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ジャングルジムが公園からなくなった –変わりゆく遊ぶ子どもの“内なる自然”

地元の公園にあったジャングルジムがなくなった。自分が子どものころ遊んだ鉄のチューブでできたジャングルジムがなくなったのは自分が中高生のころだった。確かそのとき得た結論は「危ないから」だろう、であった。今もあの時と同様に、「なぜジャングルジムがなくなってしまったのだろうか」と考えれば、「危ないからだろう」という結論を得る。しかし、なぜジャングルジムがなくなったのかと再び考えるとき、わずかな苛立ちを私は覚える。

たしかにジャングルジムが危ないという直感はある。あの頃の公園にある遊具の中で一二を争う遊び場としてジャングルジムがあった。ジャングルジムは鉄のチューブでできている立方体を4段くらい積み重ねた形だ。また、ところどころ手すりのない空間があり、ジャングルジムの上段では足元がすくわれる感覚を体験した。そんな「危ない」ジャングルジムで私たちは遊んだ。加えて、地球儀を模したような球体のもっと「危ない」ジャングルジムが私の地元の公園にはあった。球体のジャングルジムは、中心の太い柱が地面に固定されていて、回転した。外側から球体のジャングルジムをグルグル回したり、友だちとジャングルジムの中やてっぺんでじっと回転をこらえたり、ときには球体のジャングルジムの手すりにつかまり球体のジャングルジムの回転に身を任せ、外側に飛ぶような感覚を得られる遊びをした。

しかし、いまやもう四角いジャングルジムも球体のジャングルジムも公園からなくなった。私はジャングルジムで遊んだことを思い出しながら、わずかだが確かな苛立ちを覚える。なぜなら、四角いジャングルジムも球体のジャングルジムも当時の大人たちが人工的に作り出した子どもの遊び場だからだ。わざわざ「危ない」遊具をつくったわけではないだろうと思う。一方で、当時の大人はどのような目的で四角い・球体のジャングルジムをつくったのだろうと想像する。私たちはその遊び場で思い切り遊んだ。私はジャングルジムという遊び場の体験を、人工の森で遊んだ、と思いこそする。だからこそ、ジャングルジムが公園からなくなったことに、確かな苛立ちを覚えるのである。

現在では、鉄のチューブでできた「危ない」ジャングルジムがないかわりにプラスチックや木材やチェーンでできた「ジャングルジム」が公園にある。現代の子どもたちは私たちとは違う遊び場で遊んでいることの必然性を考えるのは難しくない。大人が入れ替わり、公園や遊び場に対する考え方が変わり、実在する遊具が入れ替わるくらい時間が経ち、「ジャングルジム」のあり方が変わってしまったのである。しかし、東京消防庁の調査に寄れば、以外にも事故が多い遊具はジャングルジムよりも滑り台である。かつ、毎年約650名が遊具で遊んでいるときにあった事故で緊急搬送されている。また、あまり知られていないことだが遊具には対象年齢がある。これらの事実から、遊び場での遊び方や遊具の危険性を規定することは難しいことが予想出来る。

したがって、最初に得た「ジャングルジムは危ないからなくなった」という結論は、改めなければならないかもしれない。なぜなら、これまで見てきたように時代の変化とともにより安全で低年齢を対象にした遊具の設備を整えるという趣旨で鉄のチューブでできた四角いジャングルジムと球体のジャングルジムはなくなったからだ。

しかし一方で、全ての遊具が低年齢を対象にすることで安全性が確保されれば、子どもの身体の発達の場でもある公園で子どもの身体の発達は十分に果たすことができるのか疑問が残る。したがって私たち人間は、なぜ現代人はわざわざ整地され整備された遊具で子どもを遊ばせるのか。あるいは、いかにして現代の子どもは整備された遊具で生きるために必要な身体感覚を身につけているのかを、繰り返し問わなければならないのであろう。なぜなら、子どもの身体能力の発達は、人間にとって不可欠だからである。人類学者である河合雅雄は『子どもと自然』の中で私たちヒトを森の中で樹上生活者する霊長類の仲間だとした上で、こう指摘している。

われわれが緑を求め、緑がない所では心が落ち着かずいらいらし、緑の中でこそはじめて安心感に浸れるのは、遠い祖先から受け継いできた系統発生的な適応感覚によるものなのである。(・・・中略・・・)このように、進化史を通じて人類の存在の根本を形成している所特性を“内なる自然”と名付けよう。

