パルマコンとしての「擬日常」
第2回講義の課題が発表され、この『擬日常論』を一読してまず思ったことは、この批評文が最終選考会において、高い評価を得たことに不満を持つ1期生はかなりの数存在するのではないか、ということだった。その主張には矛盾点が散見され、論の運び方や論証の手際も稚拙で、蛇足と飛躍に満ちている。紙幅の関係もあり、全てとはいかないが不満を持つ1期生に成り代わり気になる点をいくつか指摘していくことから始めたい。
まずはこの文章の肝である「擬日常」という言葉を必要とした理由として「日常と非日常といった既存の構図で社会を捉えるのに限界があると考えるから」と、書かれている。が、我々は本当に、こういった二項対立で社会を捉え続けてきたのだろうか。だとすればポスト構造主義の成果などまるで無に等しいということになる。実際のところは根強く、あらゆる場所に二項対立はいまだはびこっており、上北自身もこの文章の中で普通に論証の武器として使用している。
例えば「決定の遅延」に関する5章においてその傾向は顕著で、監視カメラの有無によって「視線」を、SNS時代と近代以前という二項対立で比較して匿名性の相違を説明している。それにしても、ここで二項対立を使うのであればSNS普及前/後、もしくは後の文脈も考慮すればインターネット普及前/後であって、何故近代以前まで遡る必要があるのか。それはひとまず措くとして「インターネットは私たちの生活に「決定の遅延」を及ぼす」と上北は言うのだが、意志の決定とそれに伴う行為の先送りは、インターネットとまったく関係のない次元の話ではないのか。『デッドデッドデーモンズ』作中の彼女たちは(括弧付きで私たちもとあるが)しばしばLINEで連絡を取り合い、渋谷で待ち合わせする際に細かく場所と時間を指定する必要はなく、後で決めればいいと感じていることを「決定の遅延」の例えとして挙げているが、「後で決めればいい」ということも「決定」であることに変わりはなく、その速度はむしろ確実に上がっているのではないか。そもそもその前の段階の「連絡を取り合う」時点で、格段に速度はあがっていると思われるのだが。
このような上滑りの議論において提出される、死者に対する「取り返しのつかなさ」というものが「擬日常の社会においてかつてないほどの重みを持つ」などという謂いが、著しく説得力を欠くものとなるのは必然である。彼の用いる極端な二項対立的思考法はまるで、インターネットがなかった時代の人々は即断即決即行動を旨として日々暮しているかのようであるし、「取り返しのつかなさ」という「重み」がインターネット時代に比して軽いかのような物言いである。いつの時代であれ、どんな社会状況であれ、死者に対するその「重み」が変わらないことは言うまでもないことである。
先ほども引用した部分ではあるが「日常と非日常といった既存の構図で社会を捉えるのに限界があると考えるから」上北はこの論を起こしたのだろうし、それは最終章冒頭の「現代の社会を「擬日常」として捉え直せ、というのがこの論考の主張である」と自身で力強く宣言しているのだから、彼の一番の関心が従来とは異なる視点からの社会の把捉、であることは疑いようがない。
アドルノやベンヤミンといったフランクフルト学派やカルチュラル・スタディーズを通過した現在、社会学的な手法で文学や芸術全般を論じることは当たり前のようになっているが、元来「普遍」や「一般」を志向する社会科学と、芸術全般の相性はすこぶる悪いものである。量産されるカルスタ系論文のつまらなさというのは、自分の持ち合わせている理論や形式の効力を証明したいがための材料として任意の作品を選び出し、「こんなにきれいに説明できちゃいました」と言いたい訳であるから、そこには逸脱や驚きというものが発生する余地がなく、つまりは結果、結論のわかっている出来レースをただ眺めているだけ、というつまらなさ、なのである。そして、その任意の作品というのはいくらでも置き換えが可能であり、その置き換えが広範かつ大量に可能であればあるだけ、その説明理論の強度を上げていくことになる。
だが、批評とは、少なくとも私の目指す批評とは、むしろ逸脱や驚きを愛し、「普遍」や「一般」に回収されない何ものかを浮き立たせること、簡単には置き換えなどされ得ない、安易な類型化など許されないように、その作品の個を尊重し輝かせること、またはその営為に喜びや楽しみ、時には怒りや哀しみや苦しみをも見出すこと、である。
