寡黙な歌謡曲とその後:「舟唄」を中心に
「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉に往年の玉置宏を思い起こすのは私だけではないはずだが、裏返して言えば今やこの言葉は玉置とともに過去の歴史上のものとなり、世代によっては知らない人すら少なくはないだろうと思う。日本人の心を取り戻せなどと言わなくても、戦後昭和というそう遠くない過去、いやつい数十年前までこの国で広く深く浸透した歌謡曲なるものを題材に少しばかり考えを巡らせてみるのは、音楽とことばという提題から大きく外れてはいないものと信じて以下の稿を綴りたい。
それでさしあたり採り挙げるのは、八代亜紀が歌って人気を得た「舟唄」である。阿久悠が詞を書き浜圭介が曲をつけ、1979(昭和54)年5月に発表された。発売当初は売れ行きがやや低調で狙っていた同年の日本レコード大賞を逃すが、年末のNHK紅白歌合戦の大トリで八代が歌い、以後売れ行きが伸びたという。現在では八代の言わずと知れた代表曲のひとつとなっている。
構成を大まかにみると、主要部は1番・2番がありそれぞれメロ―サビ構成である。後述するダンチョネ節を1番と2番の間に挿み、最後にもう一度サビを置いて結んでいる。コード進行はそれほど複雑ではない。BPM=80程度でメロ・サビそれぞれが8小節、いずれも2小節ごとに区切れ、特にメロでは定型化して2小節ごとの区切り感を出しながらも、終わりきらなさを適度に保って8小節の最後にはっきりと終止感を出している。淡々としたなかであまり欲張らずに適度にメリハリがついている。
メロディもおおよそ定型化している。2小節ごとの前半の小節に音が集中し、多くは16分音符、しかも同音程がたびたび4、5個連続する。このメロディラインはときに指摘されるように、同じく浜圭介が先立って作曲した「石狩挽歌」(1975(昭和50)年、作詞:なかにし礼、歌:北原ミレイ)と通じる。また部分的にはのちの「望郷じょんがら」(1985(昭和60)年、歌:細川たかし)にも通じる。「石狩挽歌」以前の浜の作品、たとえば1972(昭和47)年の「そして、神戸」(歌:内山田洋とクールファイブ)、「雨」(歌:三善英史)などとの対照から察するに、「舟唄」などでの短い音を同音程で並べる平坦なメロディはおそらく自覚的に選択されている。メロに対するサビらしさは、音域が高め、小節を利かせる長い音が多め、後半でアルペジオ(コード構成音を一音ずつ順に出す)によりオクターブ分動くなど比較的抑揚が大きいことだ。とはいえ全体的に淡々とした曲調といえる。音楽として聴いたときの魅力は、やはり八代亜紀独特の、しゃがれてドスが利き艶っぽさもあり、低音では呟くような、高音では見得を切るように張りが出せる歌声に負うところが大きい。八代は幼時より浪曲に親しみ、またジャズボーカルに憧れ長じて上京しクラブ歌手として下積みを重ねたという。そうした素養とこの歌の要求がうまくかみ合ったことになる。
阿久悠が書いた歌詞に目を向けると、メロ―サビそれぞれが典型的な起承転結形式を採る。1番・2番・最後のサビいずれも詞は変わるがこの起承転結形式は維持される。そして、全編を通じて物語の具体的核心を述べない。1番の詞で言えば、飲み屋の女将またはホステスの女性があまり口を出さず傍観的に見守るなか(またはそうした女性を想像・願望しているだけかもしれないが)、男が安い肴で熱燗を少しずつ飲み、酔いのまま思い出に浸っていたらふと涙がこぼれ、それで舟唄を歌い出す、それだけと言えばそれだけの話である。