「桐島」という中心の在処 ー『桐島、部活やめるってよ』についてー
1.
「あ、でも辞めたんでしょアイツ。バレー部。」
「いや、なんか、桐島が部活辞めたんだって。」
友弘(浅香航大)セリフ
私が今まで目にした作品の中で、告知用のポスターとタイトルに裏切られたと感じた作品は、思い返してみても過去に一度もなかった。「桐島」には本当に裏切られた。今でもそう思うばかりだ。
監督・吉田大八のよって制作された『桐島、部活やめるってよ』(2012年)(以下、『桐島、部活』)は、小説すばる新人賞を受賞した小説家・朝井リョウのデビュー作が原作の映画作品である。地方都市にある学校を舞台に、学校内の上位カーストのそのまたトップに君臨する「桐島」に関係する人物を中心に、吹奏楽部の沢島亜矢(大後寿々花)や下位カーストに所属する映画部の前田涼也(神木隆之介)など、様々な生徒が交錯する中、それぞれの生徒の目線で物語が繰り広げられている。
物語冒頭、バレー部マネージャーの泣きじゃくる姿、教師らの「また桐島か…」と言葉をきっかけに、本作に登場する多くの登場人物とともに、私たちも「桐島」という人物に注意を向けざるを得なくなる。「桐島」という存在を欠いた生徒の不安が伝播するように…。
「桐島」はバレー部のエースとして活躍し、学校でも美人で評判の飯田梨紗(山本美月)を彼女にしている。多くの登場人物のセリフから「何でもできるタイプ」「よい人」といったイメージが前景化させられるが、まさに上位カーストのトップに相応しい姿を彷彿とさせる。
そんな「桐島」が突然部活を辞めることから物語は動きだす。「桐島」が部活を辞めたのに連絡がなく、理由もわからず、どうすることもできない不安や怒りを感じる飯田。親友のはずの自分に、何も告げずに部活を辞めたことにショックや戸惑いを受ける菊池宏樹(東出昌大)。「桐島」が部活を辞めたことに怒る久保孝介(鈴木伸之)。それに翻弄される友人たち。多くの人間が、「桐島」が部活を辞めたことで、自らの意図とは別の形で動きだすことになる。
しかし、ここに本来ならそこにあるだろうものが微塵もない。部活を辞めた「桐島」への心配の念だ。飯田も菊池も久保も「桐島」が部活を辞めたことに対し、心配する素振りをほとんど見せない。これはどういうことだろうか。一般的考えるなら、「何かトラブルがあったのではないか?」「悩みがあるのではないか?」と一度は思い巡らすものだろうに…。彼ら/彼女らが本人の意図しない所で動きだし、いったいどこへ向かっていくのだろうか。
2.
「だから、結局、できる奴は何でもできるし、できない奴は何にもできないってだけの話でしょ。」
「お前、それ、できる側だから言えるんだぞ。そんな残酷なこと。」
菊池と寺島竜汰(落合モトキ)のセリフ
カウンセラー/心理療法家の大嶋信頼は、人間を3タイプに分類できると自身の著書の中で述べている。(※1)「支配者」「虚無」「光の人」だ。ここではこの3タイプについての詳細を記さないでおくが、簡単に説明をすると、「支配者」は支配する側、「虚無」と「光の人」は支配される側だ。「支配者」は支配される側である「虚無」と「光の人」に意識的/無意識的に幻想の愛や幻想の世界を与え、見せ続けることで「支配」する。支配される側は、この「支配者」の環境下で適応していくために努力をすることになるが、基本的には「支配者」から認めらないことに鬱屈した思いを溜めることになる。「支配者」から抜け出すのはなかなかに難しい。
「桐島」をこの3つのタイプにあてはめてみると、「支配者」になるに違いない。「支配者」と聞くとイコール「悪」と考えてしまうが、いわゆる「支配者」イコール「よい人」の可能性もある。この世の中には、多くの人に受け入れられる形の幻想の愛や世界を与えているケースも存在するのだ。
