苛立ちの冪乗(根)について
私は反射神経が鈍いし何をするにも遅い。と、自分でも思いはするのだが、子供のときからさんざんそのように言われたから、その外側からの刷り込みによる認知のゆがみや結果としての行動への影響も大きいのかもしれない。人付き合いの悪い私が先日じつに珍しく飲み会に出て、注文して出てきたビールなどつらつら飲んでいたら「飲むのが速い」と言われた。酒は普段あまり飲まないしさほど強くもないからともかく、飲んだり食べたりするのが速いとはわりあいよく言われる気がする。それは私が少食で少なめにしか用意したり注文したりしないからではないかと思いもするのだが、食事は手早く済ませるべきという発想が何となくあるにはあり、遅い遅いとさんざん言われて食事だけは遅くはなくなったのかなどと思いもする。それにしても私の近くの人々は私の同じ行動特性に延々と繰り返し文句を言いすぎだろうと振り返って思う。癖を変えさせるための働きかけを変えるなり、あいつはそういうやつなのだと諦めるなり他の良い所を見出すなり相手にするのをやめるなりすればよいのに。先取りして畳みかけるように文句ばかり言われた者は改善しようとする心根そのものが砕けてしまうということに思い至らないのだろうか。たぶんそいつらは要するに、自分が文句をぶつけてもさして反撃しない安全な相手に文句をぶつけ続けたいだけだったのではないだろうか……。
前置きが長くなった。
この論稿では何より直感が求められている。書き手自身の直感で感じた苛立ちを、数分火に炙って塩か何かを一振りしたくらいのアツアツで「へい、お待ち」と客に出す料理のように、または出かけて撮った写真をその日の夕方か夜のうちに「速報」「撮って出し」とSNSにアップするかのように……。
……なぜ前置きが長いのか?
……苦手なのだ。反射神経で、慌ただしく、事を為す、というのは苦手である。さらに言うと苛立つのも苦手。いや正確に言えば、苛立ちを扱うのが苦手、と言った方がよいかもしれない。自分の苛立ちも人の苛立ちも。それについては余裕があればおいおい書くかもしれない。書かなかったとして逐一責めないでいただきたい。
しかし時間はもう限られている。今ふと時計を見れば〆切まであとわずかしかない。苦手だからとここまで先送りしてきた私の不徳の致すところである。
だから以下ではなるべく思いつくままに綴ってゆきたいと思う。
ところで題材はどうするか。昔からなのか今特にそうなのか、世の中苛立つことには事欠かない。何を選んでもよいなら適当に選べばよいのだろう。ただ、私が最近特に気になっているのは、あるいは単純に苛立つのは、なぜこうも世の中苛立つ人が多いのか、なぜ苛立ちが溢れ返っているのか、妙な苛立ちが妙に多いのではないか、ということだ。
例えば最近いくつかの動画が、公開直後からウェブ上で物議を醸し早期に公開中止へと至った。そのうち一つは地方都市が地元の産業を寓話化したもので、現代的な話にしたつもりが主に性的な面で差別的に見えるとされた。もう一つは有名メーカーのテレビCMで、20代半ばの女性の主に職場での日常とそのなかでの心情を赤裸々に描き自社商品の販促へつなげたつもりが性的および労使関係などの面で差別的とされた。のちに述べる過労自殺の件と偶然時期が重なりその問題ともつながる点が見出されたのも非難に拍車をかけた。これらに対するウェブ上の意見分布の大勢は「差別的表現で問題がある」というもので、公開中止という一つの一応の結果をもたらしたと言ってよいだろうが、個別の語り方は私が散見するだけでも様々という印象を受ける。
法人がそれなりのコストを投入して制作したものがごうごうたる非難を受けて早期に使用停止に至るのは関係者には由々しきことだろうが、別の話を見ると自体はさらに混迷の度合いを劇的に増す。たとえば個々の保育施設建設への賛否。たとえば大企業の新入社員の過労自殺。こうしたことがらではじつに様々な立場と意見があり、特にウェブ上ではその意見が文字どおり噴出するさまを見ることができ、実効的な解決へ向けての問題の整理・設定そのものが困難と見えるほどまでの事態になっている。実際、保育施設建設をめぐってはそれぞれの地元でそのたび喧々囂々意見が飛び交い、建設中止に至ったと報道される。その報道を見聞きしてウェブではまた様々な意見が噴き出す。賛成でも反対でもその理由には諸相があり、良識といったものを呼び出しても納得・合意を得るのが困難であろうことが見て取れてしまう。先日問題になった新入社員の過労自殺の件でも、長時間労働・職場のパワハラ的空気・慢性的に過大な業務量・社風・業界の構造……と論点が多く、それぞれをどの程度どのように是正解決できるか否か、また是正解決すべきか否か、と思いつくかぎりの意見が噴き出したかと思えば、当の故人の進路選択の当否やその帰結としてそもそも問題ではないとする意見すらあったようで、率直に言って誰が何をどうしたらいいのか私には皆目わからない。
以上に挙げた数例は際立った例ではあるが、こうように意見が様々に噴出し、ゆえにまとまらず、問題解決へ向けた実効的・建設的な動きはほとんどない、という事態は近年の日本でいくらでも見出せるだろう。それこそ震災と福島原発事故、そしてその対処についても同様に言える。いや、こうした事態は見えなかっただけで、ずいぶん前からあったのかもしれない。問題があまり多くの人の目に触れず温存してしまったからこそ、ウェブそして種々のSNSといった環境が揃い、個人がとりあえずもの言ってみることがたやすくなり人それぞれの思いが目に見えるようになった今にして噴き出しているのかもしれない。そして問題が解決しないままじりじりと人々が消耗してゆくから、人々の心もささくれ立ってますます話がまとまらないのかもしれない。
