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1990年代J-POPシーンにおける沖縄的なものの諸相

 戦後日本の歌謡曲、いわゆる昭和歌謡はジャズ、ブルース、ロックなど主にアメリカからの新しい大衆音楽と、民謡、浪曲といったどちらかと言えば郷土的・伝統的な大衆音楽とを巻き込んで成長した。だから一口に歌謡曲といえばさまざまな傾向の曲を幅広く含み、おそらくその幅の広さ全体が歌謡曲なるものを特徴づけている。明治以来の日本の翻訳文化の一端ともいえる。民謡・浪曲由来の流れはやがて演歌という一大ジャンルを形成する。平成期に入ると演歌とそれ以外の分断は自明視されるようになり、歌謡曲のうち演歌的でない要素が米欧の音楽の流行をあらためて参照しながら受け継がれ洗練されたのがJ-POPであるといえる。
 ここでその戦後昭和の歌謡曲が、さらに言えば戦後日本の大衆が久しく容れなかったものがある。それは沖縄/琉球の音楽である。むろん直接的には、1972年までアメリカ統治下にあり日本本土とは隔絶していたことが大きい。しかしそれだけでなく、沖縄の音楽は昭和歌謡にとっておそらくは本質的に相容れがたいものだった。美空ひばりの経歴に象徴的に表われているように、振り返ってみれば昭和歌謡というのは、敗戦から復興へ、そして好況発展へと向かう日本の大衆をひとまとまりの国民として慰撫し激励し、その社会的一体感を醸し出す文化的運動として機能したのである。一方で民謡・浪曲式の小節・唸り・調子に乗せて望郷の念を歌い、他方でジャズやポップスの軽快なリズム、また憂いを帯びたブルースの旋律に乗せて都市民の希望や戸惑いを歌ったのも、そうした文化的運動の機能として語ることができるだろう。他方、琉球王朝期以来の独自の歴史的蓄積の上にある沖縄/琉球の音楽は、米欧そしてアフリカ由来の音楽とも、本土の民謡・浪曲とも明確に異なる音楽的特徴を持つ。それは当然、薩摩藩による実効支配から琉球王朝の廃絶・近代帝政日本への編入、そして戦中の沖縄戦を経てアメリカによる実効支配にいたる沖縄/琉球の暗い歴史ともつながっている。そのような沖縄の沖縄/琉球的な音楽は、戦後昭和の歌謡曲にとってほとんど導入不可能な、言わば近すぎる他者だったと考えることができる。かくして戦後しばらく、日本本土と沖縄とは流行音楽の動向において互いに隔絶しながら歩むことになる。

 

 やがて時は流れ、昭和から平成へと変わり歌謡曲からJ-POPへと交代が始まる1990年代、沖縄発の沖縄的な音楽が本土で人気を博するようになる。先立つ1970年代末にはすでに喜納昌吉や知名定男が本土のミュージシャンたちと交流し評価を受け、また照屋林賢率いるりんけんバンドが結成されている。喜納・知名・照屋はいずれも敗戦前後に生まれた世代、かつ親族が沖縄民謡の歌い手であり、沖縄の伝統に根差しながら各自の歌のスタイルを模索した。その動きが本土の音楽市場においてひとつのブームとして花開いたのが1990年代、いわゆるウチナーポップ(琉球音階を基にしたメロディと琉球弁の詞で歌うポップソング)のブームである。りんけんバンドや、知名がプロデュースしたネーネーズが本土へのリリースを果たす。また喜納が初期に作った曲「すべての人の心に花を」をおおたか静流が「花―すべての人の心に花を―」として歌いCMソングとしてヒットする。
 本土におけるウチナーポップの受容には、いわゆるワールドミュージックの文脈が半ばあったように思われる。先にも触れたように、米英中心のポップス、ロック、ジャズなどとも、またさらにいえばヨーロッパのシャンソンやカンツォーネなどとも、勿論演歌とも異なる音楽的特徴がある。そして米欧でも、それを参照する日本でもいまだあまり普及せず、またそうであるがゆえにいまだその魅力を十分に汲みつくされていない、内なる異郷の音楽という錯綜感・新奇性こそが、日本本土におけるウチナーポップの引力の源だったのではないか。そのことは先に触れた「すべての人の心に花を」のヒットの構造にもみてとることができる。この歌はおおたか静流が歌う前、80年代に東南アジアでカバーされヒットしている。おおたかは東京出身で、「花」を以ってソロ歌手としてデビューし、以後まさにワールドミュージックの歌い手として活動する。そしておおたか版「花」は当時のカセットテープのCMソングとして、その印象的な映像の重要な構成要素として知れわたりヒットした。白黒の映像で若い女性(10代のモデル)が涙を流しながら「泣きなさい 笑いなさい」と軽やかに絶唱している――私は同時代でそれを視聴し、口パクだと後で知ってもしばらく実感できなかった。無論この歌自体の魅力というのはあるが、しかしその魅力が本土出身の新たな歌い手によってあらためて、またテレビCMという枠組みで巧みに引き出された様子は、本土における本作の受容/需要のあり方をある程度象徴しているように思える。加えて言えば、CMの映像の女性モデルと歌い手であるおおたかとオリジナルの歌い手(喜納昌吉&チャンプルーズ、Vo. 喜納友子:1980年『Blood Line』にて)がいずれも異なっているという、ある意味で多重に分裂した状況がこのCMに詰め込まれていたこともまた同様の印象を与える。

