盆地とセカイ――森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
東浩紀は著書『セカイからもっと近くに』(2013)のまえがきで、日本の2010年代を「想像力と現実がじつに関係を持ちにくい」時代だと形容した。その時代を代表する文学ジャンル「セカイ系」は、主人公の周辺における近親者間の問題が、そのまま物語世界の大事件に直結するのが特徴だ。そこでは、個人と世界の中間にあってしかるべき社会や国家という段階が捨象される。東曰く、現代の読み手に支持されている本流と言うべき作品群は、多くが想像力と社会が分断された創作に舵を切っているという。
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(2006)は、その年の本屋大賞の2位に選出された、まさに現代大衆文学の本流ともいえる作品である。あらすじを見れば、主人公である「先輩」と、彼が恋い慕う「黒髪の乙女」の淡い恋愛模様を軸として物語が駆動するまさにセカイ系と呼ぶにふさわしい小説である。だが、われわれは本作を凡庸な大衆小説のひとつとして黙過するべきではない。本作が社会を描かない恋愛小説として現代の大衆に支持されたことは疑いようもないが、主題は恋愛とは別のところにある。それを語るには、セカイ系という言葉では回収しきれない本作の異質さを示す2つの特徴を明らかにする必要がある。
『夜は短し歩けよ乙女』は4章構成で、1章が春、2章が夏と季節ごとの短い物語の集積である。いずれの章も、大学生である先輩が、クラブの後輩で自覚せず珍事件を引き起こす乙女を追いかける。だが、ふたりが同じ場所にいて会話する場面は極めて少ない。なぜなら、本作は先輩の片思いから始まり、乙女が先輩の恋慕に気づきはじめるところで終わっているからだ。物語の開始時点では、先輩の存在すら乙女に認知されていない。初めて対面してからも、先輩の「外堀を埋めるだけの機能に特化した」性格から、街をさまよい歩く乙女の後ろを尾行しては事件に巻き込まれることで物語が進んでいく。
役者に満ちたこの世界において、誰もが主役を張ろうと小狡く立ち回るが、まったく意図せざるうちに彼女はその夜の主役であった。そのことに当の本人は気づかなかった。今もまだ気づいていまい。これは彼女が酒精に浸った夜の旅路を威風堂々歩きぬいた記録であり、また、ついに主役の座を手にできずに路傍の石ころに甘んじた私の苦渋の記録でもある。
物語の展開を主導する力において、主役(乙女)から脇役(先輩)へという明らかな上下関係がある。これは、本作がセカイ系の定石から逸脱していることを示している。なぜなら、これでは「キミとボク」の共犯関係に成り得ないからだ。セカイ系において、世界の問題に直結する近親的関係は、互いへの濃密な感情に根差しているのが常である。セカイ系の代表的な作品に挙げられる谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)でも、物語を駆動させるヒロインと巻き込まれる主人公は上下関係にあるが、一方でヒロインの感情の動きは主人公の存在に大きな影響を受けている。セカイ系においては、登場人物の役割の強度においてキミとボクが対等でなければならない。だが、本作の先輩と乙女にはその等式が成り立たない。これが、異質なセカイ系として本作が抱える1つ目の特徴である。
もうひとつは、大きなセカイに結びつくことを拒む特殊な舞台設定にある。その舞台設定とは、京都である。物語に登場する地名は、先斗町(ぽんとちょう)や下鴨神社など実在する京都市の北東側一帯である。先輩と乙女もその近辺の大学に通っていることから、すなわち京都大学に通っていた森見のかつての行動範囲がそのまま物語の舞台になっている。その舞台の狭さは、4章において世界の疑似的な終末のとき最も強調される。
羽貫さんの髪を、風が滅茶苦茶にしています。彼女は私の傍らに立つと、憤然とした顔であたりを見回しました。「ねえ、なんでこんなにひっそりしてるの?」
「ものすごい風邪が流行っているらしいのです」
「私が寝込んでいるうちに世界が滅びたかと思ったわよ」
年の瀬、乙女が巡り会った人々が軒並み風邪を引く。知人が知人に移し、またたく間に京都全体に広がって街全体が沈黙する。先輩も例にもれず、乙女とは異なる人物から風邪を移されて下宿で寝込んでいる。重要なのは、山に囲まれた京都盆地の地理的な狭さではなく、京都の人間関係こそが非常に密接で盆地的だということだ。羽貫の冗談めいた言葉が象徴するように、京都の終わりが世界の終わりに取って代わられる。京都の外の世界はほとんど描かれない。セカイ系の構造に照らし合わせるなら、個人同士のつながりがすなわち世界の問題に直結していることが、4章で極めて明示的に綴られている。京都を物語の舞台に設定することで初めて機能する盆地的世界観こそが、本作の2つ目の特徴である。
ヒロインとヒーローの不等号的な関係と、京都ならではの盆地的世界観。本作をセカイ系のなかでも異質たらしめているこれらの特徴は、ひとつの問題に収束する。それはすなわち、描かれざる世界である東京との対立である。
本作には、地名に留まらず京都らしさを演出する小道具が氾濫する。夜の先斗町を彩る赤提灯、道中で度々巡り会う達磨やりんご。だが、これらの小道具は、必ずしも物語の行方を左右するために登場しているのではない。その役割は、物語を一地方都市の素朴な風景から、「京都」という幻想的な空間へと徐々に転換させていく方に重きを置かれている。それらの小道具が最も多く登場し、作中で最も幻想的な色に染まるのが、李白という人物の登場場面である。
