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疎隔批評宣言

 

 Ⅰ

「宣言」はアジテーションである前に、自立し、客観的に動きはじめるための文章として必要だが、純粋な「宣言」が自立するには明らかに言葉が経験を超えた超越的な場所に切り開かれることが必要なのであり、それは「私」が書くこととは矛盾する。だから、私が共感できるようなものがまだそこに含まれている場所に真に客観的な「宣言」などあるわけがない。(そう考えれば「表層批評宣言」を打ち立てた蓮實重彦がそれを実行することは拒むというのはありそうなことだ。)およそ一人で書かれた法というのは存在しないように、「宣言」とは非人称で扱われる概念であるべきなのだ。

 なるほどそう考えてみれば、豈図らんや、この試みの難度が窺い知れるというものだ。 かてて加えて、宣言(manifest)には実例を付せ、と来れば、およそ先例に、宣言どおりにことが進んだことなどないことが思い出される。選挙公約からあの有名なカントの人権宣言まで、すべての宣言は位置取りの前段階(pro-position)としての提案にあるものだ。その関係の成立も、私がその宣言の主体を取るという奇妙な矛盾に基づいている。つまり、公約としての文章に実践など介入する余地はないはずであり、「宣言」とは個々の努力を超越していなければならない。だがとにかくやってみよう。

しかるにこれから私が描く宣言とは、おそらく、あの星を指差すようなやり方をもって、終らなければならない。

Ⅱ 

『疎隔批評宣言』

 我々はまんじりともせず見据えなければならないだろう。現今、叫ばれている批評の不要とは、すなわちフィクションの不要に根ざしているということを。人文学の不要、現実への言及の不要、社会の不要、まずは誰しもにとって闇裏に共有されたこの見解について短く、しかし扇情的に言及することで、宣言の口火を切るとしたい。

 実業家達の啓発本をわざわざ開くまでもなく、今自らこそ先鋭の新人類であると自認する人々が創出しているようで消費しているのは、自分だけが表象の冒険者であるという、最も現代に適応した利口な選択である。彼らはまさに表象のサーファーと呼ぶべきだろう。軽快で洒脱で、何にも縛られない、生きうべき現実を、広告と教育の力を借りて、ひらりひらりと乗り換える。当然彼等の主観では何も信じる必要はなく、宗教は世界の一元化を阻むもっとも忌むべきものであり、グローバル化の履行の上で国家は不要であると喝破する。しかし、そんなことがあるわけがない。フィクションの底が抜けるとは、即ち中世の大海の裂け目に比されるような、「わたしたちの」世界の終わりである。

 フィクションは社会の中に私を与えてくれるものであり、だからこそ、フィクションとは本来「顕れてはいけないが、存在しなければならないもの」、書きかけ不能であり、見えない回廊を通過し、人々の生に遍く行き渡ることで、その内容を充実させるものであり、また時に雷鳴のように新たなフィクションが裂け目を産み、瞬く間に布陣を入れ替えるような混濁した場所であった。

 しかし経済人、科学人、即ち現代人たちは、自分が存在の瞬間から見守られながら、なおフィクションなど必要ないなどと喝破している。 もしそうであるならば、国家との象徴的同化(産み、育て、国力を増す)やスノビズム(「父がその父を繰り返したように、私も父を繰り返そう」)の力を、あるいは宗教の持つ古典的なテキストという準拠の世界観の付与を笑わなければならない。あるいはフィクションという意味の協定など信じないと我々が迂闊にも宣告し、それを履行するとは、この宇宙がその一端の緊張を手放して、ある日ぐにゃぐにゃとその結び目が解けていくような瞬間へと続く現実の可能性を、当然のことのように日常に受け入れる(Q・メイヤスー)、その開かれた知覚の圧倒的な権能を瞬間ごとに自分に与えながら、なお発狂せずそれを鷹揚と受け入れるということである。それには絶えるということはない。フィクションを笑うということは、底が抜けるまで超人的に笑い飛ばすか、なお無底を探る地下への旅に漕ぎ出さなければならないのだ。だが、そんな笑いに耐えられる人間がいるだろう、いや一度でも瞬きせずに、あの恐るべき極寒を直視したことがあるのか。