それにしても、自分の意見は言うが、人の意見に理解を示したり折り合いを見出そうと努めたりするどころか、ともすれば罵り合いになってしまうとは何としたことか、もう少し良識やら節度やらあってもよいのではとも思うのだが……
……いや、それはこういう面もあるのかもしれない。つまり各人が粗削りでもとりあえず自分の立場からものを言いやすい環境はあるが、出てきた話をまとめる人が、あるいは技術、制度がない、状況・環境が追いついていない、ということなのかもしれない。各人も各人として自分の都合を語るが、状況を現実的に動かすために誰と話し合いどう折り合ったらよいのかがわからない。落とし所がわからないから、入口があって出口がないから、やり場のない苛立ちばかりが募ってますます折り合いを難しくしていく。個々人が公に見える形でもの言うしくみ、出てきた意見をそれぞれに書き留めるしくみのなかったころと大して変わらないしかたで今も世の中の大勢は動いている。だったらその大勢を決める役所や大企業が、または偉い人や頭の良い人が動いてしくみを作れよ……と不用意に言ってしまえば、他人任せで無責任と反撃されもするかもしれない。個々人が自分なりに意見を言った方がよいのですよ、と学校ではよく言われた気がするが、言ったうえでどうすればよいのか、言ったことが何らかの形で活かされるようにするにはどうすればよいのか、特に世の中といった大きな括りになるとたぶんわかる人はあまりいないのではないだろうか。職場や近所のような日々の暮らしのなかで最低限付き合いの必要がある場ですら上手くやっていける人ばかりではない。しかも海外のことはよく知らないが、こと日本では、特に人口の集中する大都市部ほど、職住分離が高度に進み、ある程度以上仕事に勤しもうとすると書類上自分の住む地域での付き合いは疎かになりがちになる。たとえば育児・保育や高齢化・介護をめぐる問題にはこの点も大きく影響しているはずだ。だからといって職住近接を仮に政策で強引に進めようとするなら、歴史上の忌まわしい例を思い起こさざるを得ないだろう……。
……社会全体の話へ膨らませたあげく、あまり解決らしいものを見出せていない。
そう言えば始めに私個人の話に少し触れたが、振り返ってみると私の生い立ちがその時代ごとの世の中のあり方と並行して見えるのはありふれたことなのだろうか。共働きの両親の下に生まれ都内近郊で育ち、十代のころはバブル景気の只中で、進学校と言われる学校に通い、たしかに豊かだった。傍目には恵まれていたことになるのだろうし自分でもそう思っていた、または思おうとしていた。しかし、詳しい話はここで避けるけれども、幼児保育・高齢者/年金生活・学校社会など現在の社会問題の予兆のような状況が私の幼少期の環境にはすでに横たわっていた。子供の私は現に日々の暮らしのなかで問題に直面し、どうしたらよいかわからず、およそ黙って耐えるほかなかった。そうした問題の影響は十代半ばには早くも噴出し、以後延々と問題に振り回されることになる……だから、私はじつのところ、日々いつでも苛立ちを抱えていて、そして隠しているのだ。しかもその苛立ちを、そのまま言葉にしてみてもおよそ誰も受け取らない、むしろはねのけられ、人の気まぐれな苛立ちを招いてしまうことばかりだったから、私のものでも他者のものでも、私は苛立ちを見たくないし語りたくないのだ。苛立ちに上手く向き合うことができないのだ。私の周りの年長者の多くがそうであったように。
結局、人とのやりとりが上手くできない、しかたがよくわかっていない大人は少なくなかったのではないか。もちろん各人はそれぞれに、目の前の課題に取り組み勤しんだ。勤しみ没頭するなかで視野から葬り、積み残した問題があった。勤しむことで得られる経済成長で解決がつくだろうとぼんやり思っていたら、経済成長が見込めなくなった。それで積み残った問題の山を前にして途方に暮れている。どう解決したらよいか、解決のために人とどうやりとりしたらよいかわからず、自分はもう十分働いて稼いだ、と言ってまた背を向け、そんな親の背を見てきた子も閉じこもっていく……。
……なんだかますます、解決からも、理解を促すような言い方からも遠ざかってしまった。結局何をどう批評したことになるのだろうか、もう時間も私の意欲も尽きようとしているが、これは結局私語り、私の醜悪とも言える暴露に終わってしまい、またしても批評たりえていないのだろうか……。それでもあえてこれを批評であると弁明するならば、個人的な苛立ちが当人の属する社会の何らかの生産性、またはもっと単純により良いあり方へと開けていく契機を、私たちはいかに捉え損ねているか、を私は指摘したかった、と最後に言っておこう。それは苛立ち‐への苛立ち‐への……という形で幾重にも重なってしまう。逆に苛立ちの根源を追っても同様である。だからそれは苛立ちへの冪乗であり冪乗根と言ってよいのではないかと考えたのだ。
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