暗くて狭い先斗町の南から、背の高い電車のようなものが、燦然と光を放ちながらこちらへ向かってくるのです。それは叡山電車を積み重ねたような三階建の風変わりな乗り物で、屋上には竹藪が茂っているのが見えました。車体の角にはあちこちに洋燈が吊り下げられて、深紅に塗られた車体をきらきらと輝(てら)しています。色とりどりの吹き流しや、小さな鯉のぼり、銭湯の大きな暖簾などが、車体のわきで万国旗のようになびいているのも見えます。
1章の終盤、乙女はその夜出会った人々の借金を賭け、「風変わりな乗り物」に住む李白に呑み比べ勝負を挑む。李白は、昼は冷徹な金貸し、夜は大酒呑みという老人である。大学の学園祭を舞台にした3章を除き、全てのエピソードにおいて「李白に会うこと」が物語の山場になっている。道中に起こるあらゆる珍事件が、李白を発端としていることが明らかになる。つまり、乙女に比べてほとんど物語を推進する力を持たない先輩に成り代わって物語を回す存在である。存在価値のある登場人物として先輩が乙女と対等になる瞬間は、4章の終盤まで待たなくてはならない。
1章、李白が乙女と呑み比べをするために用意したのが、偽電気ブランという酒である。「大正時代に東京浅草の老舗酒場で出していた歴史あるカクテル」と紹介されるこの酒は、浅草に現存する神谷バーの電気ブランがモデルになっている。本家によれば目新しいものを「電気○○」と呼んでいた明治に名付けられたというが、作中では本家の味を京都で再現しようと試みられ、偶然できた「味も香りも全然違う」ものとして偽の字がついている。明治・大正に東京で生まれた電気ブランを換骨奪胎して現代の京都で再現するというこの描写は、京都にひとつの時代が欠けていることを想起させる。それは昭和である。
昭和は東京という土地に深く根ざしている。関東大震災の二年後から始まり、太平洋戦争の空襲を経て何度も街は作り直された。そのため、東京には昭和すなわち震災や戦災の記憶を伝える場所が数多く残っていると同時に、昭和より前の時代から存続するものは多くない。だが、京都には昭和がない。何度かの空襲を経験したのは確かだが、東京大空襲と比べるとあまりにも痕跡は少ない。代わりに、はるか昔の建造物や文化が受け継がれているのは言うまでもない。作中で京都らしさを演出する小道具の数々もまた、昭和らしさにつながることを明らかに避けて描かれている。時代を感じさせないものか、春画や偽電気ブランのように昭和より昔の時代を象徴するものばかりである。作者は、現代において幻想的な世界の入り口となる都市としての京都を描くうえで、あえて昭和=東京的な要素を排除した。「あたたかみのある琥珀色」で「ほんのりとした甘み」をもった電気ブランは、「清水のように透き通って」「ただ芳醇な香りをもった無味の」偽電気ブランへと脱色され、幻想的な香りだけを持つ物語に作り替えられたことを示している。
最後に、物語の佳境の再点検を通して、私はそこで描かれなかった場面を夢想してみたい。昭和がほとんど排除された本作で、唯一「バブル」という言葉が登場する場面がある。1章で乙女と出会った、宇治市で錦鯉を養殖していた東堂という人物の身の上話に登場する。東堂は、バブルに乗じて大量の錦鯉を買って大儲けしていた。しかし、バブル崩壊後は経済的困窮に陥り、ついには突如発生した竜巻に鯉がことごとく吸いこまれ、その全てを失った。実は、この鯉を吸い取った竜巻こそが、「路傍の石ころに甘んじ」ていた先輩を物語の終盤でセカイ系の主人公へと引き上げる重要な役割を果たす。
4章、京都で猛威を奮っていた風邪に倒れた先輩は、夢の中で樋口という天狗を名乗る男に教えを乞う。樋口に教わったのは、空を飛ぶ技である。その秘訣は「地に足をつけない」ことだった。あり得ない妄想を膨らませることで、夢で空中遊泳を楽しむ先輩だったが、やがて竜巻に巻き込まれる。それはまさに、東堂の錦鯉を奪った竜巻そのものだった。舞い上がった上空で乙女もまた飛ばされているのを見つける。乙女は現実において風邪の根源となった李白に薬を届けた帰り、李白の咳が巻き起こした竜巻に巻き込まれていた。それを見つけた先輩は乙女のもとへ飛んでいく。
そして堅く手を握り合った我々が見たものは、眼下に広がる京都の街であった。
街を取り囲む山々はおぼろに霞んでいる。
学園祭が行われた大学、古本市が行われた糺ノ森(ただすのもり)、我々が長い夜を歩き抜いた先斗町……それらは藍色の朝靄に沈んで、静かに夜明けを待っていた。
ここで初めて、先輩は乙女と対等な立場になる。先輩は、現実で竜巻に飛ばされた乙女の危機を、夢の世界で救うという文字通り「地に足をつけない」セカイ系の想像力を発揮した。地上に降りたあと、先輩は乙女を初のデートに誘う。そうして真のキミとボクの関係へと一歩を踏み出したところで物語は終幕を迎える。ここで、ひとつの可能性が思い当る。上空から街を見下ろした先輩は、もしかしたら京都という盆地的セカイの向こうを垣間見たのではないか。京都の街のなかでは、先輩は閉鎖的な自問自答に囚われ、乙女と親しくなりたいと願いながら本格的に歩み寄ることを躊躇していた。だが、一たび京都から地を蹴って飛び出した先輩は、セカイの外を知ることで、己の純粋な心情に辿り着いたのかもしれない。それはおそらく、「鯉」となって空を飛ぶことと無関係ではないだろう。
モデル: 笠井潔『物語の世紀末――エンターテインメント批評宣言』(1999)
文字数:4543