 このような「神の終わり」への問答は、愚にもつかない逍遥だろうか。いや、最も卑近な話をすれば、それは人生の意味の問題であり、まさに2つは絶対に同じ言語を使うことを拒みながら、同じ手縄を引きあって崖を下っている。例えば今、深夜のコンビニに屯するドロップアウトした若者たち、就職の苦難どころか、積極的かつ能動的に社会参画することにすら素朴な懐疑を抱いてしまう人たち、もはや自分の想像する未来にいかなる肯定もできなくなったものたち。つまり大学や企業を主体とする人文学や社会学が「不良債権」「非文明化された人々」として扱いかねて放棄する一方で、生権力の方は「レッドオーシャン」としておだて、なんとかそこから国民力を引き出そうとしている人々。このような人々の中にも(いや、まさに彼らにこそ)自分がどのような夢を、どのような人生を、どのようなフィクションの中に休まればいいのかすら測りかね、心中穏やかでないまま日々を過ごしている者がいる。

 それらを用意したのは誰か。今や、かつてポストモダニストという言葉で尊敬され衆目を勝ち得た先達が用意した布置のおかげで、おぞましくも、誰もがポストモダニストなのだ。ドナルド・トランプが多様性を排し、それを指して「多様性の危機」などという言説が蔓延しきっているが、2つのどちらが高尚ということはなく、むしろその2つこそ完全に弛緩しきった「ポストモダニスト」的思考である。私が糾弾するのはドナルド・トランプ自身はもちろん、彼を取り巻く言説である。

 なぜだろうか。多様であることとは、今や、それぞれの存在を限界まで画一化し、相対化し、同じ規格の檻に分類することでしかない。それは一見、個々のマイノリティ(いや、もはやそれらこそマジョリティと呼ぶべきだが)を慮った共感の所作であるように映るだろう。だが今や、命じられ、区別され、配慮され、名を与えられることこそ、マイノリティの本懐であるようだ。全てが相対化され「存在しなくてもよいが、だからこそ存在せねばならぬ」ものとして異質であるからこそ愉快なものに堕していく。無限に明晰なものだけが、つまりは些末なものだけがある。全てが瑣末であると現表した場所では、人はただ宗教に帰依するもの、フェティッシュをもって意味を回収せんとするもの、ひたすらに書物の襞を押し広げるものをすべからく笑いながら、ついに自分こそは、瑣末であると判断しながら、自分がなぜ震えているのかわからない。多様性万歳、と言うべきだろうか。

 

ところで、これは、あの時代に、滂沱と流れる流麗な文章で、蓮實重彦が警句として与えた内容の全貌でもある。

「読むことは、思考がそうであったように喪失の体験からはじまり、自分は感知しえないところで起こっているその喪失を回復したところで動きをとめる健康への歩みなのだ。作者の思想がわかった、「作品」の意味が読めたという時点で完成させる過渡的な運動としての読むことが想像される文学体験が、何ら特殊なものではない点はそれで明らかであろう。そうした視点からすれば「作品」を読むとは、思考の退屈な日常にほかなるまい。」

 なるほど、等閑的な視線の享楽が、全てを、消費されるためのフィクション、より貶められた、都合の良い類型的なものに、我々の現実とは無関係なものに変えられてしまうところに、その警鐘は最もだろう。

 だがしかし、あの酸鼻を極める苦痛、あの語るべき言葉が滑り落ちていくような喘ぎを知ってか知らずか、彼は居直って、表層に敢えて留まることで、表象は、無限に「肯定」することでそれが「できるかのように」振る舞った。私はこの疎隔批評宣言を持って蓮實重彦を糾弾するが、「敢えて」深部を探らず、一どきりの新鮮な驚きにその度毎に身を任せることを推奨する彼の、真なる恐れとは、フィクションという船の底が既に抜けており、国家も宗教も否定し、はるかに混迷を極めた後の世界に我々が生きているのだということを強調しながら、なお外装ばかりを絢爛に精密にしていく作業で、最後に沈むまでの間ばかりは、少なくとも繁盛しているフリをしよう、沈んでいないフリをしようということでしかない。これは夜の無明の、密やかな黙祷の重要性を何度も端々で強調しながら、しかし同時に街の面の煌々と焚かれたショッピングモールの幻燈のほうを向く、虚飾の矛盾である。

 その実、彼を貫くのは、実質、古典的な二元論である。そしてそれは「意味の論理学」の「アリスの地下への冒険」のような「軽やかな」運動であるなどと。アリスの「ように」などと呼称することはできない。どういうことだろうか。

 「背後のない表面。のみならずも、われわれを決して背後にまで送り届けることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに?だが決して奥へ、あるいは底へではない。アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏側、つまりまたしても表面なのだ。」

