半音のあいだの宇宙
1.
アメリカ、朝鮮、ベトナム。共同体を南北に分断するためには、間に線を引かなければならない。後世において南北戦争と呼ばれる事件は常に、南北の境界線を消しては引き直す作業のことを指す。
朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた1953年7月27日。いまや軍事境界線の目安として知られる北緯38度線だが、それもまた消されて再び引き直された線だった。第二次世界大戦終結時、アメリカとソ連が朝鮮半島を二分するために初めて用いたが、武力による国家の統一を目指す北朝鮮と韓国は境界線を乗り越え、1950年に戦争が始まった。他国の支援を受けながら繰り広げられた代理戦争と化していくなかで、その間に休戦を模索する会議も断続的に行われた。戦争の終盤には、狙いは敵国を征服することではなく、少しでも境界線を押し広げることへと移っていく。ずるずると延期される休戦会議とともに、一進一退する軍事境界線上では夥しい数の犠牲が出た。結果として当初と同じ北緯38度線の付近に落ち着いた境界線では、いまも両軍が監視所を置き、プロパガンダ放送が流されている。
共同体をひとつにする試みから、南と北に分けるための作業へと移り変わった朝鮮戦争。休戦が実行される瞬間まで、38度線付近は二項対立という思考が抱える矛盾が具現化された空間だった。地上のすべてを陸と海のふたつに分けてしまったら、海辺はどちらに含まれるのか。境界線上の攻防には、さらわれる砂粒のひとつひとつを分類せんとするような盲目さがある。単純化できない現実を抱えたまま、問題を人工的に単純化しようとすること。わたしたちはそれ自体を南北問題と呼ぶことができるだろう。
2.
ロームシアター京都、2016年9月24日。舞台の上は真っ暗だが、目を凝らすとどこまでも黒に近い青色が揺らめいている。舞台袖から、演奏者があらわれた。ピアノのまえに腰かけると、そこがほのかに赤く照らされる。ゆっくりと、ひとつだけ鍵盤を叩く。生じた音は波のようなうねりとなって観客の耳まで届く。ホールに響きが吸い込まれるまで、ピアノの音って揺れるんだ、とぼんやり考える。繰り返される打鍵。だが、そこには違和感がある。水平線をまっすぐに捉えた写真の、わずかな傾きを感じたような、一度聞いただけでは聞きまちがいだと見過ごしてしまうような。その違和感を受け入れていくうちに、だんだんと観客のなかで見たこともないイメージが形作られていく。
ピアニスト・寒川晶子による演奏会のアフタートークで、小沼純一が発した「これは音楽なのか」という問いかけは、ほとんどの観客に共有されていただろう。寒川が2010年に発案した「ド音ピアノ」は、観客各々の耳に慣れ親しんだ音楽とはまるで異なる音を発していた。
平均律のために製造された一般的なグランドピアノに備わる88個の鍵盤は、調律師によってすべて異なる周波数の音を割り当てられる。左から49個目のラの鍵が440Hzだとすれば、最低音である一番左のラの鍵は27.5Hz、最高音である一番右のドの鍵は4186.01Hzとなる。これは理論上の数字であり、基準となるラの鍵が多少前後して調律される場合もあるが、鍵盤全体の音程の幅は変わらない。だが、寒川のために調律されたド音ピアノはその限りではなく、88個どの鍵盤を叩いてもドの音しか鳴らないようになっている。より細かく言えば、通常はドから1オクターブ高いドの音まで周波数が二倍になるよう調律されている白鍵と黒鍵12個の組み合わせが、すべてドとその半音高いド♯の間に収まるよう構成されている。つまり、ド音ピアノの鍵盤上には基準となるオクターブ違いのドの鍵が7つあり、それに連なる12個ずつの鍵盤にそれぞれド♯の間を12分割した音が割り当てられているのだ。隣り合うふたつの鍵盤を続けて鳴らしてみても、その違いはほんのわずかである。この他に類を見ない調律が、観客に違和感の連なりとして届いていたのだ。しかし、ド音ピアノの構造そのものは、それが奏でる「音楽ではない音楽」の正体を説明するものではない。
ド音ピアノという楽器を発案したことについて、寒川はアフタートークでひとつの経験談に触れた。その日の小学校の授業は書道だった。硯に水をためて、その上で固形の墨を磨る。30分磨り続けても水は真っ黒にならない。だが、授業は45分しかないのでいつまでも磨っているわけにはいかない。水が墨汁に成りきらないまま、筆を浸して半紙のうえに運んだ。そこに現れたのは、水とも墨とも言えない液体が滲んでつくられる濃淡だった。寒川は、その色彩のあわいをピアノで実現できないかと考え、特殊な調律に思い当った。
ドからド♯、半音の間にグラデーションを生みだすこと。それ自体は本来、楽器を選べば難しいことではない。ギターやバイオリンの奏者が、高さが違う音の間を途切れることなく行き来する様を思い出すのは容易なことだ。しかし、寒川の実践はピアノを持ちだしたことが特異だった。弦楽器が音程をシームレスに操作できるのは、奏者の運指によって弦の長さが変わるからである。鍵を押すことでハンマーが弦を打つという打楽器的な仕組みを考えれば、ピアノは音程の不自由さを鍵盤の数の多さで補ってきたとも言えるが、寒川はその特長と欠点を反転させてしまった。平均律に従い88分割された調律のために作られたグランド・ピアノに無理をさせ、本来発することのない微細な音の幅を持たせている。観客が感じた違和感は、周波数のわずかな違いだけでなく、従来のピアノが奏でる音程との差異でもあるだろう。それは同時に、既存の「音楽」からの脱出も意味する。わたしたちがただ「ド」と呼んでいた音を、人間に聞きとれるぎりぎりのサイズまで拡大してみると、様々な異なる音たちがミクロの世界でひしめき合っていた。どの音もドであってドではない。音楽であって「音楽」ではない。音程の微粒子は、人間の名付けとは無縁の世界に存在している。
