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自己啓発 あるいは「幸福」という主題の変奏

彼は最初小声でつぶやくように歌っていたが、やがて大声でちからいっぱいに歌った。彼のバリトンには柔らかみはなかったが、きょうは自分の声が美しく思われ、歌っているうちに、次第に興奮していった。歌い始めたときの調子が高すぎた場合には裏声まで張り上げたが、それすら彼には美しく思われた。歌詞が思い出せない場合には、意味に頓着せず、何かの言葉や文句をメロディーに添えてごかまし、声楽科のような口の格好でrの口蓋音を派手に際立たせて、無意味な言葉や文句を歌いあげた。しまいには、歌詞も旋律も即興の、そういう自作の唄を、オペラ歌手のように腕を広げてうたいさえした。斜面を上りながら唄を歌うのは、ひどく骨の折れる仕事であって、すぐに息切れがして、呼吸がますます困難になってきた。それでも唄の美しさに奉仕しようという理想主義から、自分の苦痛を我慢し、激しくあえぎながら、なおも声をふりしぼったので、ついに極度の息切れから何も見えなくなってしまって、眼前に火花のようなものがちらちらし、脈拍は飛ぶように早く、とうとう彼は太い松の根の方に、くたくたになって座り込んでしまった。
トーマス・マン「魔の山」(新潮文庫)

 

自己啓発書とはすべて、幸福に関する書物である。それらは幸福に関する無数の実践の書である。…そもそも幸福ということ自体は、万人の問題ではない。幸せで充足していると感じる人間はそもそも自己啓発書など手に取らない。それならば自己啓発書とはそもそも不幸で自らに未熟を感じる人間に充てられているということになる。しかし閾値を超えた不幸や悩み、閉塞感を抱えた人間にとって、自己を貫く悩みを見つめることなしに筋肉や社交性を補強するというのは、本当は奥歯が痛いのに、右足の脛をさするようなものだ。一方、悩みのタネである不安や希死念慮というものは長く哲学では重要視されてきた概念だった。不安は自らの現存在に気付くまたとない好機だった。しかし自己啓発書は多くの場合、そのような不安や自殺に向かう心を紛らわし解消する特効薬として機能する。ということは自己啓発書とは、ある種の鬱屈を紛らわせるようなものであるということになる。

 

あれだけ大部を割いて「絶望論」を執筆したショーペンハウアーが自著「幸福論」で書いた内容は結局の所、「幸福とは何かときかれれば、迷信と健康ということしかない」ことを示唆している。これは非常に彼らしいやり方で自己啓発的だ。自己啓発書の中の切り離せない迷信という問題も、幸福というのがひとつの「迷信」によって支えられているという彼の指摘によって註解されるだろう。

 

それでは多くの場合、我々は、自己啓発本を通して本当は何を手に入れているのか。おそらく二つの可能性が考えられる。①、我々は指南ではなく諸処の思想的身体・思考法的身体・ダイエット的な身体の幻像(ファンタスマゴリア)を買うのだ。これはもっとも直接に備給されるポルノグラフィーである(ポルノとはつまり、感情移入である)。自己啓発書の中には完成された理想的身体や思考が内包されており、我々はその本を開くか、あるいは開く必要すらなく、その来るべきいくつもの理想の身体を選択して官能的に楽しむことができる。納豆やらインシュリンやらヨーグルトやらと長く付き合って脂肪を落とすことより、むしろそれらを通して成功した身体がつねに欲望としてプールされ、その想像的同一を書物を通して随想することのほうがはるかに官能的である。だから多くの人は惜しみなく、理想的な身体と思考のために、設備にばかり多額の投資をしてしばしば笑いものにされる。しかし一方その中に書かれた理想的身体の模倣図を手に入れたからといって何がシアワセであるかも明らかになっていないのに、わざわざ汗を流す必要は感じられない。例えば旅行というのは当地に訪れる前に思い描いたその場所の姿のほうこそ魅惑的なのであって、訪れたときにはその場所の価値は失効しているといってもいい。これらの人、いわゆる自己啓発「マニア」は決して意志薄弱というわけではなく、むしろ欲望に対してよりロマン的であり、かつその備給には合理的だと言えるだろう。ここまで言えば、自己啓発とは実践の書である前に、一つのフィクションでありロマンでもあることが判明になるはずだ。なぜなら繰り返すが、幸福とは迷信であり、自己啓発とは諸処の幸福の実践について書いたものであるのだから。

