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人間の鳴き声を聴く――冨田勲「イーハトーヴ交響曲」

達二という少年が、逃げる牛を追いかけて野原を走るうちに霧に包まれ、断片的ないくつかの夢をみる。剣舞の行列や学校の教室。どこが現実か見当もつかぬなか、ひとりの少女に出会う。
「おいでなさい。いいものをあげませう。そら。干したりんごですよ」
「ありがど、あなたはどなた」
「わたし誰でもないわ。一緒に向ふへ行って遊びませう。あなた驢馬を持っていて」
「驢馬は持ってません。只の仔馬ならあります」
「只の仔馬は大きくて駄目だわ」
「そんなら、あなた小鳥は嫌ひですか」
「小鳥。わたし大好きよ」
家に飼っている小鳥を急いで取りにいく途中、達二はまた次の夢の世界に移ってしまう。少女とのやりとりはこれっきりである。
2012年に初演された冨田勲「イーハトーヴ交響曲」は、7つの楽章から成り立っている。各楽章には「注文の多い料理店」や「風の又三郎」などの宮沢賢治による物語群と同じタイトルが付され、それらの総体である交響曲が賢治の物語世界である「イーハトーヴ」に重ね合わされている。曲中には「星めぐりの歌」など賢治が作曲した童謡や、他作曲家のモチーフが複数引用されており、そのリストは初演時のパンフレットにも明記されている。だが、本作を読み解く上で筆者が取り上げたいのは、リストには載っていないひとつの短編小説である。
本稿の冒頭であらすじを紹介した短編「種山ヶ原」は、岩手県の奥州市、気仙群住田町、遠野市にまたがる高原地帯を舞台とする。「イーハトーヴ交響曲」の第一楽章が「岩手山の大鷲〈種山ヶ原の牧歌〉」と題されているとおり、賢治が過ごした岩手の地理的背景を冨田が作品に色濃く反映させたのは自明だろう。だが短編を一読すると、背景ではなく物語の展開こそが冨田の交響曲と驚くほど同期していることがわかる。ある夏の終わり、家族におつかいを頼まれた達二少年は、高原を歩くうちに霧に包まれ、自身の過去や未来の風景を次々と幻視する。それは〈種山ヶ原の牧歌〉から始まり、次々と曲調を変えて賢治の小説世界を渡り歩く交響曲の構成そのものである。彼岸と此岸をさまようような夢の後、達二は再び高原の家族のもとへとたどり着く。交響曲もまた、「銀河鉄道の夜」を経て、最終楽章である〈種山ヶ原の牧歌〉へと回帰する。
類似した展開を見せる二つの作品。だが短編「種山ヶ原」には、物語の必然にどうしても回収しきれない存在が登場する。夢の中で達二が出会う名も無きひとりの少女。彼女の姿は、「イーハトーヴ交響曲」を最も特徴づけるプリマドンナ・初音ミクとその「声」がもたらす問題を、私たちに示唆しているように見える。

 

初音ミクの歌声は、時に歌詞をうまく聞き取れないことがある。VOCALOIDは子音と母音を組み合わせて発声するため、私たちが普段使う言葉を一段階分節化したように聞こえ、意味を持つ歌として耳に届きづらくなっている。初音ミクを用いた動画に、演出が施された歌詞を画面いっぱいに表示させるものが多い理由のひとつだろう。

動物の鳴き声などを、意味のある人間の言葉に置き換えて聞くことを「聞きなし」という。ウグイスの「法、法華経」や、ホトトギスの「てっぺん欠けたか」など、特に鳥の鳴き声によく用いられる、自然観察の手法のひとつである。初音ミクのまるで鳥のさえずりのように高い声は、意味のある言葉になる前の動物の鳴き声にも聞こえる。私たちは歌詞カードを見て、初めて彼女の歌を聞きなすことが出来る。こうして見ると、初音ミクをソリストとして舞台に立たせることは作曲家にとって不自由な選択のように思える。だが、本当にそうだろうか。冨田が、宮沢賢治の世界をコンサートホールに出現させる媒介に初音ミクを選んだことは、意味を持つ言葉を伝えるのとは異なる次元で必然性があった。

 

ドミニク・チェンは、初音ミクを始めとするVOCALOID技術とそれが受容されていった創作現場における変化を、コンテンツの構成素に対する標本(sample)から召喚(summon)への移行だと看破した。料理のように素材を一方的に加工し、実行系である人間の手腕が結果に反映される手法を標本的創作とおいてみよう。対して、料理人その人を呼び出すがごとく、一定の自律的なプロセスを持った実行系として召喚されるのが初音ミクである。楽譜と歌詞を初音ミクに渡すと、彼女がそれを「上演」する。人間は楽譜を変えることはできるが、ソリストの歌そのものを変えることはできない。