 

 昭和歌謡は、あるいは日本本土の大衆は沖縄の音楽を容れなかったとまず述べた。すでに述べたように沖縄の沖縄的な音楽が本土で一般に聴かれるようになるのは1990年ごろである。他方で同時期、ウチナーポップのような琉球音楽の伝統を継ぐ沖縄的な音楽とは別に、もう一つの流れが沖縄から本土へ到来していた。沖縄アクターズスクールの一群である。1983年に開校、80年代末には第1期生のGWINKOがメジャーデビューするが、同校が一躍脚光を浴びたのは90年代に入ってからである。SUPER MONKEY’Sがメジャーデビューし当初は注目されないながらも本土のテレビ放送キー局などで下積みを重ね、やがて安室奈美恵を中心とした編成が固まり、松浦勝人のプロデュースを得て「TRY ME」でヒット、やがてレコード会社所属を松浦が創立したavexに移しソロ歌手としての安室とダンスユニットMAXとしてそれぞれに活動していく。安室はavex移籍後小室哲哉のプロデュースを得、90年代を通し「小室ファミリー」の一員としてヒットを連発する。これにSPEED、Folder、DA PUMPらが続き、90年代の日本のポップス/アイドルシーンを席巻する。
 沖縄アクターズスクールの創始者は沖縄周辺の出身ではなく、映画監督の牧野省三の孫で長門裕之・津川雅彦兄弟などの親戚にあたるマキノ正幸という人物である。同校は東京の大手芸能プロダクションであるライジングプロダクションと提携、また上述の出身者はいずれもレコード会社のavexグループに所属し、その人気は90年代における両社のブランドイメージ確立に貢献する。琉球的伝統・郷土性からいったん切れて、米軍基地由来のアメリカ的文化と首都圏から離れた南洋の群島という地理状況とを出自上の特色とし、芸能的才能の豊かな若者たちとして本土で活動の場を得る……それは場合によっては、本土の者が琉球の郷土文化も苦難の歴史も無視し、本土からの眼差しで人材を選び出し本土の文脈へ送り込んでいったのだとする否定的評価もありうるかもしれない。
 ところでこのような、沖縄の伝統ではなく言わば沖縄の戦後性・アメリカ性を自らのユニットイメージとして提示し活躍した先駆けの存在がいた。フィンガー5である。返還直前の沖縄で当時小学生の実の兄弟姉妹で結成、69年にはパスポートを取得して東京へ進出、紆余曲折を経てアメリカのジャクソン5を模したフィンガー5にユニット名を改め、1972年ごろよりテレビ出演とレコードで一躍人気を得る。かれらの人気の要因はその幼さと抜群のポップスセンスという組み合わせ、特に小学生の最年少メンバーが変声期前の高音で思春期の恋愛を絶唱するというアンバランスだったろうが、ここに沖縄的なものに対する昭和歌謡および戦後日本大衆の回避と折衷、さらには自己投影が透けて見える。
 すでに述べたように昭和歌謡の源泉の半分は米欧の軽音楽・流行音楽である。しかもそれは戦前期日本に導入されたものもさることながら、敗戦後の進駐軍との接触のなかで練り上げられたものが大きい。美空および江利チエミ・雪村いずみの三人娘に象徴されるように、戦後の歌謡界、のみならず音楽界の人材には進駐軍相手のバンド活動から出発した人々が多いのである。さらにFENをはじめ戦後長く残った米軍基地の周辺文化もその影響はおそらく小さくない。70年代のフィンガー5の活躍当時、おそらくその人気は若者中心だったろうが、その20年以上前の日本を思い起こす年長者も少なくなかったのではないか。そしてさらに約20年後、フィンガー5のイメージをおそらくはFoler/Folder5が受け継いでいる。
 もう少し違った例を挙げよう。80年代末のバンドユニットBeginの登場である。石垣島出身の幼なじみ3名が東京で結成、89年に当時人気を博していた対バン勝ち抜き形式のテレビ番組に出場、オリジナル曲「恋しくて」を最初に歌うなり辛辣な審査員たちから異口同音に絶賛を受ける。ツインギターと電子ピアノのみの素朴な構成、その当時でも良い意味で枯れた感じすら漂う正統派のブルースメロディに乗せて、別れの後悔を修辞に走らず率直な詞で、また艶やかな声で歌う。音楽として琉球的なものは見られず、また歌謡曲の「ブルース」でもフォーク―ニューミュージックの流れでもなく、骨太なブルースを共通語(東京弁)で歌ったこの歌は、一部の人気バンドとアイドル歌手を除けばおよそ放送を通じてのみ音楽に触れてきた当時10代の私にも新鮮で衝撃だった。経済発展の只中、歌謡曲もニューミュージックやロックもさまざまに発展し、音楽的技巧とともにステージパフォーマンスや市場への訴求が競われていた当時、余計な雑味が入っていない何か純粋なものとして聞こえたのだ。その感覚もまたおそらくは、フィンガー5に見たであろうものと同じく、戦後歌謡の自己投影だったのではないか。