酒を飲むに至るまで、または涙を流すに至るまでどんな出来事があったのか、その関係者は誰か、各人はどう行動したか、出来事を通して何がどう変わったか変わらなかったか、誰が何に対してどう思ったか……こうしたことは語られない。男はなぜ、どんな思いに突き動かされて涙を流したのか、というクライマックスに至る心情的核心の具体的内容が一切語られない。強いて言えば挿話的に置かれるダンチョネ節が男の思いを伝えるが、それもよくある話を俗謡に仮託するという形で、誰が・何がといった個別具体的な内容は述べない。話者=主人公が男であることは状況から察せられるのみである。直接の叙情を抑え、映像的に知覚しうる事実状況を淡々と並べて慕情や哀感の存在のみを示し、その心情や原因の具体的な内容はことごとく受け取り手の読解・想像に委ねるという態度を貫いている。
詞と曲の両方で淡々訥々と綴るなか、伴奏ではメロからサビに移る1小節の間に、弦楽器とドラムスで高密度に音を並べてサビの昂揚への指向を演出する。コード進行と歌のメロディを中心に淡々としてはいるが、この間奏そして前奏などバンドアンサンブルの伴奏がこの曲の演出要素として小さくないことは確かである。そして「涙がポロリとこぼれたら」で先述したサビのアルペジオが現れる。「こ-ぼ-れ-た-」と順にアルペジオで音程を上げ、「-らー」で少し下げ、伸ばして次第に小節を利かせながら柔らかに下げてゆく。続く「歌い出-すのさ」で見得を切るように急峻に音程を上げ、「-さー」と小節交じりに伸ばしてやや下げ、「-すのさ」と同じ音程に戻して始まる「舟唄を」の末尾「-を」は小節交じりに音程を上げながら伸ばしこの曲の主音へ行き着く。感情の発露というクライマックスから終息までを一気に歌い上げて明確に終止符を打ち、続いてテンポをほんの少し落としてダンチョネ節に移る。
ダンチョネ節は詳しい由来はわからないが神奈川・三浦の発祥とされ、大正期に流行ってから詞を替えた歌がいくつも作られ、なかでも特攻隊を題材にした「特攻隊節」がよく知られるという。戦後もさらに歌詞を替えて小林旭も歌っているようだ。少々調べると、「舟唄」版も曲は従来のものをほぼ踏襲し、詞は「沖の鴎」と「ダンチョネ」(一説には「断腸ね」からきているともいわれる)の言葉、そして女に対する男の叶わぬ慕情というモチーフを借りながら独自に創作していることがわかる。歌詞を替えて歌い継がれた近代民謡というあり方は、「舟唄」の劇中歌(歌中歌?)として、その民謡調が地方の現業従事者の雰囲気や懐古・郷愁の感を演出するとともに、「舟唄」自体のあり方、具体的な叙情を避け聴き手の個々の感情移入を許容する器というあり方をメタフィクショナルに象徴してもいる。
以上でみてきたように「舟唄」は、慕情と哀感と郷愁とを聴き手がそれぞれに思い為す容れ物として重層的に作られている。言葉少なであるのは歌謡曲として続いた制約と表現技法という2つの面のほかに、当時主流の(そして現在でも根強い)理想的人格像、特に男性の理想像を反映していると言えるかもしれない。男は黙って何とやら、または高倉健の「不器用ですから」というやつだ。
作品の魅力は作品に内在するとともに時代状況にも多くを負う。この歌はどのように受容されたのか。社会状況も加味して、多分に想像だが以下もう少し考えてみたい。
「舟唄」を愛聴した人々はおそらく当時(1980年ごろ)の30代以上、敗戦後数年以内に出生した団塊の世代あたりが下限だろうと考えられる。まだ地方出身者が多数派で、一次産業が少なくなかったなかで幼少期を過ごし、復興期の日本をそれぞれの形で生き延びてきた人たちである。学歴分布も今よりは低めで、高卒も少なからず、中卒就職者も相当数いたはずだ。生き延びはしたがあまり良い境遇ではない、敗北感を抱えてきた者も(それは世の常かもしれないが)相当数いたはずで、おそらくはそうした者の心にこそこの歌はひときわ響いただろう。
