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「戦闘美少女」との「コミュニケーション」 『マクロスデルタ』について

やあ。日本一「萌え」に詳しいカウンセラーだよ。

さあ、今回のネタはひさしぶりのマクロス最新作『マクロスΔ(デルタ)』(2016年)だ。せんせいは『マクロスF(フロンティア)』(2008年)でマクロスファンになった1人なんだけど、8年ぶりの新作公開って、もういろいろスバラしいね!

これから『マクロスΔ』について書いちゃうけど、「あれ?これ、どこかで見たことがあるような文体だな?」って思った人も、せっかくだから最後まで読んでみたら面白いかもしれないよ。

「戦闘美少女」とは何か?

本作におけるフレイア・ヴィオンは、いわば一人の戦闘美少女。それも“戦闘美少女の新しい形態〟として描かれているのではないか。フレイア・ヴィオンの「ルン」を眺めながら、私はそのように直感をした。現在放送している最新話を観ることで、それは確信に変わった。

マクロス作品においての「恋愛」は、男と女の「三角関係」を描くものであること。本作品におけるインタビューで河森正治が、「可変戦闘機、歌、三角関係の三本柱を忘れずにという自戒も込めてのΔです。」という趣旨の発言をしていたが、本作を観ればそれも納得である。ハヤテ・インメルマン、フレイア・ヴィオン、ミラージュ・ファリーナ・ジーナスの関係こそが、本作の「三角関係」だ。そう、ハヤテ、フレイア、ミラージュの不確定な恋愛要素が、物語の要である。

三角関係の一因を担いながら、現在放送中の14話では、ハヤテに対し確信した恋心を持っていない戦闘美少女フレイア。フレイアが持つ特殊な器官「ルン」。本稿ではこの視点から、『マクロスΔ』の分析を試みる。

ここでいったん、「戦闘美少女」とは何か、を斎藤環の著書『猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか』を参考に確認しておこう。

 戦闘美少女、別名「ファリック・ガール」。ペニスを持った少女ならぬ、ペニス(=ファルス)に同一化した少女。彼女の高い戦闘能力は、彼女がファルスに完全に同一化していることを、最も端的に示すものだ。

 ファリック・ガールは単に「戦闘が可能な」存在ではない。むしろ戦闘能力こそが、彼女たちの存在証明なのだ。わかりにくければ言い替えよう。私たちが彼女を愛する本当の理由は、彼女たちの「可憐さ」ゆえよりも、彼女たちの「戦闘能力」ゆえなのだ。ヒステリー者の存在証明がその「症状」に見出されるならば、ファリック・ガールズの存在証明は、まさにその「戦闘行為」の中に記入されている。

 多くのリアルな―「現実」に存在する―「戦う女性」たちが、自身のトラウマゆえに戦おうとすれば、戦闘美少女にはトラウマがない。むろん個別のケースには例外はあるが、その理念型においてはトラウマの痕跡が欠けている。その意味で彼女たちは、どこまでも空虚な存在だ。そしてその「空虚さ」ゆえに、彼女たちは戦闘する。その戦闘には形式的な大義名分はあれ、本来的な意味での理念や動機が欠けている。

フレイアの存在は間違いなく「戦闘美少女」である。彼女はファルスに完全に同一化された「戦闘美少女」なのだ。ウィンダミア星からワルキューレに入るために密航したのも、ワルキューレに加入し歌を歌うのも、それはトラウマゆえの闘いではない。彼女は彼女の持つ「戦闘能力」、「空虚さ」ゆえに闘っている。

これらについての記述は、過去に斎藤環が「戦闘美少女の精神分析」(ちくま文庫、2006年)のなかで提示しているものとそう変わるものではない。しかしフレイアの場合、現在まで継続する「戦闘美少女」の系譜と異なる機能を有している。どういうことだろうか。

「おたく」に受容されるための「ルン」

フレイアの出自はウィンダミアである。ウィンダミア人は「ルン」と呼ばれる特殊な器官を持っているが、この「ルン」をファルスとみなすようなベタな分析は禁欲しておく。(ルンの形状や、ルンを人から見られたり、触られたりするのが恥ずかしいなど触れるべき点は多いのだが。)「ルン」を持つ彼女は特殊な存在である。

「ルン」については、『マクロスΔ』の中でも繰り返し描かれている。彼女がワルキューレと不意に出会うシーンでは、「ルン」は興奮による気持ちに合わせて赤く発色し、落ち込んでいるシーンでは「ルン」は青く発色する。「ルン」はウィンダミア人だけが持つ特別な器官として、感情を表出する時に発動している。

しかしながら本作の中で「ルン」は、「感情の表出」をリアルに描くための装置として機能しているだけではない。「感情の表出」はしばしば「コミュニケーション」のために生まれる。「ルン」が発動する時、はっきりとした「信頼関係」の構築が前景的に描かれるが、これは本質的な意味で「ルン」が「コミュニケーション」と「信頼関係」のなかで、重要な点を共有しているということに違いない。この「ルン」という装置によって、「コミュニケーション」する(できる)物語が起動していくのである。