私の批評観などはどうでもいいが、上北は社会の把捉、特に「社会」という言葉に捕らわれるあまり、出来レースへの陥穽にはまってしまっているのではないか。もし『花と奥たん』や『デッドデッドデーモンズ』に何らかの特異性を見出し、それを際立たせたいのであれば、Amazonのレコメンドシステム、監視カメラ、SNS云々などという最早クリシェと化してしまったような情報社会論的な枠組みで論証を試みてはならないはずだ。それは「普遍」や「一般」に容易に回収させる手続きに他ならない。どうしてもその枠組みを持ち出すのであれば、その枠組みでは説明しきれない、はみ出してしまう何ものかを提示し、強調すべきであったのだ。残念なことに、上北は3章において早々に『機動警察パトレイバー2theMovie』をはじめとした諸作品を挙げ、『花と奥たん』や『デッドデッドデーモンズ』との共通性のみを説明し、その差異を説明していないことから、既にこの時点で作品の置き換えが容易に可能であることを自ら示唆してしまっている。これでは今回選んだ2作品は、単なる「嗜好」の問題であると判断せざるを得まい。
ここまで1期生の怨念に憑依されながら、色々と瑕疵を指摘してきたが、悪意に満ちた揚げ足とりはここら辺でやめにしておきたい。私自身も不毛である。
ここからは『擬日常論』を何度も何度も熟読した後の、『擬日常論』論である。
私は当初、この論文に対して、欠点探しのような態度で臨んでいたように思う。それはまさに学術論文を査読するかのような手つきで。そしてその欠点の多さ、論理の破綻に愕然とし、まずは筆者上北千明自身の実力に疑いを持ったので、彼が提出した過去の課題をすべて読み直してみた。何ということはない。特に破綻もなくしっかりとした文章を書ける人であり、その実力を明確に認識できた。ではなぜ同じ人が書いているとは思われないような混乱に満ちた、支離滅裂な『擬日常論』が出来上がってしまったのか。
単に長文を書くことに慣れていないという経験的な問題もあるのだろうが、読者が一番困惑するのは、読解の鍵となる「日常」「非日常」そして「擬日常」という頻出する3つの言葉が文中において、その使われ方が一様でないこと、一貫性がないということだ。その理由として書き手自身がこれらの言葉をしっかりと定義付けていない、ということが考えられる。だが仮に「日常」「非日常」の2語だけであれば恐らくは定義付けなどあえて文中でなされずとも、慣習的にこの語のもつ意味は共通概念として読者に認識されるだろう。書き手自身もその使用において混乱は起こらないものと考えられる。そもそも二項対立とは複雑にすぎる現実世界の議論を単純化し整理する分析手法でもあるのだから。
そう、すべては「擬日常」という1語、たったこの1語を挿入したがために、複雑性は呼び戻されてしまったのだ。パルマコンとしての「擬日常」。そしてその混沌の渦は、筆者上北を、そして今この文章をしたためている私自身をも、否応なく巻き込んでいく。
私は先に、死者に対する「取り返しのつかなさ」というものが「擬日常の社会においてかつてないほどの重みを持つ」という上北の謂いに、いつの時代であれ、どんな社会状況であれ、死者に対するその「重み」が変わらないことは言うまでもない、と言った。言うまでもないことを言うというこの矛盾。本当に言うまでもないことなのか思考してみる。はたと思いつく。「脳死」はどうなのか、と。
一方では死と判定された脳死患者の臓器は取り出されて他者へと移植される。しかしその一方で脳死患者の出産、という報道を目の当たりにする。これはいったいどういうことなのだ?脳死者たちは生きているのか、死んでいるのか?脳死の判定基準は各国異なることを鑑みれば、死の「重み」というものは完全に時代やその時々の社会に左右される。人間においてもっとも根本的で基礎的な生/死という二項対立は、「脳死」という両義的で、決定不可能なパルマコンの出現により、今現在、完全なゆらぎの状態にあり、その自明性は失われている。人間の臓器は心停止により血液の循環が止まった時点で、あっという間に劣化し、ほとんどの臓器は移植に利用できなくなってしまう。「脳死」という呼称は臓器移植推進派が、心臓が動いているうちに新鮮な臓器を取り出したいがために造り出された、イデオロギーに満ちた呼称である。その患者の状態を指し示すには「脳不全」という言葉が妥当であり、「脳死」という語はあくまでも暫定的なものであることは記しておかねばならない。
