魂、名前のありか
「私たちはいま、混迷を極め、先行きの見えない「不安の時代」を生きています」。『生き方』と題された稲盛和夫の著書は、この一文から始まります(p.13)。1959年に精密機器メーカーの京セラを立ち上げ、日本経済をけん引してきた稲盛の言葉は、2004年に初版されてから今に至るまで数多くの読者に支持されてきました。『生き方』では、「不安の時代」を前にして戸惑う人々に向かって、ひとつの問いと答えが投げかけられています。「人は何のために生きるのか」。その問いに答えられるだけの確かな指針を失った私たちは、豊かなのに物足りず、自由なのに閉塞感を拭いきれずにいます。そんな問いに対する稲盛氏の答えは、「魂を磨くため」でした。この世で得た財産や名声は、死んだときにすべて意味を失ってしまいます。しかし、魂だけは唯一あの世に携えていくことができる。だからこそ、現実に降りかかる様々な試練を磨き砂として、魂を美しく磨き、より高次な魂を抱いてこの世を去ることが重要だと稲盛は説きます。
提示された「魂を研磨せよ」というスローガンは非常にシンプルです。だからこそ私は、自分の胸の内に湧きあがる、同じように単純なもうひとつの問いを無視することができません。それは「魂とは何なのか」という問いです。「あの世に金は持っていけない」のはわかります。しかし、魂が世に引き継がれると自信を持って言うことは、恐らく誰にもできません。魂の正体を誰も知らない。自分が持っているのかどうかもわからない。「ひたすら磨け」というスローガンは私を勇気づけてくれるけれど、ふとその弱く脆い部分のことを考えてしまいます。そんなとき、自分がとてつもなく大きな空虚のなかにいるような気がして、恐ろしくなるのです。もしかしたら、私と同じような問いを抱いたことがある人もいるかもしれません。本稿では、「魂」を巡る二つの物語を通して、私なりの「生き方」に紐づく答えを導き出したいと思います。
私たちは魂を知覚することができません。しかし、「魂」と呼ばれてきたものは古来から、例えば劇場にありました。
東京の江戸座、京都の祇園座、大阪の蓮華座に並ぶ四大小屋のひとつ「世界座」。琵琶湖に浮かぶその巨大な船舞台で、年に一度の顔見世興行が始まろうとしている……。小林恭二の小説『カブキの日』は、テレビもコンピューターもある時代になお絶大な人気を集める「カブキ」の世界を、強い憧れを抱いてやってきた少女・蕪(かぶら)の視点から描いています。蕪は月彦という少年に連れられ、世界座を探検します。やがて、陰謀渦巻くカブキの世界が危機に陥ったとき、蕪は意図せずその中心に舞い降りることになります。
作中で常にカタカナで書かれているように、「カブキ」は私たちのよく知る歌舞伎と装いをほとんど同じくしながらも、ところどころが過剰に描写された異なる芸術だと捉えることができます。あるいは、「芸術とは何か」という壮大なテーマに答えるためにあえてカタカナで書かれているとも言えるでしょう。実際、作中ではカブキ界を代表する役者たちの周囲で「芸の核心」を巡る言説が何度も交わされます。なかでもひと際大きな意味を持つのが、カブキ界を牛耳る女形役者・水木あやめの弟子鳳五郎の襲名披露口上の場面です。市川團十郎、尾上菊五郎、松本幸四郎といった看板役者が一堂に会し、観客は「成田屋」「音羽屋」という掛け声とともに熱狂的な拍手で役者たちを迎えます。そこで賛美されるのは役者個人の存在ではありません。「人々が熱狂するのは、偉大な魂が受け継がれてきたという、まさにその事実に対してなのだ」(p.153)。カブキの観客は、舞台上で継承されてきた「名前」にこそ魂を見出してきたということが端的に示されています。なので、作品のもうひとりの主人公であるたたき上げの役者・坂東京右衛門は、客席から浴びせられる冷ややかな目と戦いながら、芸とは個人の資質にあると口上を述べ、周囲の反発を買います。