 彼はこのようにうそぶく。事実、それは彼の手法を過たずうがっているだろう。

 

真の葛藤のありかを隠蔽することで大掛かりな思考収奪に加担するこうした「制度」的な言葉をここでとりあえず「排除と発見のディスクール(言説)」と呼んでみたい。混濁が透明に置き換えられねばならぬように、「真理」の前に「誤謬」を排除することで成立する言説、「真理」を発見さるべき未知なるものとして想定し、それを既知の領域へと以降しせめるべく、彼方へ、背後へ、奥へと進む運動を正当化する言説、不可視なるものを抽象的、可視なるものを具体的と断ずることに基盤をおく言説、非在郷での技術と精神の甘美な共存を夢想する言説、つまるところ、「批評」が指導する契機を永遠に延期しつづけるこの種の言説を、「排除と発見のディスクール」と呼びたいと思うのだ」

 

 このように説き、その逆の場所としてしかたちあがらない彼の位置(まさに、これは彼が逃げた先であるが)は、彼自身が強いて自らをそこに蕩尽するように、混濁したスープ状を保っている。その暖かくまたなんと心地よいことか。だがそこからはいかなる真理への勇気も見出すことはできない。どころか、彼が真理を拒んで戻ったぬかるんだ湿地、それこそが今や凡庸なのだ。

 アリスは確かに精神分析や性から離脱するように、次々と言葉の意味を剥がし音の調べに変えてしまうことで深部を撹乱するようだ。そのように読める。しかし、だからいまこそ無意味万歳であり、解釈は飽和し今こそアポリアである、とはどのような勇気で、あるいはどのような権利で言えるのだろうか。それは陰惨な地下の二元論から逃避したつもりのバーチャルリアリティーの多元論、真理の「不在」という、つまりまたしても二元論なのであり、彼は彼が非難する「制度」に完全に捉えられている。「形而上学と超越論的哲学に共通するものは、何よりも、両者がわれわれに押し付ける押し付ける二者択一である。すなわち、未分化な底、底ー無し、形態なき非ー存在、差異も特性もない深淵、さもなければ、主権者として個体化される(存在)、強烈に人格化される(形態)、という二者択一である。この(存在)やこの(形態)の外では、あなたにはカオスしかなかろう……、というわけである。」とドゥルーズが語るとおりだ。

 すでに十九世紀終わりには無底は主要な問題であり、ニーチェはまさに、このデュオニソス的な恐ろしさ、底なしの夜の不安に「悲劇の誕生」で触れていた。だがニーチェはそこで終わらず、また表面にむかいながらそこに留まらない。あくまで底との関係で、つまり「表面が、深層の目によって更新された観点から裁かれるべき」だと考え、「すべての洞窟、もっと広大なでもっと異様でもっと豊かな表面下の地下、一切の地底の底の、一切の地盤の彼方の深淵」を祈念していた。これは、ドゥルーズがアリスの運動を通して見据えていたものと同じ視線である。ここには底への恐れと共に克己がある。真理へのそれこそ底なしの喜びがある。このような運動をこそ、真に表象への勇気と呼ぶべきだろう。

 アリスは確かにポップ(人気=泡)である、アリスの物語を類した無数の翻案から、ディズニーを通した映像としてのアリス以後の無数のシミュラークルまで。しかし、アリス自身はもはや、手のつけられないほどに危険なポップであることと重ね合わせて考えねばならない。アリスが何よりもポップであることが、アリスはどれよりも不穏な暗がりを讃えていることの証左ではないのか?そしてここで切り取られているキャラクター的表象は、果たしてあの反ー意味的に危険なアリスの表象なのか?(もちろん、いくつかの非常に優れたアリスの翻案も存在する。)

 要するに、現今の表象の言説の中では、常に表象は「十分に顕れているために、あってもなくても構わない」ものへと密かに変貌させる。「表層批評宣言」は過たず実践されていることは、市場を見れば良い。たしかに広告は、キャッチコピーは、商品は、我々に尽きせぬ充足の備給を与えてくれると約束しているし、なんとそこには小さな哲学もある。だがそれは、極めて迂遠に、とある戦略として働く。それは作家にあっては小さな敗北ーー表象は深部と並び示されなければならないという難儀ーーに先回りした方向転換、また、それは表現の自由と多様性の獲得と表裏一体である。今や、我々は書き考えることの前に拝礼するためにまず、衆目の前で転び、おどけなければならない。書くことにはいかがしい底の漏出など何もないと証明しなければならない。アリスがポップであることですら、いまやルイス・キャロルが企てた、地下のいかがわしい報復とはつうじていないことの約束でもある。