 

②、だがこのような大部の自己啓発書の風潮に反して、「ハーバードの人生を変える授業」やカーネギー「思考は現実化する」など、内的な観念や成就を全く信用せず、まずひたすらな習慣の改善、そして結果を求めることを目的とするアメリカの一連の「具体的」なる書物もあるだろう。こちらは書物というより、自己に指令を課すコードブックと呼ぶのが似つかわしい。それは、言葉を中心として自己や集団を統御する一つの社会実験であるといえるかもしれない。これをフーコーに言わせるなら、生産力のある、国家=集団にとって有益な存在であり、その勢力を強化するという「国家の方針」(レゾン・デタ)との自己の合一を前提としている。そしてそこでは内的な幸福などその喜ばしい結果に付随する副産物でしかないようだ。しかし畢竟「集団」との同一こそ彼らにとって心地よい湯の温度であることを忘れてはならない。むしろ、それは個人が欲する前に社会体の欲望であり、社会体とはその生産力を管理することに本義を据えている。社会体は筋肉を鍛え、節制し、スケジュールを管理し、服を清潔に維持することに意義を与えつつ、驚くべきメカニズムを通してこれら際限のない他人への生産性の顕示に関してはニヒルにならないよう調整する。だから、これらはとある上級のメカニズムを通して幸福に関するより有効な参考書たり得ているのだ。

 

このような点から自己啓発書は疑わしいどころか、幸福に関する迷信そのものだが、たしかに使いようがある。なぜならそれらは、何についてでもよいが、とにかく信じることを/信じることで、幸福を開始させてくれるからだ。だがここにはねじれがある。信じることができるということは、まだそれを疑っているという意味でもある。たとえば「自己啓発は疑わしいが、使いようがある」、という観点を取るのであれば、それは「どのような形で」「どれくらい」「信じる」という立場を取るのだろうか。具体的に、自己啓発で示唆されている方法を信じることで幸福になるには、その方法が「なんでもよい」状態から脱出する必要があるはずだ。では、どこまでその半分の疑わしさと渡り合うのか。この問題を扱ううえで、ひとつの作品を紹介したい。
宮内悠介は「ヨハネスブルグの天使たち」などSF作家の側面が強いが、近作の連作短編集「彼女がエスパーだった頃」では全面的にオカルトや疑似科学に関わる人々のアンビギュアスな心境を扱っている。その中の「水神計画」は、「水素水」の記憶も新しい、水に関する奇妙な信仰の物語だ。記者である主人公は黒木というヴァルナプロジェクトというものの中心人物に接近する。彼はもともと科学者であったが、ある時期を境に異常な規模のプロジェクトを発足した。そのプロジェクトとは原子力発電所にとある「言霊」を込めた水を撒くことで全ての水を浄化する、という壮大なものである。

 
水は世界中をめぐり、熱量や分子の伝達性も非常に強いものであり、そしてその中にはあらゆる言語の言霊が宿っている。そこで、その様々な言葉の拮抗を破るであろう力を秘めた「ありがとう」という言霊を水に与え続けたほんの少量の「種子」としての水が放流されれば、汚染された世界中の水、そして六割が水分で更生されている身体も浄化されるというのだ。主人公は一応中立を保ちながらインタビューを続けるが、実際に自ら、水に「ありがとう」という言葉を投げかけることでその性質を変化させるよう試される。そこで「実際に強く信じるのでなければ、水は反応しない」と言われ、、強く水に「ありがとう」という言葉をかけると、わずかに水が変化したように感じられる。その経験をすることで、途端に堰を切ったように肯定的な立場に寄っていく。

