まわるまわるよ時代はまわる:昭和91年 川端康成世代の、借り物と土着のミックス感覚がもどってきた
川端康成世代の和洋折衷モダンぶりがかっこいい
第1回の課題提出がさしせまる週末。現実逃避で(!)東京駅ステーションギャラリー「川端康成コレクション 伝統とモダニズム」展にいってきた。川端康成は美術品をたくさん買っていた人だそう。当時の最先端現代アート、草間彌生の絵画から、めっちゃ古代の土偶や埴輪まで幅広い蒐集をしていた川端康成の美術品をずらっと公開!という展覧会だ。
課題の締め切り間際に、なぜこの展覧会にわざわざ行ったのか?それは、信頼できる能楽師の言葉が強烈に頭に残っていたからだ。
その能楽師は30代。ちょっとふんばれば大企業にも就職できるような一流大学を卒業したにもかかわらず、学年でおそらく一人であろう就職先、能の家元を選んだ。彼はツェッペリンなどロックも大好きだが、そんな就職先を選ぶくらいだから、当然日本の伝統文化もめちゃくちゃ敬愛している。能楽師は言う。
「今の日本は本当にひどい。伝統文化を忘れどんどん高層ビルばっかりたててる。だけど、ひとつだけ日本をすくえる方法があると思ってる。昭和初期を生きた日本人のセンスをとことん参考にすることだよ!」
ちょうど川端康成世代。1899年(明治32年)生まれ。昭和初期には30代、1945年はアラフィフだった人たちだ。
「江戸時代を生きたおじいちゃんおばあちゃんがそばにいる。そして文明開化で極端な西洋化を急いだお父さんお母さん。その子どもたちが西洋、東洋両方の良さを落ち着いてミックスして30代をむかえた昭和初期。この時代の人のセンスはすごい。建築やインテリアも本当にかっこいいんだ。」
なんでも、彼が弟子入りした流派は第二次大戦前にめちゃくちゃモダンな能楽堂をもっていたという。最上階には浅草を一望できるラウンジとウィスキーが飲めるかっこいいバーがあったとか。(残念ながら空襲で跡形もなくなったそうだ。)
「いきなり平安時代に復古しようとか言っても、無理じゃん。平安人の感覚なんて、遠すぎてわからない。でも昭和初期の日本人の感覚なら、写真や映像の資料もたくさん残ってるから今ならたぐりよせることができるし。」
能楽師のこの主張を聞いてから、昭和初期の東西ミックス・モダン感覚へのあこがれが強まった。そこにきて展覧会のフライヤーも絶妙なバランスでしびれる!
19世紀フランスの彫刻家、ロダンの作品。和服の川端康成は、畳の上に作品を置きざぶとんに正座してまじまじと彫刻を見ている。背景にはピンボケしたふすまがうつっている。そんな和洋折衷なモダンな写真が大きくレイアウトされたフライヤーだ。
外で働くときは洋服とネクタイ、喫茶店でコーヒーをすする。家に帰れば和服に着替え、畳に腰を落ち着け、床の間に好きなものをかざっていた明治後期生まれの日本人。
川端康成:斬新なデザインの装丁をたのんだ30代、縄文土器から現代アートまで幅広く美術品をあつめた50代
先述の展覧会によると、川端康成が文壇デビューしたてのころは、日本の前衛美術作家たちと仲良くしていたらしい。川端の著書の装丁も、構成主義やアールデコなどの洒脱なデザインが多かった。30代の彼が美術作家たちと、ダダ、シュールレアリズムの話などで日々もりあがっていた日記も残っている。50代になると、土偶や埴輪や仏像、江戸時代の文人画、尾形光琳のモダンなデザインの水墨画(かっこよかった!)など幅広い蒐集をしたそうだ。
吉田雅史氏が指摘するKOHHの和洋折衷感覚
と、休日に展覧会を満喫して帰宅。まだ課題のテーマさえ見つけてなかった私は焦りつつ1期総代・吉田雅史氏の最終課題「漏出するリアル 〜KOHHのオントロジー〜」を読む。するとビビビビッと繋がったのだ、川端康成のコレクションとKOHHのリリックが!!!!!
吉田氏は最終課題で、アメリカでうまれたヒップホップが日本の輸入され30年たった歴史を「昭和90年」として総括している。
吉田氏のメインテーマは日本語ラップの歌詞(リリック)の内容。おもに「悲哀」や「リアル」についてであった。しかし今回は、吉田氏がサブテーマで扱っていた韻についてとりあげたい。
吉田氏は、「ラップをラップたらしめている条件/規律の一つに「押韻」がある。韻を踏むという最低限のルールにこそ、ラップの面白さがあり、それを基盤に発展してきた経緯があると言っても過言ではない。」と言っている。
ヒップホップに詳しくない人でも、Dragon Ash大ヒット曲「GRATEFUL DAYS」でZEEBRAがラップした
「俺は東京生まれ HIPHOP育ち 悪そうな奴らは だいたい友達」
このフレーズは強烈に覚えているのではないだろうか。もはや日常会話で「悪そうなやつらはだいたい友達、的なアレでさ」などと使う定番慣用句(!)である。
わざわざ説明するまでもなく、このリリックは「そだち」と「(と)もだち」と韻をふんでいる。日本のお茶の間のヒップホップはここから始まったといっても過言ではない。
…脱線した。
吉田氏によると、日本語ラップの韻は「1995年のキングギドラのアルバム『空からの力』の影響力は大きい」らしい。「彼らは韻の方程式を(アメリカから)輸入し、教科書化した。」そうだ。
頭脳旅行中 集めた記録 地獄の黙示録見抜く透視力
調子良く見える現実も 実は連日の 演技中
三つめの目で見つめ 韻踏み メンタルな面ある三人組
日本列島誰の国 大統領のつかむ襟首
コケのむすまで待っては御陀仏われまくる
バブルかぶるトラブル 振るまで怒りうけるおしかり
雲の隙間から空からの光
計算された神の数学 返り討ちする悪魔の誘惑
不正許さねえ深い祈り 全ての力を人々に
(キングギドラ「空からの力pt2」)
(中略)
吉田氏曰く「キングギドラのライン然り、しばしば一気呵成に連続する押韻は、漢字二文字〜三文字の音読みの単語であるケースが散見される。」象徴的なふれーずをとりあげてみよう。気に入ったから3回リピートします!
