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セカイの限界を「こえ」る方法

一.まとわりつく「こえ」の憂鬱

 

 ただ中学で机を並べたというだけで無根拠な期待を一瞬抱きはしたものの心理的共感は引き出せず、帰り道を誘うも侮蔑的な拒絶に遭い意気阻喪して、忘れた宿題は軽蔑の身振りを示しながらも差し出す程度の憐憫の情を持ち合わせてくれてはいたが、いささかも恋心など芽生える気配もなく、消し屑を飛ばし詰られてからは、口を聞くこともなくなり、卒業以来、これからも死ぬまで会うこともない、筆者の人生に一片の意味も持たない存在であるのに、その「こえ」だけはいまだに鮮明に耳奥にまとわりついて離れないのはいったい何故なのか。想起と忘却との分断の稜線に一時執着した相貌もかすかな痕跡にまで弱まり往くばかりであるのに、驚くべき執着のなさで放置した音像が何故、今になっても妙に生々しい存在の気配を漂わせているのか。他人もそうなのかわからないが、自分にとっては、まったく人生の無駄にしか思えないこの聴覚記憶であるが、斯様にして人生の古層をまさぐってみると、とにかく「こえ」はまとわりつき、「かたち」のイメージはぼやけていくのがよくわかる。

 風化圧をことごとく無効化する「こえ」の奇妙な特性を蔵するアニメーション作品に、新海誠の『ほしのこえ』がある。オタク市場に過剰化していったあまり、今ではいちいち名指しもされなくなった「セカイ系」の最初期をかざる本作では、国連宇宙軍の艦隊が異星人と戦う2047年の世界が「きみとぼく」だけの描写で進行する。「きみ」の長峰美加子と「ぼく」の寺尾昇は中学の同級生で高校進学を前に美加子は国連軍に選抜されてトレーサーと呼ばれるロボットに搭乗し、はるか宇宙の彼方での戦闘へとかり出される運命を背負わされる。ここで宇宙と地上とに引き裂かれた美加子と昇の「こえ」を繋ぐ役割を果たし、作品上、最重要のモチーフにもなっているのが、携帯メールである。携帯メールが「こえ」とは、比喩ではなく、あの、どうしようもなく耳奥にまとわりつく過剰になまなましい「こえ」との等価なのである。

 「世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだ」と物語冒頭の美加子のセリフに定義される世界とは、まさに2002年の作品公開当時、携帯メール文化に耽溺した中高生らの軽快なテンキー打ちで手触りする世界にあっけらかんと連なっている。しかし、携帯電波が消尽するのがセカイのヘリ、限界であるとすると、これは言語の消尽するヘリが世界のヘリであると言った、前期ウィトゲンシュタインによる世界の語り方と形式を同じにしている。「語りうること」は論理で明瞭に語られねばならず、「語り得ぬもの」はイメージで示されねばならないという理念であるが、とは言っても、言語とイメージとで、語る方法があからさまに二分化する特異点がどこかにあるわけではなく、結局のところ「世界はぼけたヘリをもっている」と、ウィトゲンシュタインはうまくぼやかした。思考の限界を思考した前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の見方では、世界と言語は透明に向き合っており、これに照応させるならば、セカイと携帯電波が透明に向き合っている見方が、前期セカイ系だったのだと言えるだろう。

 

二.とおざかる「こえ」の異質

 

 美加子の参加するミッションは、次第に過酷さを増していき、作戦フィールドも、火星、木星、冥王星、太陽系外、遂には8.6光年離れたシリウス星系にまで及び、地球から遠ざかるにつれてメールのやりとりにかかる時間のひらきは、美加子と昇にとって絶望的となっていく。この遠ざかる「こえ」のモチーフは、クリストファー・ノーランによる本格SF映画『インターステラー』にも採用されており、そちらの方では、若い男女ではなく、父娘の間の離別が描かれるのであるが、見るものに感覚される離別の深化には一種の異質がもたらされている。何故異質なのか。それは「こえ」を運んでいる携帯電波がそのセカイの限界を規定しながらであるからで、天文学レベルの距離の大きさが理由ではない。同じ地上であっても異世界に決別し生きる者たちの距離の方が、離別の距離としてはより遠くに値する場合もあるだろう。しかし、もしそこに「こえ」を届かせるものがあったとしても、それは、異世界の境界をインターフェースする装置に過ぎず、それは世界内の制度としての存在でしかない。「こえ」を届かせることがセカイの限界に直結しているという感覚は、それとはまったく異質であって、「こえ」そのものも、常にあの耳奥にまとわりつく魔力的な「こえ」を想起させる。