今回のケースでは、「桐島」の存在を失ったことによって、「桐島」と関わる人間たちが不安や怒りなど不安定さを感じていることを証左とし、「桐島」イコール「支配者」として論を進めていくことにする。
もし仮に、「桐島」が他のタイプであるならば、「桐島」が突然消えたとして誰も心配の念を持たない状況は疑問である。彼ら/彼女らは、身体や言葉こそ「桐島」に注意が向かっているように見せているが、「桐島」を失った自分自身に向かっている。これは「桐島」の存在の大きさというより、「支配」の深さを物語っていると言えるだろう。
それに対して、意識的/無意識的に立ち向かっていくのが菊池である。菊池はこの「桐島」からの「支配」に自覚的に向き合う努力をする。「だから、結局、できる奴は何でもできるし、できない奴は何にもできないってだけの話でしょ。」このセリフもできる側からのセリフではない。「桐島」に「支配」されて何もできない奴の側のセリフなのだ。進路票を書けない自分。野球に打ち込めない自分。そんな何もできない自分へのセリフだ…。
「お前、それ、できる側だから言えるんだぞ。そんな残酷なこと。」そして、菊地は世界の残酷さも理解している。わからないのは戦い方、それだけだ。
3.
「あの、俺たちがこの世界、でしたっけ?」
「えー?俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだ。」
「俺たちはこの世界…、ん?」
「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから。覚えておいてね!」
映画部員と前田のセリフ
学校はカルト教団のような場だ。校則は狂信的に守らなければならない教義のように厳しく、教室の空気は絶対的なルールであるかのような雰囲気を纏っている。このような空間では、いじめや差別のような問題が発生してしまうこともある。そんな中で、上位カーストに入らずに、自分の居場所をみつけて少し脇にずれて生きている存在も本作には登場する。前田と沢島だ。
前田と沢島は上位カーストに入っていないことから、必然的に「桐島」の影響下に入ってはいない。しかし残念ながら、カルト教団である学校には、「支配者」のような存在が他にもいる。前田にとっては映画部顧問の片山であり、沢島にとっては菊池がそれにあたる。片山は前田ら映画部の意見を無視し、自分の脚本で撮影するように強く迫る。一方、沢島は菊池に恋心を抱いているが、沢島の思いは菊池には届かない。
2人は目の前の問題と戦っている。前田は映画と、沢島は恋と。「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから。覚えておいてね!」これは前田が映画部部員らとゾンビ映画を撮影している最中、セリフを忘れた部員に、前田が指導するシーンだが、まさにこのシーンのセリフと同じように、2人は自分たちの生きていく世界を得るために(または守るために)戦っている。前田は片山に逆らってゾンビ映画を撮影し、沢島は菊池を遠くから見つめ続ける。
邪魔が入ってもその歩みは止まらない。前田は武文(前野朋哉)と教室で映画雑誌を読んでいる時に他の生徒が割り込まれ、雑誌を吹っ飛ばされても、片山に映画の撮影を止めるよう指示されても、それでも歩みを止めない。沢島も前田ら映画部の撮影のため場所を変わるよう何度お願いされても、それでも歩みを止めない。
歩みを止めない2人は自分たちの世界を手に入れる。前田は映画の世界を、沢島は吹奏楽部の部長としての世界を。菊池のキスシーンを目撃する沢島は恋を吹っ切ってはしまったが、戦いの結果きちんと「何か」を得ている。上位カーストにいる菊池ですら得られなかったものを…。ほとんどのシーンが暗いトーンで覆われ、大きな音もない『桐島、部活』において、唯一夕暮れの明るさが感じられたゾンビ映画の撮影、そして吹奏楽の演奏が大きく鳴り響いた、あの瞬間に。
4.