なぜなら「擬日常」という語もまったく暫定的であるし、またそうあらねばならないからだ。
別のところで私は、彼〔上北〕の一番の関心が従来とは異なる視点からの社会の把捉、であることは疑いようがないと書いた。本当に疑いようがないのだろうか。改めて彼の文章に目を落とし、混沌の渦へと巻き込まれてみる。すると一読しただけでは気付かなかった矛盾点が新たに浮かび上がってきた。
当初まったくの蛇足と思われた4章における宮台真司の「終わりなき日常」と「擬日常」との比較箇所で、上北は「社会はどうあれ自分はこうある」と考えるレベルにおいて等しい、と書いている。これはいったいどういうことなのだ?「社会はどうあれ」などと言って社会を捨象してしまうのであれば、現代の社会を「擬日常」として捉え直す必要などまったくないではないか。同じような記述は6章の終わり部分にも顔を出す。「他人や社会がどうであれ、自分にとってはかけがえのないのだという感覚が内的な確かさを生む」などと。この論考の最後の最後で上北は、3.11を顧みて感傷的な文章を記してはいるが、実のところ無意識理に、社会などどうでもいい、関心があるのは自分がどうあるかだけ、と思っているのではないか?作中の人物を語っているつもりが、いつのまにか自分を語っていやしないか?最終章にて「絶滅の確率(いつでも起こり得る)を知るということは、ときには人間を解放する」とある。「解放」などと書くとかっこよく感じるが、言い換えれば「開き直り」若しくは「やけくそ」であり、絶滅の思考というのは最後に0(ゼロ)を掛けてしまう哲学であり、端的にニヒリズムである。浮かび上がる人物像を称するならば「社会などにはお構いなしの自己中心的やけくそニヒリスト」である。ああ上北、その矛盾なる存在よ(余談ではあるが個人的にこういう人間は嫌いではなく、むしろ好ましい)。
もう一つだけ、脱力必死の決定的な矛盾点を指摘する。3章において柳田國男云々を持ち出し、日常と非日常が交互に訪れるような近代以前の社会における時間感覚をくさしておきながら、最終章では中沢新一を引用して近代以前の感覚を取り戻すという…。
こうして作中世界と現実世界、作中人物と筆者自身が線引きのないまま、議論は入り乱れ、混沌に身を任せながら最後まで矛盾を貫き通し、上北は力尽きる。だがそれで良い。私自身も最早この批評文を論じているのか、上北千明を論じているのか分からないという転倒を起こしつつも結語へと向かいたい。
上北はこの批評文を何度も何度も書き直したのであろう。恐らく第一稿はここまでの破綻もなければ、混乱もしていなかったのではないだろうか。その混乱への道筋が、何度も何度も読んだ私には見えるような気がする。「擬日常」というパルマコンに毒されていくその道行が。「擬日常」という語がこの文章を破綻に導いたが、同時に「擬日常」という語がこの批評文の価値を決定づけていることは間違いないのだ。
決して「擬日常」を日常と非日常という語の統合として措定してはならない。そのような弁証法的手続きによる新概念の創出は、即座に疑似の対義語である真性の意を纏った、言わば「真日常」という対立概念を生み出し、新たな二項対立を形成するだけである。ただ漂わせろ。ただし必ず目の届くところで、その存在を感じとれるところで。呼称などはどうでもよい。そのゆらぎの中で思考し、批評しろ。
私の『擬日常論』に対する読みは、もちろん筆者である上北の意図したものとはかけ離れているだろう。一読して、ただの駄論に感じた私が、勝手に価値を付与しただけのものだ。これからの批評再生塾における数ヶ月の間に、私の文章も幾ばくかの人々に読まれ、勝手に価値付けされていくことだろう。そしてそれらの文章はいずれ消え去る運命にある。ただその痕跡のみを残して。無論まったく痕跡を残せない文章も数多ある。願わくば、できるだけ多くの痕跡を強く残したい。その痕跡はその文章の不在を想起させ、現前の可能性を保持し続けるのだから。
批評再生塾に望むことは、あまり競争を煽るようなことはしていただきたくない。1期の最終講評会が如実に物語ったように、ただたまたま選ぶ立場にあった人々が、ただ気に入ったものを選んだ、それだけのことだ。
文字数:5497