 
これは非常に古典的な面持ちすらあるエピソードだ。「わたし」は仮初であっても強く信じるという過程を通して、結果的に与太話を反転させ自分にとって信じる価値のあるものへ昇華した。だが、
「信じなければ結果は現れない」という仕掛けを「信じる」ことで実現するというのは明らかに矛盾している。しかしこの奇妙なねじれの中には、信じるということの中にある投機と能動性を示唆している。この物語の中に登場する女性は、試みにルビコン川を渡ってしまったことで信じることを開始してしまった。

 
ところで、結局このプロジェクト自体はテロリスト集団によって利用され潰えてしまったが、事件後に主人公は黒木に取材する。黒木は、自らのとある体験が科学者としての自分を捨てさせたと当時の内情を語った。長く妻と子供ができず悩んでいたところに、水にひたすら込めることで、太平洋の水全体を浄化することができる言葉があるとしたら、それは「ありがとう」という言葉しかない、と。 「言霊」が西洋のテクスト概念と異なるのは、それが恒常的なものではなく、偶有的で、すぐにその場を離れてしまうもの、一時だけ宿るものであるということである。言霊は万物に宿る不確定な存在ということだが、「有り難い」という言葉の意味は、まさにこの言霊の性質そのものを指していると言えよう。信じること自体がむしろ信じる対象よりも常に危機に瀕していて「有り難い」。しかし幸福とは、ショーペンハウアーによれば思い込みによってしか生まれない。そして自己啓発が諸処の「思い込み」の、疑念を排した幸福の実践の指南書であるなら、ここに至って我々は自己啓発的なものとは絶対に切り離されることはないことを予感するだろう。それは我々が毎日行っている、自らに課している諸処のライフプランや達成目標といったものとほとんど変わらない。幸福を開始するためには、全てが疑わしい中から強いて何かを選択的に信じて加速させなければならない。最初に上げたトーマス・マンの小説の中の引用は、この幸福の非常に基本的な様態を描いているように思える。

 
しかし、西洋の科学主義はいまや信じることを徹底的に排除しようとする。アメリカの科学主義的な面持ちの人文./人類/歴史学ーーここで念頭においているのは例えば、J・ダイアモンド(『銃・病原菌・鉄』)やユヴェル・ノア・ハラリ(『サピエンス全史』)、ダン・アリエリー(『予想通りに不合理』)などの、実証的な面持ちを持ち、数学者や科学者にも眉を潜められない、人間の生態を分析する教養的科学者達であるーーは統計を通した科学者然とした面持ちで一体何をしようとしているのだろうか。彼等の試みこそは、よりよく洗練された自己啓発であり、ショーペンハウアーがくさめをした場所の先を踏みしめる未踏への前進である。彼らの目的は「幸福とは迷信である」という場所を超え、人間の生態に関する事細かな注釈と補完でもって、人間をまるごとテキストに変換する試みである。

 
一方で彼らは自らの物質主義によって幸福という迷信の撤廃を推し進め、ある忌避の念を感じそのために矛盾している。というのも、幸福に関するあらゆる迷信を剥ぎ、幸福の正体を例えば全て脳内麻薬の問題で説明したいと願いながら、「マトリックス」で描かれたような、ロボットに使役されながらも脳内麻薬を注入し続けて休みなく人が際限なく幸せになれる世界を強いて「ディストピア」と呼んで忌避している。奇妙なことに、幸福を何の障害もなく維持したいという願いと、「幸福が私自身の能動性に依るものであって欲しい」という願いが我々を2つの部分に引き裂いているようだ。

 
自己啓発はあらゆる能動的な幸福の指南書であることで、普遍的な幸福の開始の書であるといえるだろう。現代において、自己啓発的なものを忌避するということはあるいは信仰や迷妄に対して適切な距離にニヒルな態度といえるかもしれない。だが残念ながら、反ー自己啓発的に貫徹したニヒルというのはおそらくただ一つの、幸福の完全なる否定という極端な方法によってしか達成されない。そうなれば結局のところ、自己啓発的なものを冷笑する我々の多くでさえ日々実践している自己啓発とは、「他人の幸福論には耳を貸さないが、その代わりに自分自身の幸福に関する迷信――自家薬籠中の幸福だけに悦する」、ということだ。

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