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未知なる子どもたちについて

まずは、現代がいかなる時代かを設定しなければならない。ここでは、アメリカ合衆国第44代大統領バラク・オバマの言葉を手がかりにしてみよう。いかにもな人選に筆者の怠惰を疑う向きもあるだろうが、下記の発言には意外にも普通の、わたしたちを代表する現代の課題が表されている。MIT所長の伊藤穰一との対談から引用する。

このテクノロジーをどう運用するのか、社会全体での議論が欠かせない。[……]生産性はかつてないほどに高いのにその恩恵がほんの一部のトップにしかいきわたらないいまのような事態をどう回避するのか? すべての人がきちんと収入を得ることができるようにするにはどうすべきなのか? そのような社会において、アートや文化、あるいは老人を支援することは、どういう意味をもつのか?

語っているのは紛れもなく人工知能についてのことだ。特にわたしたちは、最後の一文に注目しなければならない。これは、人工知能にも絵や小説が書けるようになるのだから、人間が行うアートに税金を投じる必要はない、という種の意見に対する一政治家としての談義ではない。人工知能という存在を通してわたしたちは、芸術について考えなければならない。技術の問題ではなく、読者の問題として。

今年11月14日に放送されたテレビ番組「終わらない人 宮崎駿」で、宮崎はある映像を批判した。それは、人間の身体を模したCGモデルを、人工知能による学習機能で歩かせた動画だった。「速く移動しろ」と指示されたプログラムは、実際の人間が持っている痛覚を無視し、CGモデルの頭を四肢と同じように用いて画面上を移動する。宮崎はそれに対し、「身体障害を持つ友人を思い出す。面白いと思って観ることはできない」「生命に対する侮辱を感じる」と強い言葉で不快感を示した。もちろん宮崎の反応は、自分の仕事の領域に重なるものではないというアニメーション作家としての判断が根底にあるだろう。だが、人間が想定しなかった映像や能力への拒否反応として宮崎の発言を見ると、そこにはわたしたちの社会に広く共有されている感情を垣間見ることができる。たとえば、今年3月に囲碁のAIプログラム「アルファ碁」と韓国の棋士が対戦したとき、新聞は驚きを持ってその結果を報じた。先に3勝を収めたアルファ碁に対しようやく棋士が1勝を挙げたことに「ホッと胸をなでおろした」という各紙のコラムは、少なくない人々の声を代弁していただろう。見る者を不安にさせるCGモデルの奇妙な動きを一蹴する宮崎の姿もまた、わたしたちを安心させる効用をもつ。人工知能という未知の存在に対する恐れ。わたしたちは技術を使役するプレイヤーではなく受け取る者として、未知なるものに対する容易に払拭できない感情を抱えている。

ここで、『わが星』という演劇作品について考えてみよう。『わが星』は劇作家・柴幸男による戯曲で、劇団ままごとによって2009年に初演された。家族から「ちーちゃん」と呼ばれる、日本の団地に住む女の子の一生が描かれる本作には、観る人に独特の遠近感を感じさせる仕掛けがある。それは作品のどこかで、ちーちゃんの人生が地球の一生であることに気づくからだ。「月ちゃん」という友だちと出会い(お近づきのしるしに、ちーちゃんはお菓子の「アポロ」をあげる)、離れていき、やがて膨張する太陽に呑みこまれていく。だが、決して惑星の誕生から消滅までをなぞればおしまいというプロットではない。団地で過ぎてゆく女の子と家族の日常も、地球の100億年も、両者は互いのシーンのなかに流れこみ、同じように語られる等価の時間軸である。『わが星』は初演以来、ままごとによる2015年の再々演をはじめ多くの劇団によって上演されてきた人気の戯曲だ。人の一生が星の一生であり、逆もまた然り、という「遠くに見えて実は隣にいた」驚きと安心のような読後感が、支持されている理由のひとつだと筆者は思う。

ところで、『わが星』にはちーちゃんと周囲の家族や友人というグループとは別の、「男の子」と「先生」という二人組が登場する。実は、彼らこそが本作の独特の遠近感を実現する重要な役割を担っていると考えている。議論を急げば、彼らの役割について考えることは、先ほど提起された「わたしたちと未知なるものとの関係」について考えることでもある。どういうことだろうか。

望遠鏡をつかって学校の屋上から星を見る男の子と、それを注意する先生。二人のやりとりは、ちーちゃんらと交わることはない。なぜなら、ちーちゃん(地球)から1万光年離れた別の星で、1万年後に交わされたやりとりだからだ。男の子は太陽系の輝きに見とれ、先生はそれがどれだけ離れた星の、どれだけ昔の光を見ているかを教える。やがて男の子は「この目であの星を見てみたい」という願いを抱き、先生はひとつの方法を伝授する。流星にのり、光速を超え、星から星へ飛ぶこと。星の引力を利用するスイングバイにより加速する男の子はいつの間にか、坂道を自転車で下りどこまでも加速していく夏休みの一瞬のうちにいる。やがてちーちゃんが終わりを迎えるとき、男の子は辿りつく。