分けられるはずのないものの間に線を引こうとする人間は、平均律という人工的な線引きを拒むグランド・ピアノを前にして困惑する。だが、迷うのは音の世界だけではない。京都でのコンサートでは音楽を解体する演奏装置があとふたつ登場した。アクースモニウムと、「音の織り機」である。
電子音楽のオーケストラとも名付けられるアクースモニウムでは、サンプリングされた様々な旋律や効果音が、ミキサーを調節する「指揮者」によって即興的に演奏される。舞台上から客席にいたるまで55にも及ぶ大小のスピーカーが配置され、人のしゃべり声や、なんとドの音を叩くピアノの音までが次々と繰り出される。もうひとつの「音の織機」は、中国雲南省のタイ族に伝わる布の織機だ。糸をたぐり、模様を織りあげるべく操作される織機を動かすと、トントンと糸を詰める音に続いて、カラカラカラ……と糸巻き同士が打ち合う音が響く。木と竹で組まれたその装置は、布を織るための道具でありながら、楽器としての役割も果たすものだ。タイ族の未婚女性は、家の外にいる男性に向けて織機を打ち鳴らすことで自己を表現した。
「アコースティックよりも、デジタル音楽こそホールで聴く価値がある」と小沼が述べたとおり、大量のスピーカーによって演奏されるアクースモニウムは間接的にその場の空間性を強く意識させる楽器だ。空間性とは、コンサートホールの贅沢な共鳴を指しているのではない。観客は迷路に入り込んだかのように方向感覚を消失し、結果的に自らの身体が座る「ここ」の実感のみが残される。平均律に基づいた「音楽」に対する所与のイメージはド音ピアノによって失われ、ホールの舞台と客席という境界線はアクースモニウムによってかき消される。そして、「音の織機」が消失させるのは音楽を奏でるための楽器という目的意識そのものだ。ピアノとスピーカーが小節線なき音の渦を生みだすなか、トントン、カラカラカラ……という生活の音がところどころに挟まれる。「これは音楽なのか」。「音楽」ではないことだけは確かな迷路の最深部まで来てしまった人間が行き着く場所はどこなのか。わたしたちは再び線を引き直さなければならない。今度は地上ではなく、空に。
3.
『君の名は。』について考えてみる。
町に彗星が落ちてくる。人々に危機を知らせるために、主人公たちは即席の防災放送で呼びかけ、サイレンを鳴らす。しかし、主人公の父をはじめとする町人たちは動かない。彗星が落ちてくるなんて想像上の出来ごとを信じる人は誰もいなかったからだ。お構いなしにその時が迫ってくる。危機を乗り越えるには、突飛な想像と現実を結びつける何かが必要だった。結末で明らかになるのは、町の人々が災害を逃れたということだ。どうして逃れ得たのか、具体的には人々を動かしうる立場にいた主人公の父をどう説得したのか、作品のなかで描かれることはなかった。
本稿はここまで、南北問題における二者択一の強迫観念に駆られた人間の盲目さと、ド音ピアノという既存の線引きを無化する試みについてまとめてきた。最後に、『君の名は。』のひとつの光景を思い出すことで、あらためて「線を引くこと」の別の意味について考えてみたい。
流れ星が尾を引いて夜空を横切る映像。一見、その彗星は運命の関係である男女を引き裂く元凶のように思える。なぜならば、ヒロインが彗星の落下によって命を落とすという悲劇の結末をヒーローが知ることになるからだ。地上に人為的に引かれた境界線のように、理不尽に人間を引き裂く一線として、彗星は夜空に尾を引く。だが、彗星の役割は悲劇の象徴だけなのか。空を二分するのではなく、本来異なるものだった空を二人が見上げるひとつのものとして結びつけるためにこそ彗星は走ったのだと中田健太郎は述べている(「横切っていくものをめぐって」『ユリイカ』2016年9月号)。本来生きる時間も場所も違うはずの二人が運命の出会いを果たすという想像の世界と、災害によって片方を失うという現実の世界、その両方を彗星が実現させる。引き合わされ、一度引き裂かれてまた出会うという物語において空に引かれるその軌跡は、地上に繰り返し引かれる境界線とは真逆の、分かたれたものを結び直す糸に他ならない。
ヒーローとのつかの間の対面から戻ったヒロインが父親に向かい合ったとき、サイレンの音はどう響いていただろうか。人々は音の発信源との距離を変えたとき、音程の変化に気づく。その差は半音もない。わずかな、だが拭いようのない違和感として耳に届く。ヒロインが父を町役場の外に連れ出し、彗星が描く軌跡をともに見上げたとしたら、そこに確かに新たな糸が結ばれただろう。それは想像と現実のあいだに引かれた線をまたぐ、新しいイメージだ。
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