すでにみたように歌自体は簡素であることから、八代亜紀の技量を目指さなければ口ずさみやすいと考えることもできる。そしてこの歌は男性視点からの「男歌」である。女性には共感しにくいかもしれないし八代のように歌うのは至難だ。しかし男性からみると、歌として共感しやすく、また八代の歌唱を目指す必然性は薄れる。とすれば、自分のことを歌っていると感情移入し、巧拙はともかく自分で歌ってさらに没入していくということがあってもおかしくない。
折しも1970年代にはスナックなどの飲食店を中心に、酒席の余興としてカラオケ装置が普及し始める。もとより歌は人々が口ずさみ広まるものだが、経済成長の繁栄の下、多く簡素化したものとはいえバンドアンサンブルの音源を伴奏に自分が主役として歌える環境は多くの人々を惹きつけた。のち1980年代半ばにはカラオケで歌うこと自体を目的としたカラオケボックスが登場する。未曽有の好景気を背景に、個別化するカラオケは世の繁栄からこぼれた自分の慰撫、そして主役としての自分を確認するふるまいの場として普及してゆく。「舟唄」もまたその流れに乗って長く人気を得たのであろうことは想像に難くない。
「舟唄」が象徴的に体現した、慕情と哀感と郷愁とを寡黙に湛える歌謡曲の作風は、平成期に入って次第に衰退する。いわゆるJ-POPが台頭し、Aメロ―BメロさらにはCメロといったように楽曲構成が多層化し、歌詞の量が増える。編曲技巧も複雑になり、また一つの曲がCDアルバムなどに再掲されるたびリミックスなど編曲を替えた別バージョンが作られたりする。
昭和から平成に変わったのち1990年代には B’z や大黒摩季や広瀬香美といった歌い手が現れ、ある程度洗練された軽快な曲に、週刊誌の記事や友人同士のおしゃべりのような、ときに詞心をあえて捨てたとすら思える多弁な歌詞を乗せて歌い次々にヒットする。また80年代からTMネットワークとして活躍していた小室哲哉が音楽プロデューサーとして独立し、主にある程度限定された歌い手たち(小室ファミリー)へ楽曲を提供し小室サウンドと呼ばれる楽曲パターンを確立する。当然これらはカラオケボックスでも人気曲となる。さらにアメリカのヒップホップのスタイルも積極的に採り入れられ、メジャーシーンでは宇多田ヒカルやいわゆるJ-RAPの楽曲のヒットが連発する。
2001年のm-flo「Come Again」のヒットも、その圧倒的情報量・技巧性という内在的要因のみによるものではなく、こうした流れの延長上、この曲を受容する聴き手側の下地ができていたからこそ成ったのだといえる。この曲はメンバーのマルチリンガルな資質を存分に発揮し、歌謡曲の形式を無視して欧米のヒップホップ/クラブミュージックの先端スタイルを採り入れ、複雑なコード進行の曲にラップ(それはメロディを否定した音楽とも言える)も含む日英語混合の膨大な詞を乗せている。そしてこのように曲・詞ともに(多くを海外の音楽文化状況に負った)先端的技巧を高密度に駆使して描く物語は、六本木のクラブに通うというやや先鋭的な設定ではあるが、要するにわりあいありがちな若者の恋愛とすれ違いの話である。