計算された神の数学 返り討ちする悪魔の誘惑
計算された神の数学 返り討ちする悪魔の誘惑
計算された神の数学 返り討ちする悪魔の誘惑
「すうがく」「ゆうわく」が韻踏んでいる。自分がいま気の置けない友達とカラオケにいっていたら、かっこよく口に出してみたいフレーズだ!しかし、ここでいう「神の数学」ってなんだろう?「悪魔の誘惑」ってなに?真の意味を答えろと言われたら、ぐうの音もでない。
なんかかっこいいけど、意味が腹にまで落ちてこない日本語ラップ。この点を吉田氏は、二文字の漢字熟語にあると指摘している。
「近代日本成立の過程には、翻訳語の確立があった。私たちは、西欧の抽象概念を輸入するのに、二文字の漢字で造語を作った。自由、精神、社会、常識、環境、状況、疎外、無数の言葉たち。」
「漢字は古代に中国から伝わりました。」と小学校で習って以来の衝撃。私たちが良く使っている熟語は、たった200年前そこらに焦って翻訳されたものばかりだというのだ。松尾芭蕉も千利休も一休も、平将門も使っていなかった熟語なのか!
吉田氏は、歴史の浅い二文字熟語へのディスりをさらに続ける。「柳田国男が『標準語と方言』(1949年)の中で、少女ですら「関係だの例外だの全然など反対など」の漢語を乱用ししていることを「悪い趣味」だと嘆いているが、」
なんと!第二次大戦直後は、少女が二文字熟語を口に出すと悪趣味だと思われていたのか。今なら、カタカナ用語を乱用して何をいってるのかわからないインチキくさいコンサル野郎のメッセージのようなものか。たとえば…
「オウンドメディアでユーザーとのコミュニケーションをインテグレートすることでタッチポイントを最適化しハッピーにします。」
的な。はあ、そうですか。ポカーン。
吉田氏は続ける。
「これらの翻訳語は、当時の訳者たちによって造られたものであり、原語との間には必ずズレがある。私たちは(中略)翻訳語の意味を未だに本当に理解している訳でもないのだ。
そしてこれらの二文字の漢字からなる抽象的な翻訳語は、難解で、何やら価値がありそうに見えるため、社会において乱発される。」
借り物だと気づけないくらい、身の回りにひそむ歴史の浅い二文字熟語。熟語の韻でドヤ顔する日本語ラップが長く続いてきたなか、新しいタイプのラッパーがあらわれたという。それが、吉田氏が最終課題で紹介したKOHHだ!!!
生きてるほうが いいな 明日よりも 今
破れてるジーパン 履いてる 吸って 吐いてく
寝たいから 寝る どっかでまた いい体験する
買ったばっかりのアクネのTシャツ いい服 着て行きたい
(KOHH「If I Die Tonight」)
「しかしKOHHのリリックはどうだろう。彼の削ぎ落とされたリリックに、翻訳語や抽象語が用いられることは稀である。しかし父を早くに亡くし母親の薬物依存問題とも対峙せざるを得なかった彼は、近しい友人たちとの関係性に見る「家庭」、近視眼的だが満ち足りた世界に寄り添いながらリリックを紡ぐ。「親がいなくったてダチは作れる」(Anarchy feat. KOHH「Moon Child」)のだ。」
吉田氏はていねいな解説を付けてくれている。
「翻訳論学者の柳父章は、societyに対してあてがう「社会」と「世間/世の中」の違いは、「難しい言葉」と「やさしい言葉」の差異ではなく、「作られた言葉」と「歴史の中に生きてきた言葉」のそれだと述べている。「世間」や「世の中」には「豊かな語感があり」「現実の生きた事象の裏打ちが伴っている」のである。」
少々乱暴に話をつなげる。先述の川端康成世代がもっていた、江戸時代からつづく自国の美的センスと、ヨーロッパの現代アートのセンスをバランスよくつかめていた力。川端世代は明治時代に輸入してきた欧米の文化はほどほどに、江戸時代を実際に生きた祖父・祖母がもっていた土着の歴史の中に生きたセンスの中で呼吸していたにちがいない。
川端康成の1925年著作「新進作家の新傾向解説」にはこう書いている。
「自分があるので天地万物が存在する、自分の主観のうちに天地万物がある、という気持ちで物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。ここに新しい喜びがある。」
昭和91年となった今、同じ現象がいろいろな分野でループし始めている。日本語ラップだけではない。ヨーロッパからアメリカから輸入し続けてきた借り物の音楽、思想、美術は味気ないと感じる世代がうまれている。「近視眼的だが満ち足りた世界」や、長い歴史と土着の生き続けてきたセンスで物を生み出す人が増えていくにちがいない。
今回の2期の授業は、そんな観点で受講したい。(ああ、2文字熟語を連発してる!)
※1:日本語ラップグループRhymester(ライムスター)の1993年ファースト・アルバム『俺に言わせりゃ』より
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