河合はヒトが進化の過程で培った“内なる自然”が系統発生的な適応感覚によるとし、樹上生活や狩猟採集や道具を使うときに使う手の役割に注目しサルからヒトへの進化過程を考察している。

サル類が開拓した森林という新しい生息場所は、大変特殊な所だった。第一、陸上にありながら三次元の立体空間だということである。ここでサルの祖型は、樹上生活に対する様々な適応形態を発達させた。第一に枝をつかむことから、親指と他の指が向かい合い − 拇指対向性という – 物を自由につかむ指の能力が発達した。五本の指がバラバラに動き、手を自由に使う、道具使用と製作にかかわる基本体制ができあがった。

現在のヒトが持つ拇指対向性という手の特徴は、サルにも共通する形質である。したがって、拇指対向性はヒトがサルだったときに得た形質なのである。

現代人の遊び場に話を戻そう。考えてみれば、「ジャングルジム」とは言い得て妙である。ジャングルジムはジャングルのようなジムである。また、自然にある森林が陸上にありながら三次元の立体空間であるように、ジャングルジムは整地された平地にありながら三次元の立体空間である。しかし、現在、多くの公園に見られるプラスチックと木材でできた「ジャングルジム」は、鉄のパイプでできたジャングルジムのような三次元の立体空間ではない。それを証拠に、木登りのように枝につかまって高いところに登り、登ったときにつかまっていた枝の上に立つという経験が可能な遊具は現在の公園や「ジャングルジム」には用意されていないように見入受けられる。

ジャングルジムがない現在の公園で、ジャングルジムで遊んだ経験は私たちの“内なる自然”となって活かされているだろうかと考える。また、現代の「ジャングルジム」でヒトの子どもは、進化の過程で得た拇指対向性という手の特徴を十分に活かしながら遊ぶことはできでいるのだろうかと考える。言い換えれば、この二つの疑問は、四角い鉄のパイプでできたジャングルジムのない地元の公園で、私が「ジャングルジムがなくなった」と思うときの苛立ちである。

拇指対向性という手の特徴をふまえて公園や遊具で遊ぶ子どもを見れば、少なくない小・中学生が電子端末を見つめゲームに興じていることに目がとまる。大きなブロックの遊具や危なくないジャングルジムの上でゲームに興じる小・中学生を見ると、四角い鉄のパイプでできたジャングルジムが「危ない」のではなく「時代にそぐわない」ためになくなったのだという感慨を深めざるを得ない。なぜなら、私たちが小・中学生だった頃、同じように電子端末を見つめ親指をつかいゲームに興じていたからである。しかし、私たちの頃は、四角いジャングルジムにも登り、回転する球体のジャングルジムでも遊んだ。それに加え、公園の周囲にある樹木にも登った。そのことを思えば、現代の小・中高生の遊びにある問題は、自然と人工の境界になり得る「体験できる」遊び場の少なさにあるのではないかと思う。すなわち、ヒトがサルだったときに得た拇指対向性という手の特徴は、様々な道具をつかうためにあるのではなく、第一に枝をつかみ樹上や高い所に登るために発達したということを思い出さなければならない。

自然を「体験できる」遊び場は木登りを「体験できる」遊び場であるとするならば、かつてのジャングルジムはジャングルを「体験できる」遊び場だったと言えるだろう。物事の危険性や安全性が過度に問われる現代では、遊具や遊び場の危険性や安全性以上に、おそらく遊びの多様性が問われなければならないのである。そのことを考えるとき、私は「ジャングルジムがなくなった」というわずかな苛立ちから、未来を生きる人間が活かすべき拇指対向性という手の形質の行方を考えなければならないと思える。と同時に、四角い・球体のジャングルジムが整地された平地における遊具の完成形であるとすら思う。当時の大人はどのような目的や思いを持ってあのジャングルジムをつくったのだろうか。今や公園に「あのジャングルジムがなくなった」という確かな苛立ちは、ジャングルジムをつくった当時の大人たちやその目的に向けられる疑問に変わってしまった。いや、今ある「ジャングルジム」で遊ぶことで“内なる自然”を再体験している子どもが大人になったとき同じような苛立ちや疑問を持ち得るのだろうかという、新たな苛立ちを得たのかもしれない。
参考文献

  • 河合雅雄 1990『子どもと自然』岩波新書.

参考資料

 

文字数:3728

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