「魂とは受け継がれる名前である」。たしかに、これは頷ける答えです。カブキのように同じ名前を引き継ぐという儀式は、家門が発生した過去から現在までを貫く、超時代的な魂の存在を私たちに信じさせます。たとえ伝統芸能に携わる人でなくとも、偉大な人物を指して「あの人はある分野で名を残した」と評されることがあるでしょう。観客にとって、あるいは歴史家にとって、名前は魂として機能していると言えます。
しかし、これでは「魂とはなにか」という問いの一部にしか解答を示せていません。私たちは自分自身に宿る魂の正体を明らかにする必要があります。観客や歴史家は、常に自己の外にいる人々です。単純に言いかえれば、私たちは他人の視点に限ってしか、継承される名前が持つインパクトを受け取ることができないのです。ならば、自分で認知できる名前の力は存在しないのか。それに対するヒントを、名前が大きな役割を担う映画『君の名は。』を論じた谷美里の論考に求めてみましょう。
谷は哲学の領域で語られてきた「名前」の意味を、「記述の訂正可能性の付随」にまとめています(p.145)。名前には、その人の性質を表す記述がついてまわりますが、同時にその記述は語り手や受け手によっていつでも変更されうるものです。たとえば、人が自らの名前を他人に教えるときは、自らの記述に介入する重大な権利を与えていることになります。卑近な言葉に直せば、自分を指す「イメージ」を他人に委ねている状態です。逆に、他人の名前を知らないということは、その人の記述を訂正する機会を失っているということです。谷は、作中の人物による「名前の忘却」を「封印」と読み替えました。名前を忘れることで、その人の魂を触れることのできない領域に封印してしまう。それだけの力が名前にはあり、物語において重要な役割を果たしているのです。
それでは、自分が自分の名前を知っていることには一体どんな意味があるのか。それは当たり前のようで、突然失われかねない前提かもしれません。もうひとつの作品、宮崎駿による映画『千と千尋の神隠し』について考えてみたいと思います。
主人公の少女・荻野千尋はある日、「八百万の神々」の世界に迷い込みます。そこで生き延びていくために、千尋は湯屋を経営する魔女・湯婆婆に、湯屋で働かせてほしいと頼むことになります。そこで湯婆婆は、千尋から名前の一部を剥奪し、「千」という名前で暮らすことを命じます。あるとき千は、同じく湯屋で働くハクと名乗る少年に教えられ、自らの本当の名前が千尋であり、その事実さえ忘れていたことに気づきます。それは「名前を奪われると人間の世界への帰り道を忘れてしまう」という湯婆婆の魔法だったのです。以降、千は千尋という本名を胸に刻んだまま、今度はハクの本名を探すことになります。
『千と千尋の神隠し』の物語を、谷の考察を土台に読んでみましょう。千尋は神々の世界で生きていくために、新しい名を与えられました。しかし、それは過去の名前の忘却とセットであり、千尋という名前の訂正可能性の封印と同義でした。ハクの手助けを経て、千尋は「千と千尋」という二人の自分の存在を思い出し、その自覚とともに暮らします。この世界では湯婆婆らが使う魔法が非常に大きな力を持ち、湯屋で働く人々もその影響下にあります。そのなかで千尋はひとり、魔法の影響から離れた存在として特異な動きを見せることになります。皆が湯婆婆に名前を奪われ、そのことに気づかないなか、千尋は名前を知っていることで自らの「記述の訂正可能性」を保持することに成功したのでした。それはつまり、自分の性質を決める力を自分に引き寄せたということです。
魂は名前とともに語られます。自分の魂について語ることができるかは、自分の本当の名前を知っているかにかかっています。それでは、自分の本当の名前とは何なのでしょうか。至極当然ながら、私たちは自分の名前を知っています。千尋は異世界に迷い込み、自らの名前を失わないことで生き延びました。「自分の本当の名前=魂の正体」を知るとはどういうことか。最後に、『カブキの日』の蕪がいたった結末を通して考えたいと思います。
