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続・俗語論 情報戦、あるいは「クソ野郎になる権利」について

つい先日、”watch_dogs2”という海外ゲームのトレーラームービーを経由して、久しぶりにN.E.R.Dの”Spaz”を聴いた折に、ふと奇妙な無音が何度か連続していることに気づいた。それはあまりにも自然な処理をされていたので、始めは記憶違いを疑ったが、気になって他のメディアからオリジナルらしきバージョンを聴いてみると、どうやら”Fuck”という言葉だけを選別して何らかの方法でミュートしていることがわかった。それがわかった瞬間、あまりのことで呆れてものが言えなくなり、真偽を確かめるために関連する記事を探したが、思いつく検索言語を打ち込んでもノイズが多く、該当する問題に関係する事柄は結局出てこなかった。これはyoutubeの所持する高度なフィルタリング機能が及ぼす効果なのか、それともレコード会社が自主的にその部分を修正したのだろうか。他にも該当する単語はあるかもしれない。その修正の意図する所はなんとなく察しがついたが、どうにも釈然としなかった。というのも、あまりにも鮮やかすぎるその技術、それによってひた隠しにされた目立たない歪さに、誰も反感を抱かなかったことが恐ろしかった。

 

しかし近い案件を少し前に観測していた。 それは“Overwatch”という世界規模のオンラインゲームにて追加されたこんな機能だ。このゲームは6on6はFPS(一人称シューティングゲーム)で、22人のキャラクターそれぞれの個性を活かしつつ貨物を押したり陣取りゲームを取り合うというような試合をするのだが、どんなに自分が貢献しても勝ち負けが場の流れで決まることはままある。ところが、そのタイミングで敵味方の共有チャットにて”gg ez(good game easy)”=「いい試合だった、楽勝だぜ」と打ち込む勝利側のプレイヤーが多くなってきていた。それは子供染みたアナロジーのやり方だが、要するに「お前ら、弱かったぜ?」という中傷でもある。この風潮に不快感を覚えたプレイヤーが上申した結果か、そこで公式がとある機能を実装した。”gg ez”とチャットで打ち込むと、謙遜に満ちて礼節をわきまえた言葉か、子供であることを伺わせるような長文に自動変換するのだ。例えば「ママが言うんだ、僕ぐらいの歳の子はもう指なんかしゃぶらないよって」とか「皆さんと一緒に戦えて、とても光栄でした。ありがとう」とか。これは暗に”gg ez”なんて打ち込むプレイヤーは低い年齢層である(あるいは精神的に幼稚である)という別のアナロジーを含んでいる。この機能自体はユーモアに満ちていて、制作陣の知性を伺わえる一件だとして愉快に受け取られたし、私も他聞に漏れずしばらく愉しんだ。しかし同時に、誰しもが”gg ez”という言葉の中に含まれたある種のアイロニーとアナロジー自体に、何か痺れるような、ちょっと使いたくなるような毒気に、誘惑されないよう逆らっているのではないかと思い始めた。そして予想する通り、今度は別の言葉や、些細なスペリングの変更で近い内容を打ち込むプレイヤーが現れてくる。いずれはイタチごっこになるのは目に見えていたわけだ。

 

俗語、汚い言葉というのは、それ自体誘惑的なものである。研鑽を経た言葉は可視・不可視を問わず文化の折り重なりによって成立しているが、俗語(スラング)はその層の新鮮な切断面から、言葉の成立の背景、意図に想いを馳せることができる。『神ってる』でも『日本死ね』でも良いが、ダンテ・アリギエーリがラテン語の血脈を受けたトスカーナ語を選んで「神曲」を書いたその崇高な理由とは異なるにしても、俗語・新語は我々に言葉が面白く、まだ生きているものであることを思い出させてくれる。とはいえ、言葉の清濁という観念がどれだけその時代の影響を受けるのかは、数十年前のテキストを読んだだけでどれだけ消えていった当時の「俗語」を見出すかからも明らかで、非常に時代特有の判定によるものでもある。そして善意が及ぼしたおせっかいなテキストの改ざん、焚書、誤訳が、後世の解釈におぞましく深刻な影響を与えた例を我々は何度も見てきたはずであり、上に上げた二つの事例は、そのような大規模の改ざんの小さな縮小再生産であるとも取れる。それにしてもゆめゆめ忘れてはならないことだが、地獄への道は善意で舗装されているのだ。小さなおせっかいが度が過ぎるところまで誰も止められない時代に、誰か具合のいい塩梅でも見つけてくれるのだろうか。この問題は後でもう一度触れることになる。

 

