居残る者の論理――古典落語『居残り佐平次』
おれのことは佐平次と呼んでほしい。
おれの話をするやつは、みんな『居残り佐平次』って題名をつける。古典落語だ。いろんなやつがおれの話をしてきた。だがおれは、どの噺家の佐平次ってわけでもない。好き勝手に顔も声もイメージしてほしい。
噺家にもよるが大抵みんなおれの話を笑って聴く。だがときどき首をひねっているやつがいる。語り手が下手なんでなければ、そいつは「なんで居残りなんてことをするのか?」とかくそ真面目に思っているんだろう。今日はそんなやつに向けて、おれ自身からしゃべってみよう。なんでおれは居残るのか。
まずは、『居残り佐平次』でおれがどんなことをやったのかを説明しよう。
景気づけに遊郭で派手にやろうっていうんで、呑み仲間を3人ばかし連れて、品川の大見世に押し出した。たらふく飲んで食って遊び終わったら、あとはおれに任せろって一人残った。勘定をせびる連中には、金なら無いと居直ってやった。しばらく行燈部屋に引っ込んでいたが、あるとき客が「醤油はまだか」と言うんで、へいへいとそばのつゆを持って行ってやった。その客は、店の衆でも客でもないおれのことを不思議がってたが、そこはヨイショするのさ。「遊女たちのあいだではあんたの噂でもちきりだ」って。段々と客も気持ち良くなって、酒を注ぎ、お駄賃までくれるようになった。そんなことを続けているうちにいろんな客とも顔なじみになって、居残りの「いのさん」だなんて指名を受けるようにまでなった。って話だ。
こんな話を聞いたら、なんでそんなことをするのかと思うのも至極もっともだ。でもおれのことだけ考えていても同じ話しか出てこないから、一人知り合いを紹介しよう。バートルビーというんだが、知ってるか? 生まれた国も違うが、時代は大体同じころだろう。時代は十九世紀の中ごろ、おれは品川だったがやつの話はアメリカのニューヨークだ。おれが言うのもなんだが不思議な男でね、事務所に雇われたんだが雇い主の言うことを一切聞かない。それでも周りに有無を言わせないんだ。ハーマン・メルヴィルという作家が書いた短編小説に出てくる。
おれとバートルビーには、そっくりなところと、正反対なところがある。
そっくりなのは、出ていけと言われても居残るところだ。おれもバートルビーも、店や事務所にとって厄介以外の何者でもない。だが、おれたちは出て行かない。おれたちを相手にした連中は、こんなことを言う。
「おれが勘定のことをいいかけると、わかってる、心得てると、とめちまうんだよ。勘定のことはわすれてる、わすれてるって……自分でしゃべりまくっておれに口をきかせてくれねえんだよ。そうなると、おれは因果と、舌がつっちまって口がきけなくなるんだ」
他の誰が相手だったとしても、私はきっと即刻恐ろしい激情に駆られ、それ以上言葉などに頼らず、そいつの首根っこを捕まえてたたき出したことだろう。だがバートルビーにはどこか、不思議と私の怒りを解いてしまうばかりか、何とも妙なことに、私の心を打ち、私を狼狽えさせるところがあった。
厄介をかけられた側が、同じようなことを言っているだろう。だが、正反対なのは居残るための方法だ。おれはときには威勢よくふるまって、ときにはとことんへりくだる。口先でコロコロ立場を変えることで、その場を取り繕ってきた。対してやつは、押し黙る。なんで仕事をしないのか、と問われても、ただ一言「そうしない方がいいのです」とだけ、あとは何にも答えない。正反対のやり方で、おれたちは居座っているんだな。
おれとバートルビーが、周りに人間に不思議と言うことを聞かせちまう力を持っていて、同じ場所に居残る似た者同士だってことはわかっただろう。だが、なぜ居残るのかという問に答えるには、まだふたつの補助線が必要だ。
バートルビーについて、トマス・ピンチョンという同じアメリカの作家が語ったエッセイがある。
この書記は資本主義の最下層のさらに最下部にありながらもなお、日常秩序との相互交流を拒否することによって、興味深い問を投げかけるのである。すなわち、「怠惰の罪が深いのははたしてどちらなのか? 給与と平穏無事な生活とを手に入れる見返りに、現状をあるがままに受け入れ、結局は諸悪の根源に手を貸してしまう人間か、それとも何もせず、ただあくまで不幸にしがみついている人間か」
「現状をあるがままに受け入れ」る人間というのがバートルビーの雇い主で、「不幸にしがみついている」人間というのがバートルビーだ。この評論は「Sloth(怠惰)」という題名だ。ピンチョンは、雇い主のような常識的な人間が、気づかぬうちに怠惰をむさぼっているんだと言っている。それは、資本主義の浸透によって忘れられた罪だ。
もうひとつの補助線は、立川談志という噺家だ。談志は、落語を解釈するうえでひとつの理念を持っていた。それは「人間の業の肯定」だ。人間と言うのは本来非常識なもので、落語に出てくる愚か者は、それに気づいたやつだという。『居残り佐平次』の根幹には「人生は成り行きだ」というテーマが流れていて、談志自身がそれに憧れている。
ピンチョンと談志、言っていることがよく似ているだろう。二人は、自由意思で作り上げてきた近代文明と正反対だが、この生き方はなかなか大事だと言っている。何も生産的なことはしない。だがそれこそがおれたちの生き方だ。居残ることに目的があるんじゃない。口先で姿勢をくるくる変えてみたり、あるいは押し黙ってつっぱねてみたり。その場を乗り切って成り行きのままにすることこそが目的で、結果として居残っちまったんだな。おれたちみたいな人間が、どうして不思議がられるのか。それは、不思議がる人間たちが、成り行きに反して奇妙な生き方をしていることに無自覚だからだろう。
果たしてこれが正解なのか? 当該人物の佐平次であるおれが知らねえはずがねえと思うだろう。でもこれが正解だとは言わない。なにせ『居残り佐平次』だって、噺家によって落ちがまるっと違うからな。店を出ていくおれの真似をして、扇子やら座布団やらを風呂敷に包んで客席に降りてそのまま出ていっちまった噺家もいるくらいだ。こんな聴き方もある、と知ってくれればそれでいい。だが、正解かどうかをバートルビーに聞いても無駄だろう。やつの一人語りはまず成り立たないからな。
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