物語の序盤、ハヤテはウィンダミアのスパイかと疑われ、落ち込んでいるフレイアの状態を「ルン」によって察し、彼女を外に連れ出して励ます。ハヤテは「ルン」のおかげで彼女の変化に気づき、彼女との関係を深める。この一連の「コミュニケーション」によって、フレイアの気持ちは無意識的にハヤテに惹かれていく。

『マクロスΔ』において、ハヤテは想像以上に「鈍感」なキャラクターだ。ミラージュと肌が密着し、触れあう状況になっても、まったく動じることなく目の前の問題を解決する。前作『マクロスF』のなかで、ハヤテとほぼ同じ年齢である早乙女アルトが、三角関係となるヒロイン達とのやり取りの中で、ふいに接触が起きた時にみせる男性らしい反応とはだいぶ異なる状況である。

ハヤテというキャラクターを「鈍感」と記したが、言い替えてみれば彼は「おたく」的なキャラクターなのである。ハヤテは「ルン」という感情を表出する機能がないと異性とコミュニケーションが正確に取れないのだ。「おたく」という存在は、社会的にコミュニケーションが取りにくい存在とされている。現実的にも医学的に発達障害との親和性が高いと言われているが、コミュニケーションの問題を指摘されることは多い。それも総じてネガティブなものが中心である。

話を戻そう。ハヤテはその「おたく」的気質からミラージュとの接触に反応できず、物語も半ばの時点で、ミラージュの好意や善意をほとんど誤解した形で受容する。しかし、ハヤテ自身は彼女の思いに対し無頓着に振る舞いながら、自分の思いだけは素直に表現している。もちろんこれはハヤテの狙って行った「ツンデレ」的行動ではない。彼はまったくミラージュの思いに気づいていないのだ。この「三角関係」において、現時点でディスコミュニケーションは避けられないという状況である。

「漫符」としての「ルン」

「ルン」について関連して書けば、漫画空間の特性である「漫符」と「ルン」の機能はほぼ一致している。アニメ・漫画のジャンル的横断はあるが、この特性についても述べておこう。

まず「漫符」という概念について簡単に解説しておく。「漫符」とは主に漫画特有の記号表現で、汗、涙、青筋など感情や感覚を表現したもの。それはつまり「ルン」の機能と同一なのである。しかし、その中で「漫符」と「ルン」には決定的な違いがある。それはなにか。「漫符」が現実に存在しない記号であるのに対し、「ルン」は作品内で人体の器官として現実に存在するということである。「漫符」はあくまで読者にキャラクターの感情を伝える記号でしかないが、「ルン」は視聴者だけでなく、実際にその物語の登場人物にも感情が伝わる装置としても機能する。

ちなみに、アニメで使われる身体的な漫符的表現として、“目が光る〟、“身体が燃える〟など様々に列挙可能であるが、あくまで記号的なもので、現実に存在しないことから、漫符の範疇であると言ってよいだろう。

またウルトラマンシリーズにおけるカラータイマーは器官ではあるが、機能が限定し過ぎている。魔法少女の道具が主人公のピンチに合わせ光る手法も同じだと言える。どれも「ルン」のような「コミュニケーション」の変化までは想定していない。わざわざ人間に存在していない器官を持たせ、非常にわかりやすい形で感情を表現させる。その結果新たな「コミュニ―ケーション」が誕生し、関係性の変化が起こることに「ルン」の価値がある。

「おたく」と「戦闘美少女」

ここで再び「戦闘美少女」の話に戻そう。果たして、「戦闘美少女」にとって「ルン」とは何だったのか。

「戦闘美少女」はファルスに同一化され、高い「戦闘能力」ゆえに、「空虚さ」ゆえに戦闘する存在だ。そんな彼女達は「おたく」に愛され、「萌える」存在として描かれているが、実際に「おたく」がコミュニケーションを取ることは困難だ。そう、ほぼすべてのケースにおいて、「戦闘美少女」と「おたく」に接点は生まれない。それはリアルか二次元かの違いではない。現実に綾波レイがいても、コミュニケーションを取ることは不可能に近いのだ。なぜなら、その高い「戦闘能力」と「空虚さ」ゆえに、普通の存在である私たちは「コミュニケーション」を行う接点がないのだから。

「ルン」は「漫符」と異なる自由を駆使し、リアリティを傷つけない形で「コミュニケーション」を加速する。

「コミュニケーション」の接点がなくても、「おたく」は「ルン」を通して彼女の「感情」に触れることできる。そこにディスコミュニケーションが起きず、「信頼関係」が構築できる素晴らしい世界がある。それはギャルゲーのなかで、攻略したい女の子とのハッピーエンドを見るために、ルート指示がある状況に等しい。「おたく」であるハヤテは、そんな女の子である「戦闘美少女」フレイアを選択するか。それともあえてディスコミュニケーションの波が続くミラージュを選択するか。『マクロスF』アニメ版のラストとは異なるであろうハヤテの選択を待たねばならない。

(※斎藤環氏の著書『オタク神経サナトリウム』と『猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか』を中心に、文体や語彙を模倣している。)

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