擬日常の外に住む人々――上北千明『擬日常論』について
上北千明『擬日常論』は未完の批評である。
上北は、議論の途中でひとつのわき道を用意している。論の主幹はそれを辿らず、別の道を進む。だが、そのわき道にこそ、擬日常論の核心があるのではないか。
『擬日常論』は、高橋しん『花と奥たん』と、浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』という2つの漫画について論じている。そこで描かれる主人公たちの暮らしから見えてくるのは、日常と非日常の二項対立ではとらえきれない、擬日常という新しい言葉である。これこそが現代の日本にふさわしい、とするのが『擬日常論』の主幹である。
わき道があらわれるのは、チャプター2の末部だ。上北は、『デッドデッドデーモンズ』がポスト・セカイ系たる所以として、「女子たちの共同体」ならではの強さと脆さに注目している。セカイ系的な「きみとぼく」にとっては一大事である世界の終末も、ゆるい日常の下に固く結ばれた門出たちにとっては日常の一部だ。だが、メンバーの一人が終末的な事件に巻き込まれ死ぬことで、日常が揺らぎ始める。チャプター2はここで閉じ、チャプター3では日本の伝統的な擬日常観の表れとして2つの漫画を読みといていく。
しかし、この部分で少しだけ触れられた「女子たちの共同体」の揺らぎが表すものとは何か、もう少し考えてみたい。彼女らが日常を謳歌しているのは、実は非常に限られた世界なのではないか。その外側には、擬日常そのものを非日常だとみなす人々が住んでいるのではないか。
考察のヒントになるのは、日本を舞台にした『花と奥たん』『デッドデッドデーモンズ』の主人公たちに対する、外国人の視点である。奥たんに対しては、外から来た学者が「はやく避難した方がいい」と忠告する。門出たちの周りでは、宇宙船の下で日常を過ごす都民への驚きと呆れの声が外国人たちから発せられている。しかし、どちらの作品においても、それら外部の視点から、主人公たちの日常が壊されることはない。奥たんは、学者の忠告を微笑みによって無化する。門出たちは、英語が理解できないので、意図せず耳をふさいでいる。上北は、それが「彼女たちの日常を強固にしている」原因のひとつだとしている。
仲間の一人が宇宙船墜落に巻き込まれ死んだとき、『デッドデッドデーモンズ』の仲良し女子たちは気づいたはずである。彼女たちの日常とは、日常の皮を被った非日常だということに。それは、擬日常性の自覚であり、「東京ヤバい」という外国人と同じ視点を彼女たちが獲得することだと言える。もちろん、『デッドデッドデーモンズ』は連載中の作品なので、擬日常性の自覚が4巻以降の主人公たちにどのような影響を与えるのかは未知数だ。だが、ここで重要なのは、非日常を日常へと呑みこんで消化していた女子たちが、どうしようもなく非日常と向き合わなければいけない瞬間、書き割りであったそれまでの擬日常が最も作りものの色を強め、その背後にある「日常外」の存在を明らかにするということだ。
岸政彦『断片的なものの社会学』のなかで、岸は普通と呼ばれる人と普通ではないと呼ばれる人の違いについて述べている。それは、性別や国籍について考えることを強いられているかどうかだという。普通ではない人は、常にマイノリティの自覚を迫られる。逆に、マジョリティの人々は、そもそも自分の性別や国籍について考えずに生きることができる。それが普通か、普通ではないかの違いだという。
この構図は、擬日常に当てはめることができる。日常に生きる者はそれを当然のように享受し、退屈を感じている。上北の言う「決定の遅延」が生じるのもそのせいだ。逆に、非日常に直面した者は、もはや自分を取り巻く環境が日常だと思い込むことはできない。『デッドデッドデーモンズ』の世界に当てはめるなら、門出たちが、SNSに守られた日常を生きるマジョリティから、友人の死を経たマイノリティへと転換することで、外国人というさらに大きなマジョリティと重なるのである。
上北はそこに踏み込まず、擬日常を支える郊外や通勤電車、インターネットという装置の分析に重きを置いている。しかし、本当に大切だったのは、擬日常が剥がれ、登場人物たちが外界を認識する瞬間なのではないか。そこを描いていないという点が、『擬日常論』は未完であると私が考える理由である。
ちなみに、擬日常の象徴として郊外の風景をとりあげた上北が生み出した『擬日常論』と、東京の三鷹市に生まれ、横浜市青葉台に引っ越した経歴をもつ自身を「典型的な郊外の生活者」と呼ぶ東浩紀の関係にも言及しておきたい。東は、インタビュー「批評を持続させるために」のなかで、麻布学園やソクラテスを例に出し、哲学への欲望を引き出す場所づくりがゲンロンの目的だと説く。そして、ゆくゆくは聖地と呼ばれることを目指して、批評再生塾をはじめとするイベントを開催し、登壇者のサインをカフェに残してもらっているという。『擬日常論』はいま、東から出題された課題によって批評再生塾第二期の受講生に読み返され、批評を生みだす装置として稼働している。批評再生塾第一期は、第二期生にとって批評への欲望を喚起する聖地の一部と化しているのかもしれない。
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