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ゴム人間の拳――尾田栄一郎『ONE PIECE』について

映画、映像について考えるために、ひとつの漫画を支点としたい。取り上げるのは、週刊少年ジャンプで連載中の作品『ONE PIECE』(尾田栄一郎、1997年~)である。アニメ化、映画化もされている作品だが、あえて尾田が描く漫画版を論じるのには理由がある。渡邉が課題文に記した映像批評の可能性は、大きく2つの点に集約される。言葉と映像との乖離、そして映像が持つ身体性である。それらと通底する問題に、尾田は少年漫画特有の方法で答を出していると考えたからだ。さらに、それには週刊連載で20年近くの長期にわたり描き続けてきたことも大きく関係している。どういうことだろうか。まずは、『ONE PIECE』の主人公の特異性について確認することから始めよう。

 

1.

どの登場人物に感情移入するかは、漫画の読者にとって重要だ。とりわけ少年漫画と呼ばれる作品群の多くは、読者層と近い10代前後の少年少女が主人公に据えられる。若者にとって共感しやすい野望や悩みを、わたしたちは主人公とともに経験し乗り越えていく。だが、『ONE PIECE』で読者が追いかける主人公モンキー・D・ルフィの姿は、典型的な主人公像と大きく異なっている。なぜなら、ルフィは一切内語で話すことがないからだ。内語とは、漫画における感情の形式化の一例として、伊藤が前回課題の際に言及した描写方法だ。登場人物が音声として発するセリフとは異なる種類のふきだしで表現される、人物の心の声である。伊藤は内語を「心の深層部を形式化する方法」とし、読者にとってより真実性の高い言葉だと述べている。この論を借りるならば、読者を登場人物と同じ心情に引き込むために必要な表現方法だと言える。

しかし、『ONE PIECE』作者の尾田はルフィについて、「心の中のセリフは書かないと決めているのです。読者に対して常にストレートな男であるために、「考えるくらいなら口に出す」または、「行動に移す」ということを徹底しております」(ジャンプコミックス〈以下JC〉巻五十四、p.46)と表明している。これは、少年漫画の主人公として極めて異様である。読者は主人公と迷いや悩みを同じくすることで、課題の解決におけるカタルシスも共有できる。しかしルフィは、何を考えているかを読者に決して明かさない。言いかえれば、ルフィが話したり、行動して見せることがルフィの人物像そのものなのだ。だから、読者はルフィが「このあと」どうするかを予想することが極めて難しい。物語のパターンから展開を言い当てることはある程度可能だろうが、より具体的な場面でルフィがどんな行動に出るかは、実際に行動するまで分からない。そのため、読者の感情はたびたび、ルフィの突拍子もない行動に翻弄される「麦わらの一味」の他のメンバーに近いものになる。ルフィ以外の人物は、他の作品と変わらない頻度で内語を発している。

それでは、『ONE PIECE』の主人公は読者にまったく感情移入させない、ただの動きの読めない珍獣のような存在なのだろうか。そうではない。尾田は、内語により誘導された感情移入とは異なる方法で、読者を主人公=ルフィとシンクロさせることに成功した。その方法とは何かを考えるうえで、漫画の『ONE PIECE』がもつアニメ性について考えてみよう。

 

2.

世界初のアニメーションがモデルにしたのは、「稲妻(ライトニング)スケッチ」と呼ばれる見世物であったと細馬宏道は論じている(『ミッキーは何故口笛を吹くのか』2013年)。19世紀後半、アメリカで流行した稲妻スケッチは、軽快なトークとともに黒板へチョークでたわいもない図を描き、それに何本か線を加えることで、まったく異なる絵や文字を出現させる芸だった。見世物小屋でその芸を学んだ青年が、後日『愉快な百面相』(1906年)という短いアニメーション映画を発表する。画面外から伸びてきた手によって黒板に描かれた絵が、ひとりでに動いて表情を変えていく。細馬は、稲妻スケッチから生まれた世界初のアニメーションの核を、生命のないものに生命が吹き込まれ、動くはずのないものが動くものに変貌することだと述べている(p.28)。

わたしたちは、このアニメ性を漫画である『ONE PIECE』に見てとることができる。人物の動きはもちろんのこと、海賊である「麦わらの一味」を囲む海の水面や、戦いによって巻き起こる砂煙など、無機物であるはずのそれらが、人物たちと同じ筆致(線の太さ)で描かれている。これは、尾田の持つこだわりに強く起因している。尾田は、アシスタントとの作画の分担について、建物や岩山などの背景はアシスタントに任せ、対して「群衆シーン、動物、煙、雲、海など“生きて動くもの”は100%僕が描いている」と説明している(JC巻五十二、p.108)。この言葉から、尾田が群衆や自然環境といった固有の意志を持たないものにも、「動くもの」として特別な地位を与えていることがわかる。生命を持たないものが動くことで存在感を示すという尾田の世界観は、人間として本来発しているはずの内語を封印された唯一の人物の描写にも必然性を与えている。ルフィは、言葉=思考ではなく、動物のように身体の動きだけで表現されるからこそ、読者を惹きつける少年漫画の主人公たりえるのである。

 

3.