 そしてこのような形式こそ公には自由と呼ばれている。自由、それは力の伴わない場所で与えられる、十分に洗練された無邪気な夜遊びであり、むしろ自由が無為に与えられる場所でこそ、表現は完全に捕えられているのだ。それを奨励するポストモダニストのデマゴーグこそが、本来生き馬の目を抜くようなやり方でしかありえなかったフィクションの自己否定をついに肯定した。そして予告された地獄が、フィクションの浪費が始まった。

 とはいえ、彼の時代にはこれほどフィクションがその自由のために無限に価値を滅しようとしているなどとは、夢々想像できなかったのかもしれない。しかし、これらが、これらこそが疎隔という言葉を与えかえす最も切実な理由である。我々は書くことを通して、確かにフィクションと表象に目を向けよう。だが、ポストモダニズム的な『あまりに典型的な』夜遊びの場で出会うことを余儀なくされるのではなく、そこから更に逃避し、そのような表象の戯れ自体を寿ぐのではなく、危険で、忌まわしく、もはや相貌をかいたあの元始の黄昏へと斥けなければならない。彼はアリスとドゥルーズの、文字通り浅瀬だけを拾ったのだ。彼はドゥルーズ・ガタリの「ポップ・ミュージック…ポップ哲学…ポップエクリチュール…しかし、それらは何に対してのポップなのか?」という言葉が示すヘラクレスの試練に似た切迫を、そのレーテーの川をあびることで忘却した。彼は壁を超えず、壁の上でバウンドし、元の木阿弥に帰っていったのだ。

 このほの暗い場所をもう一度祈念し、詳しく道筋を記載するならば、それは表象を通して、深部の底を突き抜け、全てに通じる底へ開けることを意味する。我々は今こそ表層哲学(つまり批評)の冒険を開始しなければならないのである。表層は長く勘違いされてきたのだ。タブローを、絵画のコンポジションを(あぁ、絵の具の糊は深部ではないのか!)スマートフォンを、表面を、穴があくまで見つめるのではない。表面とはそれ自体で自足せず、絶え間ない交換と通商の営まれる位相であり、無数のまったく別の表面は絶対に抽象化され、あらたな布置に置かれなければ、つまり底で出会わなければ、不憫な泡(ポップ)でしかない。そのたびごとの飽和と忘却は、彼の否定する「健康さ」の証明ではないのか。

 そしてまた、表面は最新ではない。それは「今こそ表層」「今は思索より表層が流行り」という文言の実践ではなく、最古にして最後の空間かもしれないのだ。それはポストモダニストという「極めて現代的な現代人」が万策尽きて手につけるようなやり方の、当座の代物ではない。だがしかし、その実私はこうも言わなければならない。ドゥルーズの発見したことは、おそらく表象の一つの判例である。それは記法の問題で、記法に任じた一つのアレンジメントがある。表象はあらゆる記法で主題にされる必要がある。換言するなら、明らかでないものを、その不確かさを表面に押し出してそれぞれの本の中で可視化する。もしくは明らかなものの中に、明らかではないものを発見しながら、それを対象に与え返す。疎隔とは不可思議ー前知識的であるからこそ今の世界には無価値で、しかしだからこそ、そこで止まらず、可能な限り有意義なものへ牽引すること。これがその試みの全容である。

 

 

 

 しかし、現代の我々が批評に向き合うとはやはり、豊潤な時代の営為とは無縁に、いまや無聊と、底の抜けた船の水をすくい続けるような膨大な言葉の抗いという形式をとるだろう。現代哲学の仕事が「フィクションを外部から定義する」ことであったなら、批評家の仕事とは、「フィクションを内部から豊かにする」ことにある。この二つの仕事は表裏一体である。さもなければ、かならず虚構は敗北するのだ。そしてフィクションはその両仕事を持って、どちらでもよいからこそ存在しなければならないものから退けられ、フィクションはあるべき権能を取り戻す必要がある。

