分裂した日本語ラップ
吉田雅史は『漏出するリアル~KOHHのオントロジー~』の中で、「現状、私たちの世界の一つの面においてはSEALDs等の活動により、ラップという手法の持つカウンターの機能がまさにアクチュアリティを持っているかのように顕在化している」と書いている。ただ、吉田はそれに続けて「志人とKOHHによって、カウンターとしてのヒップホップは潜在的に遺棄され、同時に、昭和90年代という虚数の歴史のカウントも、アクチュアリティを喪失したのだ」と書いている。しかし、SEALDsのようなカウンターと志人やKOHHの出現はコインの表と裏の関係であるというのが私の見立てである。その理由を説明するのが本論の趣旨である。
まず、議論の前提として東浩紀が監修した『開かれる国家』の中から同じく東が書いた『開かれた国家』を参照したい。
話をわかりやすくするために、いささか俗っぽくはありますが、ここで国家(政治)と市民社会(経済)の関係を、人体の上半身と下半身の関係になぞらえてみましょう。上半身は、下半身に支えられ、それに振り回されながらも、それ自体で独自の考えをもっている存在です。
(中略)
ところが今、ぼくたちは、一方では多くの国の下半身(経済)がつながってしまったにもかかわらず、他方で上半身(政治)だけはばらばらに存在しているような、そのような矛盾した時代に生きています。
上記のように、東はグローバル化によって国家間の経済活動は活発に行われているのにもかかわらず、それぞれの国家のナショナリズムはより強化されてしまっているアンバランスな状態を指摘している。
では、この東の指摘と先ほどの私の見立てはどのように関係するのか。そのために、再び吉田の批評に戻りたい。
吉田は、先ほどの批評でKOHHの特異性としていくつかの論点を提示しているが、あえて吉田の批評からキーワードを一つあげるとすれば、それは「いま目の前にある現実への賛美」である。
例えば、「母国アメリカのヒップホップが従来描いて来た「リアル」の模範回答は、ギャングの人生を凝えた類型化された物語」で「マイクを握ったときからその視界に散らついていたはずのバッドエンドへ一直線に伸びるルート」であった。しかしながら、KOHHは目の前に映るものだけを記述することで、類型化された物語を拒絶する。「今」しか見ないことで過去と未来を削ぎ落とし、背景にある物語を無効化しているのだ。
また、その態度は押韻についても徹底している。吉田は以下のように書いている。
ラップをラップたらしめている条件/規律の一つに「押韻」がある。韻を踏むという最低限のルールにこそ、ラップの面白さがあり、それを基盤に発展してきた経緯があると言っても過言ではない。
このように日本語ラップ史においては、「過去に誰も踏んでいないフレーズを踏めるかを探求するのが、一つの模範的な態度となった」。
しかし、KOHHはそのような規律は意に介さない。吉田によると、KOHHは「押韻の有無に特別な価値を置かず、その結果的な可否にも拘泥しないのだ」。
吉田が今回の批評文でも指摘しているように、そもそも、日本語は言葉の省略が多く、主語が抜けていても前後の文脈(過去と未来)を保持する特徴がある。しかし、「KOHHのラインは今、目の前にある状況を写し出しているが故に、過去も未来も勘定に入れる必要のない「今」の記述であり、そこには個々のセンテンスをつなぐ文脈というものが存在していない」。故に、「KOHHにあっては一行前、一行分だけ過去の自身の言葉も打ち捨てられ、忘却される」。「結果的に韻を踏んでいれば、それはそれ」なのだ。
さらに、KOHHは今、目の前にいる人たち=家族や友人たちに向けて言葉を発している。そのため、日本語ラップで使われがちな二文字の漢字からなる抽象的な翻訳語を使用せず、近視眼的だが満ち足りた世界をやさしく、生きた語感のある言葉で写し出す。吉田は『DIRT』収録の全13曲の語彙を分析した結果、KOHHのラップは10のカテゴリーの語彙でほとんど成立していると指摘している。
このように、徹底的に「今」を見つめ、削ぎ落とされた思考から生まれた語彙はかなり限定される。一見、それはラッパーにとって致命傷のように思われる。しかし、その非常にシンプルな語彙を用いられたラップは社会を無視することで家族や友人といった自分と近しいコミュニティに届かせることに成功している。
一方で、その削ぎ落とされた語彙はグローバル環境にも適応していると言えるだろう。吉田によると、「彼のリリックの一部は、英語に訳されて、ネット上の歌詞データベースである「Genius Rap」にアップ」され、「彼の削ぎ落とされたシンプルな語彙による歌詞は、英語に訳されても、ほとんど印象を変えない」と指摘している。このような視点から考えると、自分と近しいコミュニティ=村で「村人」のようにふるまっている姿とはまた違うグローバルに国境を越えて自由に行き来する「旅人」の姿が浮かび上がる。ここで、先ほどの東の議論に接続する。
東は前掲の文章で、上半身をコミュニタリアン=村人、下半身をリバタリアン=旅人だと説明している。
現代では、リバタリアンの世界とコミュニタリアン(共同体主義者)の世界が、分裂したまま共存しているわけです。一方には、国境などまったく関係なく、快楽だけを求めてヒトとモノと情報が行き来するリバタリアンの世界がある。他方には、国境できっちりと区別され、わたしは日本人、わたしはアメリカ人、わたしは中国人と規定するコミュニタリアンの世界がある。
