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批評の正念場

 2016年2月、前衛舞踏のレジェンドとして古希を越えて今なお、精力的に新作を発表しつづけている笠井叡のもとに第47回(2015年度)舞踊批評家協会賞の受賞決定通知が届けられた。笠井は受賞の辞退を即座に自身のブログで表明(※1)、舞踊批評の現状に強烈なダメ出しを喰らわせた。「このような授賞理由を恥ずかしげもなく、メディアに向かって公開するという貴協会のセンスには、ただただ、呆れるばかりです」と。

 舞踊界という小さな孤島を揺るがせたこの一件は、蓮見重彦が三島由紀夫賞受賞を「はた迷惑」といい放ったことともからめられて、この6月には「舞踊会でも受賞辞退騒動」と毎日新聞紙上に取り上げられた(※2)。事の顛末が報じられたため、一般の人々の耳目もそれなりに集めることとなったようだ。しかし「受賞辞退騒動」とひとくくりにされても蓮見の会見は、いわゆる蓮見節をパフォーマンスして見せたまでで、そもそも受賞を辞退する気すらない。作家とダンサーへのリスペクトと批評性とを欠いたその「授賞理由」を「受け入れることは到底、出来ません」と、きっぱり拒否した笠井にしても「私が心から望むのは貴協会が、舞踊批評の根底に立ち戻り、真に日本の舞踊発展に寄与することです」とブログに書いたように、その真意は賞そのものへの抵抗にはなく、批評再生への願いにある。レジェンドでなくとも批評のていたらくを言うのはたやすいことだ。機能しなくなって久しい舞踊批評を再生して欲しいと願う笠井の存在を、舞踊批評界は僥倖と受けとめなくてはいけない。笠井は言う。「一つ一つの批評そのものが、時代の正念場であることを、明かしていかなければならない」と。

 「批評」という言葉そのものが消えつつあるこの時代、「批評」こそが正念場に立たされている。果たして批評は再生可能なのだろうか? 舞踊界のように小さな島でも、そこに批評の旗をまだ掲げ続けている者がいる限り、その生態系の中で育まれるものもあるだろう。しかし生態系も絶えてしまった大地からは、「批評家」がまず、立ち上がるのを待つしかない。第一期ゲンロン批評再生塾は、孤立した、あるいは閉じられた「生態系」とはまた別に、多様なジャンル間の越境性へ開かれた系として「批評家」を育み、世に送り出していった。第一歩は刻まれたが、再生への道はまだこれからなのだ。

 批評は「批評」という言葉自体が再生、反復の意味を含み持つ。そして「授賞」もまた、再生、反復の儀式である。ならば「批評」を「再生する」とは本来的には一体、何を再生していることになるのだろうか? 第一期ゲンロン批評再生塾最優秀賞の吉田雅史は如何なる存在として、批評を再生していくのか? それらの問いは、吉田の「漏出するリアル ~KOHHのオントロジー~」で論じられた問題系とも重なる部分がある。1970年代ニューヨークで誕生したヒップホップに連なる生態系から時空を移して、日本語ラップという表現は可能なのだろうか? 「リアル」とは本来的には一体、何をリアルしているのか? KOHHは如何なる存在として、日本語ラップを表現者していくのか? 批評することを再生するのも、ラップすることをリアルするのも、それぞれに作品、現実との同義反復的な対峙の運動が見いだされる。作品と批評家との、現実とラッパーとのトートロジカルな界面を視座とすることで、ラッパーKOHHと批評再生者としての吉田のオントロジーが改めて浮かび上がってくるはずである。