聴き手の変化は表現様式の変容への適応にとどまらない。敗戦後から70年代までがそうだったように、その後世紀末の20年ほどでも人々の生活環境が大きく変わった。東京圏など大都市圏への人口流入・集中が進み、地方の多くは過疎化の一途をたどる。そのなかで、地方で保たれてきた民謡などの純邦楽文化も衰退し、直接の演者だけでなくそうしたものを懐かしむ聴き手も逓減してきたはずである。さらに言えば郷愁・望郷という感覚が社会的に薄れてきた、または変わったかもしれない。幼少期から大都市圏に暮らし、成長してから同じ都市圏で生活する場合が増えた。また大都市圏ではそもそも地元文化の固有性が薄いことが多い。いずれにせよ「望郷の念」といった言葉がかつてほど実質を伴わなくなってきている可能性が高い。望郷は良かれ悪しかれ各地方の固有性や共同体性を背景とすると同時に、そのような個別だが類似した望郷の念を抱く者が多々いた。そのため同郷人どうしはもちろん出身が異なってもその哀感をある程度察するということがあり、だからこそ歌謡曲においても望郷は普遍的モチーフとなりえた。恋愛・慕情が歌謡曲でもJ-POPでも普遍的モチーフであるように。さらに言えば、かつてはその望郷の念を抽象化した先に愛国心なるものが立ち現れたのではないか。しかし21世紀に入るころには望郷という具体的な心理的前提が人口分布などの変化により弱まり、歌謡曲は衰退した。愛国心もいったん忘れられかけたが、冷戦構造の崩壊や経済の長期停滞など社会情勢の不安定化を背景に、故郷という具体的状況を介さず国家とその歴史への直接的愛着・憧憬に向かったり(ネトウヨ)、またはシンボリックな消費財やそれに関連する商業地などの土地に愛着の拠り所を見出したり(オタク)しているのではないか……。
歌謡曲のスタイル、特に演歌は衰退の一途をたどり、またもとより演歌に限らず幅広く作詞を行なっていた阿久悠もその作風が徐々に時代と折り合わなくなり出番を失ってゆく。私の記憶の限りでは、阿久は敗戦時、大人たちの態度を眺めて男の弱さと女のたくましさ・図太さを子供ながらに感じ取ったと晩年に新聞連載で語っている。しかし復興期の日本を歌謡曲の仕掛け役として突き進んだ彼には、昔ながらの男の強さ・美しさ、ダンディズムをそれでも信じようという思いがおそらくあった。その両義的な思いはたとえば、沢田研二に書いた「勝手にしやがれ」(1977(昭和52)年)、「カサブランカ・ダンディー」(1979(昭和54)年)でうかがえる。おそらくそれゆえに、秋元康や長戸大幸らのようなふるまいはできなかった。90年代以後の良かれ悪しかれ多弁で軽やかなJ-POPの流れには与することができなかったのだ。
「舟唄」は簡素で寡黙だったが、それは同時代の聴き手の思いを踏まえて入念に組み立てられていた。聴き手はそれぞれの思いを注いでその歌を慈しんだ。そのような寡黙の美意識に基づいた流行歌は平成以後ほとんど姿を消した。阿久が慈しんだ寡黙なダンディズムも信用されなくなり、J-POPは曲も詞も複雑で情報量の大きい饒舌多弁なものになった。それはそれで時代の流れであり、徒に非難すべきものでもない。寡黙なダンディズムなるものも現在の観点では、たとえば「女は無口なひとがいい」ひとつとってもジェンダー論からの批判がありうるかもしれない。郷愁・望郷のような共通前提も弱まった。慕情の不器用なあり方は単に怠惰または格好悪いものとして退けられ、恋愛は個別化と多様化を志向する。哀感も多分に隠蔽される。歌謡曲がその基盤とした社会―心理的前提が大きく変容するなか、従来の音楽媒体市場が縮小し、音楽業界はデジタルコンテンツへの転換を前に混乱している。そしてまた、歌謡曲が慰撫してきた人々の思いも行き場を求め彷徨っているように見える。まことに「舟唄」は時代の産物だったのである。そのことをみてとった今、私は子供ながらにこの歌に慣れ親しんだ者として、ただ個人的な懐古趣味と自覚してこの歌を愛でるのみである。
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