 

 日本本土の流行音楽における沖縄的なものの動きを眺め、琉球文化の伝統を汲むウチナーポップと、その伝統とは別に戦後の基地偏在によるアメリカ性・越境性の期待に基づく本土メジャーポップでの活動という2つの流れを指摘した。さらに加えて「島唄」と「涙そうそう」についても一言触れなければならないだろう。この2作は琉球/沖縄的なものを本土の音楽文化から捉え直した例と見ることができる。「島唄」は甲府出身の宮沢和史が作詞作曲し当初は92年にアルバム収録曲として発表された。島唄という言葉の用法の曖昧さ(島唄とはもともと琉球民謡ではなく奄美群島の民謡を指す言葉だった)を含め批判も多いなかで、宮沢の率いたTHE BOOMの代表曲として知られる。「涙そうそう」は森山良子がBeginに働きかけ、Beginが作った曲に森山が詞をつけたという。どちらも以後いくつかのバージョンが作られてロングセラーとなり、また沖縄出身の夏川りみを含め多数の歌い手によりカバーされている。
 2作とも琉球音階を採り入れており、音楽として明らかに沖縄的なものを含んでいる。昭和歌謡の枠組みでは決して採り入れられなかった文化的固有性としての沖縄的なものが、90年代のJ-POPの流れのなかでとうとう本土の音楽に採り入れられたことになる。特に島唄に対する根強い批判で明らかなように、琉球/沖縄的なものは沖縄出身者の拠り所であり、それに擬したものを本土出身者が作り歌い奏でるのは邪道であるという意見は根強い。しかし他方、「島唄」のヒットは沖縄周辺の伝統音楽文化への関心をあらためて高め、また沖縄出身のミュージシャンが自身の活動をJ-POPの流れに接合するにあたり有力な参照項となったとも言われる。
 地域固有の文化圏の確立・確保の問題は基本的にその地域関係者が担うほかない。それとは別に本土の音楽シーンにおいて沖縄的なものが部分的にであれ受容され咀嚼されたことにはいくばくかの意義があるだろう。それが理由はどうあれ気に食わない人がいる、というのはわからないではない。だが社会的に意味がない、または悪だというなら、たとえばアメリカのジャズやブルースは、さらに言えばそれから発展した様々なポップスやロックはすべて旧奴隷の子孫の黒人たちにしか歌えないし弾けない、ましてや日本の近代以降の歌謡は民謡・浪曲などを除きすべて有害無益などと主張するのとさして変わらないことになるだろう。
 最後に。「涙そうそう」ははじめ1998年の森山のアルバムに収録され、のち2001年にシングル「さとうきび畑」のカップリングとして収録された。そのシングル表題曲「さとうきび畑」はもともと1960年代に作曲家の寺島尚彦が沖縄を訪れ、激戦を極めた沖縄戦のあとというモチーフから作詞作曲したという。曲も詞も琉球・沖縄的な形式を採ってはいないが、沖縄戦の悲劇をモチーフとしていたのである。そして70年代には反戦や沖縄返還の流れのなかで注目され、NHK『みんなのうた』でも起用されてちあきなおみが歌った。無論その沖縄戦は地元沖縄と日本本土とでそれぞれに異なる記憶の文脈を形成し、それが両者の文化的な、またあるいは情緒的なすれ違いを象徴している。とはいえ沖縄の記憶への何がしかの共感を歌おうという本土の動きの先駆といえる。そういえば「島唄」制作のきっかけも、宮沢が沖縄戦の内実を知ったことからだったという。矛盾と反発を抱えながらも、敗戦の記憶が沖縄と本土とをつなぐ膠となっているのである。無造作に張り付いて古び、今やどうしたらよいのか誰も途方に暮れている膠であるとしても。

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