 ではここで吉田の「リアル論」から振り返ってみよう。まず「リアル」とは、「ヒップホップがブルースから継承した「悲哀」と「反撃」を作品に描き出し、それを描き出す態度にアーティスト自身が忠実であるかを測る鍵概念」ということだ。アメリカでのラップ生誕の背景と、その周辺環境、さらには市場環境から、ストリートの「リアル」、すなわち「バッドエンド以外のルートは存在しえない死からの逃走劇」と、その往く果ての死とが「類型化した物語」として消費されてゆく構造を示した上で、そのようなマスの現実に対して、個々に寄り添ったパーソナルな現実にフォーカスするために、バタイユによる「不確実な現実」と「推論的な現実」という指標を導入し「類型化された物語の中の死」の意味を探っていく。これが論のおおまかな流れだった。「不確実」か「推論的」かということを規範的(バタイユによる「推論的現実」の非難)に適用し、2パックやノトーリアスB.I.G.ら、ラップ界のレジェンドたちの「生き方としての死」を再度、マスへ引き取ることで「シミュラークルとしての死」が群衆のパーソナルな意識にもたらされる。このようにマスとパーソナルの相互陥入で描き出す「リアル」は、論として読ませるものだが、これは最終講評会でも指摘を受けていたように、鍵となる「リアル」の概念に対して二つの鍵穴の一方である「悲哀」がどういったものなのかが示されず、特にこの箇所では規範的な運びも作用してか、「リアル」に「悲哀」のイメージが見いだしにくくもあった。「悲哀」が「リアル」と不可分であるとして読み取るならば、「しかし2パックやノトーリアスB.I.G.たちが選択せざるをえなかったのはバッドエンドへの確定ルートであり、状況に強いられながらもどこか能動的にそれを選択する態度の背景に「合理的な現実」を見出すことができない」と吉田が書くように、ここに、自ら選択し、失敗する者の悲哀が感じられなくもない。もちろんこれは、吉田の言いたかった「悲哀」とはかけ離れているだろう。しかしここでは、“「合理的な現実」(これは「推論的現実」を指している)に見合わない”/“「不確実な現実」と重なり合うか”、といった規範のロジックを選択するよりも、レジェンドたちのパーソナルなリアルから、その残響としての「悲哀」が広がり、マスに引き取られていくといった連鎖のイメージを選択した方が、「悲哀」そのものをここで際だたせたかもしれない。というのもレジェンドたちの「生き方としての死」「シュミラークルとしての死」は、もはや類型というよりも元型としてのイメージ再生の連鎖であり、人々のリアルを侵犯しつづけているようにも思えるからだ。たとえそれがレディメイド性のイメージであってもだ。吉田も次のように明かしている。「そしてKOHHは、常にこのシュミラークルとしての死に寄り添っている存在である」と。

 日本語ラップのリアルとKOHHのオントロジーへと吉田の論はいよいよ、突き進む。KOHHのラップは韻を踏まない。リリックには背景が無い、文脈が無い。まさにないない尽くしなのだ。ただただ、目の前に林立する光景をカメラアイが切り取るばかりだと言うのだ。もちろんこれまでの日本語ラップには押韻への礼節にのっぴきならないものがあった。それでもKOHHの場合は、韻を踏まない、というよりも省みない。つまり自分を省みないから韻を踏んだか、踏んでいないかに拘泥しないのだと。ここでの吉田の分析にはKOHHの現象をとらえるパフォーマーらしい視点が活きている。刹那的かとも思える現象だが、そうでもない。KOHHとスタイル的には対極とも思えるアーティスト「志人」のリリックと対置して見せられたとき、何かその両者に通底するものが感じられたからだ。

 志人もまた特異なアーティストである。神道における神楽歌、仏教における声明などによるハイブリッドな語りが流れるフロウと、執拗な押韻とが特徴といわれている。日本語ラッパーとして脚光を浴びながらも東京に流されないため、「死を意識しながら、感性を鋭くする」ために、京都で山師/木こりとして生活している。リリックといい、その「リアル」といい、志人には「寂寞」のようなものを感じた。KOHHのないない尽くしに筆者が感じたのも「寂寞」である。吉田は日本語ラップは常に「悲哀」を欠いていたと喝破する。そしてKOHHと志人の特異性は、「悲哀」を欠いた日本語ラップから、さらに「私性」を持ち去ったところにあると。つまり「私性」を持たないことを「リアル」と標榜することが、彼らのラップなのだと。はたと膝を打った。「私性」を持ち去った先の「寂寞」という残響を筆者は聴いていたのかもしれない。

 私は去った。

 そして私はいつかこの世を去る。

この残響としての「寂寞」と「悲哀」は遠いようで似ている。どちらもオンティッシュな私を棄却するところからオントロジーが立ち上がるからだ。KOHHとレジェンドたちが並び立つ地平がここから拡がるかもしれない。

 以上、吉田が画期して見せた日本語ラップ批評を批評、再生(というよりほとんどリプレイなのだが)する試みで、わずかだが別の視点で違う相貌も見いだせたのかもしれない。第一期批評再生塾の成果=吉田雅史の最優秀賞受賞の意味は、単に新人批評家がデビューするということではなく、時代の正念場を明かす批評家の再生にあり、第二期もそこに邁進するということをこの胸に刻んで、本稿をしめくくろう。

(敬称略)

※1 「第47回舞踊批評家協会賞辞退について」 akirakasai.com

  http://www.akirakasai.com/jp/2016/02/?cat=4

※2 舞踊会でも「受賞辞退」騒動 背景に発信手段の違い 笠井叡「授賞理由に敬意感じられない」 毎日新聞 2016年6月6日 東京夕刊

  http://mainichi.jp/articles/20160606/dde/018/040/013000c

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