バトルを繰り返す少年漫画に欠かせない要素のひとつに、必殺技がある。強大な敵を打ち負かすとき、技の名前を叫びながら繰り出される一撃が、エピソードを締めくくる最大のインパクトを読者にもたらす。ルフィもまた、現時点で単行本にして82巻まで続けられている冒険を通して、数々の必殺技を披露してきた。その変遷を辿ることは、ルフィと読者の身体が共有されていくプロセスを確認することでもある。

ルフィは、「ゴムゴムの実」を食べることで得た特殊能力を持つゴム人間である。身体の全てがゴムと同じ性質を持ち、伸びたり膨らんだりする特性を活かしたアクションで敵と戦う。最初の必殺技として登場したのが「ゴムゴムの銃(ピストル)」である。片腕を通常の何倍も長く伸ばすことで岩をも破壊する威力を秘めた拳を振るう(図1)。その後も、両手で撃つ「ゴムゴムのバズーカ」など様々な派生形が登場するが、身体を伸ばして衝撃を生みだすのは同じである。

図1:JC巻一
図1:JC巻一

 

だが、単行本にして40巻「ウォーターセブン編」と呼ばれるエピソードにおいて、ルフィの技は大きな変化を見せる。「ギア2」という技は、ゴム化した脚をポンプのように動かすことで血流を速め、身体能力を向上させる。その結果、従来の必殺技のスピードが格段に増した(図2)。この「ゴムゴムのJET銃」は、それまで大きくことなる描画がなされている。拳の弾道が腕となって長く伸びていた「ゴムゴムの銃」とは異なり、拳の速さは読者の目でとらえきれない。敵を殴ってルフィの側まで戻ってきた拳と、敵が受けたダメージ描写によって、目に見えないほどの技の威力が示されている。この瞬間、読者は経験したことのないレベルでルフィの身体性を感じることになった。それまで少年たちが真似しようにも腕が伸びないために出来なかった「ゴムゴムの銃」が、高い水準で真似できるようになったのである。もちろん実際に拳が飛ぶわけではない。だが、目で追えないほどの速さの拳を想像させる尾田の演出により、読者は現実と地続きになった感覚で、「JET銃」を放つ快感をルフィと共有できるようになった。少年漫画特有のヒーロー真似が、ルフィと読者の距離を縮めたのである。

図2:JC巻四十
図2:JC巻四十

ルフィのギアはその後更なる進化を遂げる。「ギア3」は、自らの骨に空気を吹き込み、ゴムの特性を活かして風船のように身体を巨大化させる技である(図3、4)。周囲のスケールをはるかに上回る巨大な拳で殴りとばす「ゴムゴムの巨人の銃(ギガントピストル)」は、速さではなく大きさで敵を圧倒する技である。ここにも、尾田の映像的演出が光っている。身体の全てを巨大化させるのではなく、あくまで一部を巨人のように膨らませることで、ルフィの本来の身体と比較した巨大さが常にアピールされている。これは、周囲にミニチュアの模型を置くことで撮影対象を巨大に見せる特撮の技法だ。「ギア2」の速すぎて見えない拳と同じように、その周囲を描くことで、拳の必殺技としての強大さを演出しているのである。

図3:JC巻四十四
図3:JC巻四十四
図4:JC巻四十四
図4:JC巻四十四

「ギア3」の習得後、ルフィが新たな技を手にするまでに物語内での長い時間がかかった。単行本82巻時点の最新技は「ギア4」だが、本論の最後に注目したいのは「ギア4」が登場する少し前のエピソードでルフィが使った必殺技である。それは「ゴムゴムの火拳銃(レッドホーク)」という、火炎を纏った打撃技だ(図5)。「覇気」という新たに得た能力で硬化させた拳を急速に伸ばすことで火を起こす技だが、これはそれまでの必殺技にはない感触を読者にもたらすものだった。それは、ルフィがそれまでに経験してきた冒険の手触りである。単行本59巻において、ルフィは違う海賊団に入っていた兄を戦いのなかで亡くしている。兄は、「メラメラの実」で得た炎を操る能力を持っていた。「ゴムゴムの火拳銃」は、ルフィがその死に直面し、乗り越えた兄の姿を読者にいやが上にも思い起こさせるのだ。読者はいまや、長きにわたる冒険の記憶を媒介にルフィとシンクロし、必殺技を放つのである。

図5:JC巻六十五
図5:JC巻六十五

 

4.

議論をまとめる。わたしたちは、漫画『ONE PIECE』の主人公ルフィをめぐる描画を通して、言葉と映像との乖離と、映像の身体性について考えようと試みてきた。ルフィは、内語を発しないという主人公として非常に特殊な条件を持つ。それゆえに、人物の言語=思考ではなく動きを重要視する尾田によって、いかに読者と身体を共有するかという命題に挑んできた。必殺技の変遷に象徴されるその試みは、少年が真似のしやすいフォームや、巨大化を演出する技法、そして長期連載ならではの物語の記憶により、何を考えているかわからないはずのルフィと身体を共有させることに成功した。ルフィは、感情ではなく、拳によって読者との友好関係を築いてきたのである。

※本論では、『ONE PIECE』連載時における毎回の「引き」を、各章の結部において擬態することを目論んだ。

文字数:4221

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