『カブキの日』と『千と千尋の神隠し』は、構造がよく似た物語です。ともにきらびやかな巨大建造物を舞台とし、少女が少年の導きを得てその内部を探検して、やがて建物=世界そのものの特異点となっていきます。特に複雑な世界座の楽屋三階は、筒井康隆いわく「日本人の無意識世界」とも言える空間で、それは豊穣をもたらす川の神から空虚の象徴であるカオナシまでが集う湯屋と多分に重なります。世界座に集積する妖しくグロテスクな内側をその名以外で表したのが、死神という人物の言葉です。
「いいかい。勘のいいお嬢さん。何にだって表と裏がある。カブキの表は舞台だ。裏は楽屋だ。しかしそれだけじゃあない。楽屋にだって表と裏がある。つまり旦那衆がおすまいになる一階と二階、こいつは表だ。名題下や裏方が住みついている三階は裏さ。しかし三階にだって表と裏がある。[……]その裏のどん詰まりはいつだって表のどん詰まりにつながっているのさ」(p.216)
世界座の三階は、老若男女が集まる陽気な広場があるかと思えば、いきなり麻薬に身を浸した連中の巣窟が連なっており、不気味に無表情なアニメキャラクターたちが描かれた襖絵を通り過ぎれば、そこには何の変哲もないコンビニ(ファミリーマート)があるという捉えどころのない怪奇空間です。それらは表と裏が複雑に入り組み、「その境界線が一瞬ごとに変化」する極めて特殊な環境ですが、死神の言うようにやがては最奥の「どん詰まり」に行き着きます。それは鬼門と呼ばれる出口で、死者しか通ることを許されていません。蕪と月彦がそこを突破するために選んだ方法は、門番にカブキの躍りを披露することでした。門番に認められた二人が飛び込んだ出口は、世界座の舞台――カブキにとっての「表のどん詰まり」につながっていました。
蕪と月彦が鬼門を通ることができたのは、なぜなのか。二人の舞いを見た死神が、舞台から引きずり降ろされそうになっていた坂東京右衛門に語ります。「カブキの本質とは、死の匂いを嗅がせることにあるのさ」。人間が絶対に知ることのできない「死」を、演じることで受容したいという欲望。それに従うことがカブキ役者の核であり、芸の本質ではないか。蕪と月彦は、死神に促され、世界座の表舞台に立ちます。その役柄は出雲阿国と名古屋山三郎、すなわちカブキの創始者たちの躍りでした。つまり、蕪たちは世界座の探検を経て、カブキ界最大の「名前」を継承したのです。同時にそれが彼女らの「本当の名前」でもありました。カブキの芸としての死が、どんな現実をも上回って観客たちを魅了する。蕪は「ただそれだけのために自分はこの世に現れたんだ」と悟ります。ここまでの話のように言い表すなら、自らの新たな記述の訂正可能性を、世界座巡りによって自ら発見することこそ、『カブキの日』の物語でした。魂とも呼べる拠りどころを、自分の手で新しく確立したのです。
千尋が元々持っていた名前を思い出し手放さなかった一方で、蕪は未知の世界から新しい名前を導き出しました。共通の構造を持ちながら、名前の「想起」と「発見」という対照的な結末を迎えた二つの物語は大切なことを語っているように思います。私たちは人生の意味を問いなおすたびに、名前を失わないこと、そして信じられる新たな名前を見つけることで、「磨くべき魂」を再確認するのです。
*参考文献
稲盛和夫『生き方』サンマーク出版、2004年
小林恭二『カブキの日』講談社、1998年
宮崎駿『千と千尋の神隠し』スタジオジブリ、2001年
谷美里「君の名は、封印。」エクリヲ Vol.5、2016年
筒井康隆「第11回三島由紀夫賞選評」新潮社、http://www.shinchosha.co.jp/prizes/mishimasho/11/
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