ところで、どうだろうか。『桐島、部活』をギャク漫画(アニメ)の視点から見た場合、登場人物はどのような関係を築くのだろう。
今期と前期にアニメ化された作品に『桐島、部活』と似た設定の作品が、2作品あった。『坂本ですが?』と『はんだくん』だ。ともに原作マンガも人気の話題作だ。
『坂本ですが?』は、挙動のすべてがスタイリッシュでクーレストな坂本を中心に描かれた学園ギャク漫画。一方『はんだくん』は、人気漫画『ばらかもん』のスピンオフ作品で、『ばらかもん』の6年前が舞台となっており、高校時代の半田清を中心としたギャク漫画となっている。
どちらの作品も坂本、半田が学校のカーストトップに君臨する人気者で、自然とまわりに人が集まるという設定が重なっており、ギャク漫画という点を差し引いても、「桐島」の状態とかなり近い状況を描いた作品となっている。一部、坂本が超人的な才能を持っているに対し、半田は実は書道以外にたいした才能を持っておらず、生徒の勘違いでカーストトップを維持する点が異なってはいるがするが、その辺は脇に置いてもいいだろう。なぜならこの2作品、本人の意図のある/なし、本人の能力のある/なしに関係せずに、カーストのトップとしての共通の問題を示しているからだ。
そもそも「桐島」が部活を辞めた理由は、部員との間に軋轢が生じ、コミュニケーションの問題があったのではと作中で言われている。上位カーストのトップにいる人間にコミュニケーションの問題が発生して、部活を辞める。こういったことは本当に起きる得るのだろうか。坂本と半田を例に考えてみよう。
坂本と半田は、常にまわりにたくさんの人を集め、なぜかヤンキーのような変わった人物からも尊敬されている点で共通している。しかし、現実は友人と呼べる存在は坂本と半田ともにほとんど作中に存在していない。半田には親友の川藤が存在するが、他にまともに話せる友人すらいない状況だ。2人に共通して存在する問題として、(坂本は問題と認識はしていないが)自分のことを正確に理解して、付き合える友人がいないという点がある。
ギャク漫画の視点から見れば、普通に付き合える友人がいないということでネタに笑いを生み出すことが可能だろうが、「桐島」はどうだろう。「桐島」はカーストトップの悩みを菊池にも打ち明けられなかったのではないか。
5.
「ドラフトが終わるまでは…。ドラフトが終わるまではね…。」
「え?キャプテンのところにスカウトの人とか…。」
「来てないよ!でも、ドラフトが終わるまでは…。」
野球部キャプテンと菊池のセリフ
最後に話を『桐島、部活』に戻そう。
『桐島、部活』の中に「桐島」は登場しない。神木龍之介がビデオカメラで撮影する姿を正面からアップで描かれたポスターの印象とは裏腹に、神木は主人公ではなく、「桐島」でもない。タイトルにもある「桐島」は、その存在を欠いたまま物語を最後を迎える。
菊地は最後に「桐島」に電話をするが、それも繋がらずに本作は幕を下ろすことになる。菊池は何か変わったのだろうか。スカウトが来なくても、ドラフトが終わるまでは野球を続けるという野球部キャプテン。映画監督は無理と言いながら楽しそうに映画を撮る前田。この2人が菊地に伝えたのは、菊池が知らなかった戦い方だ。結果、「桐島」という「支配者」と電話は繋がらず、野球=自由を手に入れるのだろう。「支配」がないということは、自由ということなのだから。
逆に、「桐島」の視点から考えてみよう。「支配者」である「桐島」もカーストのトップならではの悩みを抱えていた。それを菊池に打ち明けられず、部活を辞めてしまったわけだ。「桐島」はコミュニケーション/関係性に毒され、答えを導くことができない。『はんだくん』や『坂本ですが?』の半田や坂本のように、やり過ごすことはできないのだから。
「桐島」の代わりとなる新しい中心を手に入れた彼ら/彼女らは、自由を手に入れて、本当に自分の行きたい方向で進んでいく。
(※1)大嶋信頼の3タイプ分類については、『支配されちゃう人たち』に詳細が書かれている。
(本作は、学校という閉鎖された環境の中、「桐島」という大きな存在/中心を欠きながらも、様々な登場人物の視点で描かれるという構成を擬態することを狙って作成しました。)
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