吉田の批評によれば、KOHHのシンプルな語彙で生み出されたラップは翻訳というフィルターをすり抜け、かたちを変えることなくなめらかに行き来するものと考えられる。その意味でKOHHは下半身的(リバタリアンの思想)であると言えるだろう。そして、同時に私は上半身を従来の日本語ラップの文脈から連続するものとしてSEALDsを想定している。それは、吉田がKOHHや志人に対立するものとしてSEALDsを例にあげたからということもあるが、それだけではない。私は上半身的なものが常にテリトリーを区切って思考するものであり、そのバッドエンドとしてネトウヨが、そのカウンターとしてSEALDsが出現したのだと考えている。
最初の文章で私はカウンターの出現とKOHHの出現はコインの表と裏であると指摘した。それは、日本語ラップの分裂状態の出現であるということだ。確かに、吉田が指摘しているように、KOHHと志人によって「潜在的」には従来のカウンターとしての日本語ラップは遺棄されたのかもしれない。ただ、下火にはなりつつもカウンター活動は今もなお行われている。また、カウンターは日本だけのものではなく、欧米諸国でも発生している世界規模の潮流である。このような状況下でKOHHや志人が「悲哀と独歩」へ転回することはラップという身体の分裂と言えるだろう。悲哀を欠いた反撃=カウンターだけの歴史を無意識に共有している日本人にKOHHや志人のラップはどこまで影響を与えることができるだろうか。
この論点を考える際に重要になるのがやはり東浩紀の言説に登場する観光客という視点である。
それはひとことでいえば、歴史や伝統に敬意を払い、政治にコミットするコミュニタリアンでありながらも、グローバルなモノに惹かれる下半身の軽薄な欲望をうまく使うことで、潔癖主義のヘイトやテロに陥る危険を回避する生き方です。
ここで、東は歴史認識問題を例にあげ、国家間関係が悪化しているにもかかわらず、「一般市民そのものはリバタリアンなプラットフォームを使ってたがいの国を観光客として訪れていることが可能になっている」ことを指摘している。
そこで各自ちょっとした対話をし、一緒に食事をしたり酒を飲んだりして相手を知るきっかけが生まれる。そんななかで、日本人でも韓国人でもいいですが、自国を愛し、政治にコミットするあまりがんじがらめになって他国を「モンスター化」していたコミュニタリアンの世界にも、ちょっとした亀裂が入ることがある。ぼくは、そのような亀裂をできるだけたくさん作っていくことが、21世紀の平和につながると思っています。
私はこの考えを応用し、村人(カウンター)に対し、自分たちの仲間だと思っていた村人が本当は旅人(KOHHや志人)と呼ばれる人たちであり、自分とは違う人たちなのだと気付く経験(亀裂)をもたらすことが重要だと考えている。
ただ、必ずしもKOHHが旅人の立場に安住しているとは考えていない。亀裂を生み出そうと画策しているがそれは失敗に終わったという認識である。吉田によればKOHHはインタビューで、「あくまでも日本人として日本語で歌いたいことや、自分の歌を気に入った外国人には日本語を勉強して欲しいと答えている」。この発言はKOHHの上半身(コミュニタリアン的思考)からの発言として捉えることができる。ただ、それは海外のリスナーに対しての発言であり、国内の状況に変化を与えるものとは言えない。また、前述の通り、リリックの一部は英語に訳されネット上にアップされている状況にあり、「実際、海外のリスナーは日本語を勉強せずとも、彼の世界にアクセス可能な状況にある」ため、海外のリスナーへの亀裂の生成についても失敗している。また、私はKOHHの「いま目の前にある現実への賛美」によって発せられた言葉は普遍性を獲得しているが故に、文脈(歴史と私性)が排除されているため亀裂を生み出す力が弱まってしまうと考えている。
このように、KOHHの言葉は上半身の困難を無視するかのようにグローバルな空間と自分に近い共同体の間を漂っている。ただ、ここで私性に立ち返っても、それはカウンターになるか、「バッドエンドへ一直線に伸びるルート」を進むしかない。では、そのようなKOHHを前にして私たちはただ呆然と立ち尽くすしかないのだろうか。
最後にこの問いについて考えるにあたって、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』に収められている『萌の手前、不能性に止まること―AIRについて』を参照する。
東はこの評論において、『AIR』という美少女ゲームについて論じているが、ヒロインである観鈴の死について次のように書いている。
私たちは、観鈴の死を前にして、強烈な不能感を感じる。それを「ダメ」の論理によって無自覚なまま全能感(萌え)へと変換するのではなく、その手前で、不能性について批評的思考を粘り強く巡らせてみること。「幸せと悲しみのすべてを目撃し、作品世界を生きた、プレイヤーの「記憶」の塊」を手渡していくこと、それはすなわち、この作品について批評的言説の連鎖を紡いでいくことである。
ここで語られている「ダメ」の論理とは、プレイヤーであるオタクたちが自分で自分のことを「ダメ」であると認識することと、「ダメ」であるが故に自分が父になるつもりはないし美少女に対する性的欲望も抑えられないという態度である。要するに、ヒロインの死に対し何もしてあげられない不能感から立ちすくむのでもなく、不能感から開き直り性的な妄想を膨らませるのでもない。その手前で、不能性について粘り強く思考するのが大事なのだと東は主張しているのだ。
そして、このことは今私たちが直面している日本語ラップの問題にも当てはまる。重要なのは死の一歩手前、反撃の連鎖の一歩手前で粘り強く思考することである。批評の連鎖を紡いでいくことが反撃という十字架を背負った日本語ラップを救うことであると私は考えている。
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