形式化され限定されたものではなかった。
社会学はその成立時からこうした問題設定の困難に悩まされ、哲学をはじめ経済学・心理学など隣接他分野とはたびたび対立と理論的依拠を繰り返している。そして一部では、精神分析の理論にも負っている。そもそも社会学と精神分析、そして批評とは、対象の形式その他に違いがあるとはいえ、近代になって認識された得体の知れない何か、日常の意識だけでは明確に了解しがたい何かを明らかにするというメタ的な問題枠組は類似している。そう考えると、社会学者が批評の文章を書くのも、社会学から批評的な新語が出てくるのも自然の成り行きともいえる。

それにしても「マクドナルド化」という言葉は巧妙すぎたかもしれない。さきに述べたキャッチーな重層性から、その語を見聞きしただけでその書物・文章を読まずとも分かった気がしてしまう。そのあとでたとえばグーグル化やらアマゾン化やらと言っても二番煎じの感が拭えない。そして「○○化」は重層性を伴わずキャッチーさばかりが求められ次々に現れては消えてゆく。それはもはや、たえざる変化と分化の果てにあまりにも複雑化してもはや了解の断念を迫るかのような現今の状況を、一時的にでも分かった気にさせてくれる言い方、社会認識のキャッチコピー化になってしまったのではないか。読まないのは知的怠惰だと誰かが言うかもしれないが、もういろいろと疲れてしまって余力がないのだ。そういう者には批評は必要ないのかもしれないが、しかしやはり言葉は欲しい。現代社会は絶えず変化し、変化を語りたがる、つまり「X化した‐がる」。それは変化を見ていればいつか常なるものが見えるかもしれないと期待するからかもしれない。

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