一方、創作現場ではなく表現の場においては、VOCALOIDの歌唱は本来標本的である。動画サイトの再生ボタンが保証するように、それは常に予定調和的な再演を繰り返す。しかし、「イーハトーヴ交響曲」においては、彼女は即興性を伴う召喚に応えている。冨田は、指揮者の棒に合わせて歌うソリストを求めた。開発元であるクリプトン・フューチャー・メディアのスタッフは、その要求を「テンポの可変性」によって実現した。旋律と、会場で投影される映像をあらかじめ「調教」しておき、ステージ上でその再生速度をスタッフが変化させる。それにより、楽団や合唱隊と同じように指揮者とテンポを共有する初音ミクの歌唱が可能になった。他の演奏者とほぼ変わらない、召喚される存在としてステージに立つ。

だが、他の演奏者と並び立っただけでは、初音ミクがソリストにふさわしい理由にはならない。歌を伝えたいのなら、前述のように人間のソプラノ歌手が歌った方が表現として豊かな幅を持つだろうからだ。しかし、歌は本当に意味を伝えるためのものなのだろうか。

 

チェンは同じ論考のなかで、自律性を持った実行系となったコンテンツが、疑似的なライフサイクルを獲得することを指摘した。生命が生まれ、子孫をつくるように、コンテンツも制作され、他のコンテンツに影響を与える。文化的遺伝子とも呼ばれるその疑似生命のつながりは、忘却によって死を迎える。他者が覚えているか、デジタルデータに残っているかぎり、ライフサイクルが終わりに至ることはない。そのプロセスを「イーハトーヴ交響曲」の終盤である第五、六、七楽章の文脈に照らし合わせたとき、私たちは本当の意味で召喚される初音ミクの姿を認めることができる。

 

第五楽章「銀河鉄道の夜」では、交響曲中最大規模の音圧と映像が繰り出される。手回しオルガンの素朴な音に導かれて上機嫌にボーカリーズを奏でる初音ミクを、やがて車輪の回転のように上下する弦楽器の対旋律が押し上げ、リズミカルなピアノの打鍵は列車の振動のように加速していく。「ケンタウルス 露を降らせ」とミクが歌いあげたそのとき、混声合唱団による厳粛な讃美歌が始まる。「もうよい お前の務めは終わった その地を離れてここにおいで」讃美歌を聴き届けた少年少女合唱団が「カンパネルラ」と叫んだあと、「ジョバンニ」という遠方からの返事とともに、楽団は再び手回しオルガンの子守唄へと収束していく。初音ミクが「シャラララ……」と鼻歌のように口ずさみ、第五楽章が終わる。

壮大な音楽とともにここに描かれたのは人間の死である。無邪気な少年たちを演じるためにミクは召喚され、友人の名を絶叫した合唱団のあとを引き取る。この楽章でソリストに歌詞として歌われるのは「ケンタウルス 露を降らせ」というわずかワンフレーズで、ほとんどをボーカリーズが占めている。言葉を担う人間がその役目を終え、あとに残ったのは歌声だけだったのだ。だが、次の楽章で今度はミクが忘却という死を迎える。

第六楽章「雨にも負けず」は、ほとんどの楽器が参加した「銀河鉄道の夜」とは対照的に、混声合唱団の歌のみで構成される合唱曲である。抑制的なメロディーに乗せて、「一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ……」というよく知られる詩がゆっくりと演奏されていく。物語ではなく人間の生を追求する詩のみが歌われる第六楽章は、全体の中で極めて異質に見える。だが、ここで初音ミクが完全に沈黙し、スクリーンに姿さえ現さないことで、第五楽章と対になる冨田の世界観が明らかになる。つまり、よく似た声と生命を持ちながら、決して同じ場所に立つことができない初音ミクと人間が、それぞれの役割を負わされ、召喚されているのである。続く第七楽章「岩手山の大鷲〈種山ヶ原の牧歌〉」は第一楽章のリフレインであり、ほとんど同じ音形が繰り返される。しかし唯一違うのは、交響曲の冒頭第一楽章にはいなかったミクが、少年少女合唱団の歌う牧歌の伴奏として登場する点だ。再生を迎えたミクは、召喚され忘却されることを繰り返す存在として、永遠の命を控えめに提示している。

聞きなしは、鳴き声を一度言葉に変換してしまうと、その言葉にしか聞こえなくなるという不可逆性を持っている。自然の音を言葉に変換する私たちは、歌を一方的に標本(sampling)している。だが、冨田が人間の死を描く第五楽章でミクに歌わせた言葉なきボーカリーズこそ、彼女の本質であり、ソリストとして舞台に召喚した理由であろう。

短篇「種山ヶ原」の少女は、小鳥であったのかもしれない。なんの言葉も代表しないそのさえずりは、私たちがどうしても聞きなしてしまう歌の、本当の姿を知っているはずである。

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