クドカン論~「社会派ドラマ」に憑かれた視聴者~
日本テレビは宮藤官九郎脚本の最新ドラマ『ゆとりですが、なにか』を、「クドカン初の社会派テレビドラマ」というコピーで売り出した。たしかにクドカンの代表作といえば『木更津キャッツアイ』『あまちゃん』であり、10代の主人公が成長していく青春コメディドラマがイメージされる。
『ゆとりですが、なにか』は、青春時代を終えた社会人6~7年目が主人公であり、クドカンが、パワハラ、妊活、就活、転勤、モンスターペアレンツ…と「社会問題」と叫ばれるものを直接題材にするのは初めてだともっともらしい説が多くある。けれども、私はそう思わない。
ひとつ前のテレビ作品「ごめんね、青春」は、静岡の高校を舞台にした学園コメディドラマであった。たしかにテレビ番組ジャンルでいればその通りだが、一見青春ギャグストーリーのように見せかけ、「婚活」という社会問題を初めてクドカンが描いたことのほうがはるかに重要である。
「ごめんね、青春」は、静岡の仏教系男子高校とミッション系女子高校が少子化対策で合併するというあらすじをもったドラマである。ジャニーズ錦戸亮が演じる男子高校教師と、女優 満島ひかりが演じるシスター女子高教師が同じクラスで教壇にたつことになり、お互いの教育方針の違いからぶつかりあい、クラス内の男女高校生が恋愛模様を繰り広げるコメディドラマだとドラマファンはいう。
しかし、ひとはなぜ「コメディドラマ」というようなスタティックなジャンルをあてはめるかわりに、『ごめんね、青春』という作品に対して素手で向かわないのだろうか。なぜそれをクドカンからなげかけられた社会問題とみるかわりに、「青春群像劇」「学園コメディ」の一こまとしてみるのだろうか。
満島ひかり演ずるシスター「蜂矢りさ」は、生まれたときから女子校育ち。高校時代はブラックタイガーというあだ名で呼ばれた暴れん坊で、地元で恐れられてきた。女子大に進みそのまま女子高の教師になった。男顔負けのサバサバした性格をしており決断力もある。一方錦戸亮が演ずる男子校教師「原平助」を優柔不断な男である。男子校と女子高の合併で同じクラスの担任として働くが、蜂屋りさはなよなよした原平助を忌み嫌う。
嫌いなタイプだと思い込んでいた男性と長い時間を過ごすうちに誤解がとけ好意をいだくようになるというのが「青春ラブコメディー」の流れである。しかし『ごめんね、青春』では、蜂矢りさは原平助を嫌いなうちから結婚相手になってほしいと逆プロポーズをする。理由は明確で、地元の女子高生の間で「路線バスで同じ手すりを持った異性と結婚する」と言い伝えられてきた土着信仰を蜂矢りさが信じており、原平助とバスの手すりで手を重ねたからである。婚約者と決まった原平助をどうしても好きになれない蜂矢りさは、彼の長所さがしに必死になる。
現代で婚活といえばアプリや結婚紹介所、知人の紹介が主流であるが、年収や第一子か、大企業勤務か、家柄は、マンションは購入しているのか否かなど先に条件を積み重ね、相手がどこまで条件をカバーしているかを確認する傾向にある。綿矢りさはその真逆で婚活をしているのだ。一見、前近代風、滑稽に見える蜂矢りさの行動を通して、クドカンはなんでも条件で人をランク付けていく日本の格差社会化のほうが滑稽だと訴えたのだ。
日本のテレビドラマファンの多くは、視聴率の数値の中だけで思考している。『半沢直樹』など「社会派ドラマ」を好む団塊の世代が多く見るTBS「日曜劇場」の枠に合わず、「ごめんね、青春」は視聴率が悪かったという。いうまでもなく、これは視聴率の数値だけを志井の発想である。
『ゆとりですが、なにか』はクドカンが婚活や格差社会という社会問題に言及していたという事実を的確に察知した日本テレビが、視聴者によりわかりやすい直接的なテーマで焼き直したにすぎないのである。
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