 批評はフィクションを解釈し、世界を能動的に改稿する力を持っている。この力をまさに、ポストモダニストたちが「そんなものは存在しない」と『解釈する』ことで発揮したはずだ。そしてまたこれが、おそらくポストモダニストたちの最大の誤謬である。彼らが「ついに終わりが来た」と、「書くことではもう世界の解釈は変えられない、全てが虚しい、あとは表層しか無い」と書き、その通りに世界を解釈し変えること、このようなおぞましい自家撞着的方法でもって/彼等は常に自己矛盾なく達成する。「知識は虚しい」「学問が/研究が/文学が/批評が/終わる」などという嘆息し、その虚しさを矢継ぎ早に肯定することによって。そしてまたこれが、おそらくどの表現よりさきに、書くことが額づき、誰の心も射止めなくなり、表現の権能を剥奪されつつある理由である。また、これが書くことは今や、他のどの表現よりも先に保身的になった理由である。そして日本において言論の自由などということがインテリの座学でしかない理由である。

 なぜ、書くことは今や非力になったのだろう。「読者がいなくなった」とか「思想はもう無意味だ」など、違う。それは繰り返すが、今真に表現することをその危険に巻き込むような表現を秘めた人がいかなる脱出も、危ういものも含まずに、だれも巻き込まないよう、隣の人の迷惑にならないように、声をそばだてて書いているからだ。間違いなくこのような時代に書かれた、往年に匹敵するような異彩は潜められている。書くことは多かれ少なかれフェティッシュの腕に抱かれている。一方で多くの「私」は甘ったるい感傷やむず痒いような社会への不信感を発露することを隠さない。彼らは「私」と書くが、一体その「私」はどれほどに「私」なのか?

 

 むしろそのような「私」を徹底的に滅却した場所にあってこそ、その非人称の情熱がかならず漏出する可能性に賭けるべきだろう。これは、「身体がその統一性を失い、自我がその同一性を失うと同時に、言葉は、その指示機能(言葉なりの統体性)を失って、純粋に表現的な価値を取り戻す瞬間であり、クロウスキーの言い方では、「情動的な」価値を発見する。この価値は、自己を表現したり感動させられたりする誰かにとっての価値ではなく、純粋な表現されるもの、純粋な動きや純粋な「精神」すなわち、前ー個体的な特異性としての意味、他の強度を横切って自己に再起する強度の価値」だとドゥルーズは言った。ここにあるのは、もはや表象でも深部でもなく、表象は深部を巻き込み循環し、あらたなプログラムとなる。このような中心した脱輪した円環を創出することも、また疎隔が得る可能性だと示唆したい。

 

 そのような名も無き人々の作品の情動を発見し抽象化すること。明らかにそれは批評の一つの役割だが、それにもまして、書くこと自体と批評は出会わなければならない。人は書くことであきらかに夢やとまどいのなかにあることを終える。仮に彼がまだ薄明けに目をこすっているとしても、そこには表現することへの与し得ぬ情熱と、表現しえないことへの尽きせぬ畏れがある。そうだ、とまどいに関するおわらない、夢のように長い言葉の連なりは、明らかにとまどいや余白とは真逆の方向を向く。それは例え不可知と世界の無意義に対峙したときにも、どのようなかたちであれ、それを「不在」とは、一言では言い表さないのだという抵抗でなければならない。そしてその臆病さ故に最後に「構成」への不遇な回収へ行き着くとしても、ひとり自らの文体と理路の通底において、「書くこと」自体において、余人がどのように否定しようと、蓮實重彦はまさにこの点では妥協なく批評家だった。

 

 

以下が短い宣言の更に短い統括である。

 

『私は宣言する。表現すること自体の炎のような漏出と、それがもたらす危険なフィクションの演舞に魅せられながら、ついにその炎を隠蔽し、高尚さと技術でもって取り繕い、 先手を打ってうなだれて見せ、危機的なものの漏出を巧妙に避け、書くことの倦怠という気だるい媚態でもって読者を巻き込むもの、これが今批評にかかる暗雲であり、こんな悪癖は取り払われなければならない。現れた瞬間に「書くことはもはや万策尽きた」とか「言葉こそ今や不要である」などと語る、このような方法を贖うため、表象はより深い表象へと向かわねばならない。』

 

以上。だがこの短い宣言は、間違いなく最終課題として想定されていた、並び比べ、競合に向けて審美されるという宣言を書けという、闇裏な目的に逆らう意図で書かれた、結果的にはそうなってしまった。結局、宣言とは漏出するように極まった場所で書かれるのか、さもなくばその文言に責任と本心の不在を装うみじめな媚態を装うものでしかない。再び繰り返すが、宣言とはとくに面白みもなく、それが当然のことになる未来を祈念して、大真面目に書かれなければならない。私は今まで存在した宣言に忠実にならったまでだ。さもなくばそれは抱負でしかない。

 

この宣言は賛同するに値するものであるか。余人に乞う。

文字数:9424

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