 松本清張の短編小説に『声』という作品がある。新聞社の電話交換手がまちがって電話を繋いだ先が殺人現場で、偶然に犯人の声を聞いてしまうといった筋書きのミステリーだ。数百人の声を聞き分ける特殊ともいえる能力を持った電話交換手の高橋朝子は、あるきっかけから事件の鍵を握るのだが、真相を確かめようと行動しはじめたとたんに犯人らにあっさり殺されてしまう。その後の刑事たちの捜査による謎ときは、さほど興味深いというほどのものでもないだけに、この作品のサスペンスの妙味として、耳奥にまとわりつく犯人の「こえ」とそれに駆りたてられた朝子の行動の危うさが、鮮明な際立ちを見せている。本来であれば朝子が主人公で、彼女の異能に裏打ちされたキャラクター性がこの物語世界を駆動し、事件を解決へと向かわせてもよいはずであるが、あまりにあっさりと殺されてしまうところがラノベ的ヒロインとは一線を画している。であるが、通常の社会派ミステリーとしての現実性とも味付けが異なっていて、むしろ現実を越えた「こえ」そのものの持つ憑依的な魔力と、その生け贄としての朝子であったことの印象が深い。朝子の生け贄としての資質は、「こえ」の誤配を受けた電話交換手というマージナル性であり、この物語では朝子自身が異世界をインターフェースする装置となり、生け贄として世界の裂け目に呑み込まれていったのだ。

 『ほしのこえ』に話しを戻そう。美加子もまた戦闘美少女という資質を持った生け贄である。しかしこの資質は、斎藤環の指摘する戦闘美少女=ファリック・ガール(ペニスを持つ少女)とは様相を異にしていて、自分の望む人生を自由に生きられず、戦闘にかり出されていくという点で、より生け贄的である。オタクの欲望を反映した類型キャラとしての戦闘美少女が、物語に作用するメタ意識による産物であるとするならば、それはゲーム的リアリズムの一般化後の話しであって、言語ゲームを提唱した後期ウィトゲンシュタインになぞらえて言うならば、後期セカイ系に見られる光景とは、まとわりつき伝播する、メタの「こえ」に資するゲームの光景なのだ。それでは、後期セカイ系がメタ意識からの照射を縦横に受けているのだとすれば、前期セカイ系とメタ意識との関係はどうなっているのか。ことによっては、前期セカイ系こそが、セカイの限界域のぼやけたヘリの部分に温存された、意識以前の遠い、遠い、「こえ」と「かたち」とによって、メタ意識の覚醒を準備し、今日のセカイ系の横溢とライトノベルの隆盛を招いたのではあるまいか。

 

三.まじりあう「こえ」の復活

 

 3000年前の人類は、右脳に宿った神の「こえ」を左脳で聞いていたという仮説がある。ジュリアン・ジェインズの二分心仮説である。その頃の人類には通常われわれが持っている「意識」というものがなく、「こえ」で造形した神の似姿として、パーソナルな意識というものが後から生まれたという仮説だ。意識の誕生とともに神は右脳から追い出されて、外在する神の概念が作られていき、文字の誕生とともに意識の外在化もはじまり、人類の生みだすすべての文化がここに連なっていく。前期セカイ系の遠ざかる「こえ」では、その「こえ」を届かせるセカイの限界域において、「こえ」と「かたち」がまじりあって造形された透明な似姿が、キャラ造形のメタ意識を誕生させたではないか。もちろん『ほしのこえ』が後期セカイ系を包括したすべての起点であるわけではないし、そう言いたいのでもない。“前期”と言っているのは、歴史的な前後関係を正確に示しているのではなく、後期を準備した前期ウィトゲンシュタインの方法的な試みになぞらえてのものだったことを強調しておく。その方法的な試みとは、言語あるいは「こえ」の消尽する限界域から世界あるいはセカイに切り込むという試みである。二分心を復活させる試みであるとも言えるだろう。前期セカイ系以来、物語が閉塞しているのだとしたら、それは方法と魔力が足りないからである。

 

註記:蓮實重彦氏の『表層批評宣言』を模倣元として使用しました

文字数:3535

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