空間のポリティックス 映画「ドッグヴィル」に関する習作
(前置き)
『ドッグヴィル』(Dogville)は、2003年にデンマークで製作(撮影はスウェーデン)された映画である。監督・脚本はラース・フォン・トリアー、主演はニコール・キッドマン。
人間の「本性」を無視した観念的な道徳の無意味さを描く。続編の『マンダレイ』(2005)、『Washington』(2009予定 → 無期限延期)とあわせて「機会の土地-アメリカ」三部作をなすとされている。 (以上、wikipediaより)
(1)
ドッグヴィルにおける空間を緻密に描写してみる。すべての戸外は単に線上のパーテーションで区切られるだけであり、壁は存在しない。すべての視線がそれらの他のものと交差する可能性がある(第二章の終わり、「君は町の人に見られている」)。ここから逃れているのが盲のジャック・マッケイだが、反対にジャックは何も見ることができない。代わりに、もっとも理想的で想像的なドッグヴィルのモデルを持っている(もちろんその更新は既に終えているわけだが)。このパーテーションをこの炭鉱街のムラ社会的な相互監視の暗喩だと考えることは容易いが、むしろ、それは街の内実がそこにする人物達自身であることを示している。街を形成するもの、それはカメラの中心で演技している俳優を裏切るように、後ろで活発に活動する人々の目配せ、そして全く別のスペースと人々の常の顕在である。
盲目のジャックの部屋でずっと締め切られたままの裏窓が、グレースによって開かれるとき、その美しい斜陽が窓から差し込むが、それは窓を通して以外は見ることができず、ロングショットで見た時に、この窓から見える美しい景色はどこにも開かれていない。発光する窓の向こう側にはその窓が讃える景色は存在せず、この会場全体が外界に対して「暗室の中」であることを印象づける。街の中で生活する、街の倫理に従うということは、結局街の人間たちの行為を対象化してそれに反応するか、つまり盲かそうでないかは全く問題ではない。その証拠に、街の男たちがグレースに対して重労働とレイプ行為を働く少し前から、ジャックはグレースの臀部を触り始めている。
(2)
街の中心で何が起こっているか(つまりグレースをめぐる主部の物語)はもちろん重要だが、同じく、むしろ遥かに重要なのは、この物語の中で次にグレースに与える影響力を用意するために、常に街の住人が黒い陰のごとくグレースに相克するように先回りしていることにある。背景はない、それは街の外ではなく、街の内側にある。無数の人の背と挙措が世界の壁を成している。そしてまさにこの人壁がぬらりと流動的に動くことで光を遮る陰画(ネガ)の役割を果たし、グレースの行動に対してその陰影を与えていく。グレースがギャングたちに街の破壊を命じるときに差し込む光が、ドッグヴィルの歪な陰影を映し出すとき、光を通して得るこのような印象こそ、曝け出された街の人々の姿を何よりも直截に描き出しているといえる。
(3)
美しいグレースを歓迎し、街の中に溶け込むように尽力し、ついにロマンスを経て結婚することになるトムですら、愛によってグレースと向かい合うことはなく、まるでカフカの小説の登場人物のように、街の意志の代弁者と調停者でもある。彼は自分では考えない。自らの意志を伝えるだけで、最高の高貴な善意が、保身に浸る悪意と同居する。グレースが一部の人間に対して認められたことはすなわち街の人間の総意になり、速やかに彼女は受け入れられる。反対に日常的にレイプされる段階になったときでも、周りで生活する人間たちが常にその惨事を見通しながら(事実、演劇的な空想のパーテーションの上で壁は存在せず、全てが合意の元で行われている)誰一人としてその事態に反応せず看過するのは、それが街の人間の闇裏な合意のもとで行われたことを印象づける。
(4)
これらの特徴の全てを還元するなら、トリアーにおいて必ず現れてくるキリスト教の道徳の崩壊の他に、ドッグヴィルにおいて個々の人間のドラマは存在せず、全てが街の意志とでも呼ぶべき暗渠でうごめく何者かの到来を用意するものであるという二次主題が立ち上がってくる。そのような状態を、空間のポリティックス、空間の深淵(プロフォン)にして無底(アンフォン)あるいは空間の怪物と呼ぶに相応しいだろう。我々が倫理や善美と呼ぶものも、この怪物が引いた線を前提としてしかやってこない。
空間には政治学などないのだろうか。だが我々は小さい頃から、見えないワイヤーの上を気付かずに横断している。注意深い音響的空間としてのシアターや視覚的空間としての美術館では「ここでは大きな声を出してはいけない」と軛を惹かれ、行動を制限されるように、空間は我々の身体の性質を具体的に変化させる。例えばハイジャックされた旅客機がその中の人々を旅行する身体から、拘束された身体へと変異させるように。
(5)
空間の怪物がみじろぎし、身体を引きずるとき、彼は線を横切る。二項対立ーー街/人、よそもの/身内、などを策定する。したがって作品がそれを扱うとき、この街にはまだ善意も悪意もまだ訪れていない。彼等は今、怪物によって制定された街の移動する倫理の上で生活している。
(6)
痩せ犬のモーリスには来訪者に吠えかけるという重要な仕事が託されていたが、街の人間たちが自己保身に走り分断しだすと一旦姿を消す。だが最後にグレースが街を焼き払った跡地にひょっこりと現れる。彼は白線で描かれた枠内に収まり、(DOGの文字と犬の輪郭を示す白線)自らの「脱け殻」に入った状態にある。いつの間にかモーリスを追いやって成り代わり、誰彼構わず来訪者を招き入れ、ついに街を壊滅に追い込んだ、白線のなかの「怪物」は、既に役目を終えて去っていった。「怪物」はグレースを通して、街に新しい倫理の輪郭を招き入れようとしたが、失敗し、街を炎に包んで去っていったのだ。
(7)
トリアーが撮ろうとしたのは、倫理の崩壊よりもより抽象的な段階である。なぜなら単に倫理が今やますます多様化し、その往時の輝きを人々が再現できなくなっていると言った所で、実際には倫理が各時代の「断片化」によってかろうじて成立していることを見逃すだけである。
(8)
しかし我々はこのような怪物を名指す上ではまずはその偶有性を尊重する。つまりどの怪物にも名前が必要だが、名前を与えたからと言ってその性質を支配できるとは限らない。まさにこの性質こそがこの空間の怪物の正体を策定する。空間の怪物の偶有性は、歴史的・地理的にアメリカの中にドッグヴィルのような架空の場所が実在性を獲得している(ドッグヴィルには近隣を現す地図が存在し、また常にジョージタウンとの連絡がある)ことから説明される。しかし同時に彼の場所は固有のものではなく、ありふれていながらもっと普遍的な場所であることを主張する。とりわけその場所(あるいはもっと直截に言えばその中の人々の関係こそ)が「ドッグヴィル」(「ドッグヴィル!今まで聞いた中でもっとも馬鹿げた名前の村だ」)と名指される理由が必要である。
(9)ここではドッグヴィルという村の名前とその性質との関係が明かされる(予定)
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