作中で最もダイナミックなこのシーンの前に、先生は男の子に忠告している。「たとえ光速を超えたとしても、決して星を救うことはできない」「私達にそんな力はない、私達はただ見守ることしかできない」。男の子はそれでも行くとうなずく。もし本作が消えゆく運命にある星を助けに行く物語であったなら、受けとめられ方はまったく異なっただろう。彼はあくまで観測者である。男の子とちーちゃんは互いを欲するのではなく、ただ遠くから見守り、見守られる。その関係は恋人と恋人ではなく、親と子どもに近い。たとえば作品の序盤、ちーちゃんと母の「これ、あたしが生まれるとき?」「そうよ」というやりとりがある。これと対照的に、「これ、あたしが死んでくとき?」「そう」という会話が、終盤でちーちゃんと男の子の間に交わされる。若くして亡くなる親を除いて、親は子が生まれたときを知っているが、子が死んでいくときを知らない。だが、寿命を迎えた星を看取るのが観測者=男の子ならば、ちーちゃんと母との関係とは異なる、もうひとつの親子関係とも言えるものがそこにある。

男の子とちーちゃんの「観測する親」と「見られる子」という関係性は、より大きなテーマにも成り立たせることができる。先日、筆者が近所を歩いているとき、ある親子が通りがかった。6歳だという子どもに父親らしき人が聞いた。「6の次は?」子どもは「5」と答えた。「7じゃないの?」と父親が返した。筆者が聞いていた会話はそこまでで、前後の文脈もわからない。だが、切り取られたこのやりとりにあえて注目してみれば、6の次は7だと当たり前のように思っていたことが不思議に思えてくる。親は子どもを見ているとき、ふと自らが積み上げてきた常識から外れた世界を垣間見る。そのとき子どもを「常識をまだ知らない未熟な大人」として見ることもできるが、同時に自分について、当然だと信じてきたことは作られたものだったと自覚することができる。後者の体験こそ、観測者としての親にとって重要な場面である。あるいは、歴史についても考えてみよう。人類学者のレヴィ=ストロースは、進歩を前提としていた「歴史」という西洋的思考の、主観性への無自覚を批判した。それを言いかえてみれば、「親」が無自覚に享受していた西洋文明を、未開文明=「子」の観測を通して疑ってみようという試みに他ならない。親は子を見て初めて、「自分もかつては子どもだった」と思いだすことができる。

そして、子どもは芸術でもある。演出家・鈴木忠志は東浩紀との対談のなかで、芸術と芸能の違いについて述べている。共同体を維持するためには抑圧が生まれる。そこで生じるストレスを解消するために求められるのが芸人であり、芸人が行うのが芸能だという。芸能は共同体をまとめ、利益をもたらすためにある。芸術はそれと「根本的にちがう」もので、共同体の外から他者の視点をもたらすものである。ここにこれまでの議論を流入させるならば、共同体を形成する親たちをハッと立ち止まらせる存在が芸術=子どもだ。逆に、親たちに必要とされ、利益をもたらす芸人たちは言うなれば「子役」のようなものだろう。大人に使役される子役が結ぶ関係は、「大人と子ども」であって「親と子」ではない。子を観測するのが親であるからこそ、親は自らの親との関係、つまり一世代前の親子関係に思いを巡らせることが可能になる。目の前にある世代差よりももっと大きな時間の流れを導入することこそ、観測者=親と観測対象=子のあいだに生じる関係の結果であり、『わが星』で試みられた遠近感の変節であった。

最初の話題に戻ってきた。2010年代、人工知能の進歩を前提とした社会の到来。わたしたちは「未知なるものを恐れること」をやめることができない。しかし、2012年にグーグルが発表した1枚の画像を見てみよう。ディープ・ラーニングという人工知能の画期的な学習法を世に知らしめたその実験結果は極めて単純なものである。ぼんやりと、輪郭のはっきりしない猫のような動物の顔の画像。それは、ユーチューブから抽出された大量のイメージを人工知能に学習させ、わたしたちが猫と呼ぶ一群の生き物のイメージを自力で発見させることに成功したものだった。画像認識の手法を通して、機械も人間のように自力で学習できることが証明されたのだ。しかし、これは人工知能が猫という概念を理解したわけでは決してない。あくまで人間が、そのイメージと「猫」という存在を結びつけて教えなければ、人工知能は永遠にイメージの正体を知ることができない。この例は、まるで世界のことを何も知らない子どもを見ているようではないか。わたしたちが恐れている最先端技術は、いま、わたしたちの子どもたちとよく似た姿をしている。彼らについて考えることはすなわち、子どもについて、そしてかつて子どもだった自分について考えることに等しい。

 

 

参照文献

「バラク・オバマが伊藤穰一に語った未来への希望と懸念すべきいくつかのこと」http://wired.jp/special/2016/barack-obama/

DVD「わが星『OUR PLANET』」(2011)

「ままごと戯曲公開プロジェクト」http://www.mamagoto.org/drama.html

「演劇、暴力、国家」(「ゲンロン1」2015)

「猫を認識できるgoogleの巨大頭脳」http://wired.jp/2012/07/06/google-recognizes-kittens/

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