話は一旦N.E.R.Dの”spaz”に戻る。この”spaz”の意味についてだが、これもまたスラングであり、その意味は邦訳では”Freak out(怒り狂う、暴れ狂う)”のニュアンスで解釈されているが、spaz自体には間抜け、アホ、グズ、とんま、嫌な奴という、ほとんど彼等のバンド名である”Nerd”に近い意味も含まれている。つまり騒ぎちらして他人に迷惑をかけるのはクソ野郎、というわけだ。だからこの曲の中で “Spaz if you want to”という言葉が主題にて何度もリフレインするとき、これは「(望むなら)クソ野郎になってしまえ」というメッセージにも聴こえてくること、そしてこの曲がハクティビズムを称揚した”Watch_dogs”というゲームに使用されたことは、いくつかの繋がった問題に関わってくる。

 

人口に膾炙した話だが、”Nerd”(無能、間抜け)とは、かつて教室の隅で「スターウォーズ」とか映画「エイリアン」の話に夢中になって、電子機器に夢中になっている、スクールカーストの上層部にとって鬱陶しい連中を呼称する言葉だったが、80年代以後の創造的な文化の一端を担ってきて、今のマスメディアと化したインターネット文化を構築してきたのもまた彼等だった。そして当時から、彼等は進んでそのような”Nerd”という蔑称を引き受けていたというのだ。この逸話がハッカー文化の間で特に重要視されているのには理由がある。「ハッカーと画家」の中で、P・ギレアムは社会の周辺部にいることで持てる想像力を重要視している。P・ギレアムによれば、ハッカーにおける創造力というのは「今の社会における常識を疑う」ことから始まるという。ここで言うハッカーとは、映画などでイメージの定着した、パソコンに侵入して重要情報をクラックするような人間(彼等はブラックハット・ハッカーと呼ばれる)のみを指しているのではなく、良きにつけ悪きにつけ突出した創造性のある人物全体を意味している。(だから本書の結論は画家「と」ハッカーは同じであるというものなのだが。)そして彼等はしばしば倫理観が欠如しており、性格の曲がったクソ野郎だと叱責されるが、それはむしろ「当たり前のことこそをまず疑う」資質の故にである。

 

例えばインターネット上ではしばしばクソ野郎(spaz)が現れて、誰しもを不快な気分にさせるのが風物詩となっている。彼等は鼻持ちならない存在だが、本当にインターネット上で、彼等は叱責されるべきだろうか。彼は周りの叱責を諸ともせず、言いたいことを言ったのであり、それはむしろ我々一人一人が部分的にであれ、彼等のように自らの主張を自ら操作する権利を、つまりクソ野郎になる権利、そしてクソ野郎に(自主的に!)ならない権利がまだ残されていることを再定位してくれてもいる。人間には世界のどこかで、”クソ野郎”になる権利がまだ残されている必要がある、特に創造的であるためには。ハッカーたちもこの時代特有の身振り、考え方、思考を疑うとき、最も差別的で理解しがたい行動すら意図せず出てしまうが、これはいわば”Spaz”や”Nerd”などの言葉がさす通り、彼等は敢えて自分たちを気持ち悪くて陰気で、嫌な奴であると呼称することで、得られる高度な自由と創造性のために、進んでそのような蔑称を引き受けているのだ、丁度シェイクスピア劇における道化たちが、道化であることを謙って顕示することで、最も通底した視座から物事について忌憚なく発言する自由を得るかのように。そしてそのような言説の自由のためには、彼等はプライバシーと匿名性を誰よりも重視する。

 

掲示板やブログ文化を中心にしていたゼロ年代前後のインターネットはかつて「便所の掃き溜め」と呼ばれていたとおり、とんでもない差別や与太話が飛び交うおぞましい場所だった。顔が見えないというだけでたがの外れた人々の思考が魑魅魍魎のように跋扈していた。だが同時にインターネット媒体を介した独自の言語、映像、音楽、プログラミング文化を発展させたのも、同じくその肥溜めの中か、あるいはすぐ傍だったのだ。それは恐ろしく魅力的な匿名性と表現の自由の渦だったため、人々の嫌悪と反感を集めながら、同時に蟻地獄のように無数の興味と関心を引きつけて穿孔していった。エドワード・スノーデンはリーク情報と共に載せられたインタビューにて、インターネット文化が担保してくれた「匿名性」=プライバシーが自らの創造力を開花させる一因になったし、これからもそうであるべきだと考えたこと自体が、自分にこの内部告発を強いさせたと表明した。なぜなら、彼が所属していたNSA及びCIAが構築していた巨大な監視システムは、そのような時代を積極的に終わらせるために動いているからだ。

 

システムとその調停者は今まさに、その権利の審級自体を公共性のもとに払拭し、有無を言わせず敷衍しようとしている。おせっかいな言葉の自動変換機能が冗談のように、途方もない規模でもって、あるべき人類の未来像を先んじて用意しようとしている。スノーデンによってリークされるまで何らお咎めもなかったNSA(米国家安全保障局)によるインターネットを利用した情報収集は、ほとんど世界中のインターネット上の情報を収拾し、必要であれば何の緩衝も持たず操作に利用することを可能にした。もちろん日本とて例外ではない。行き着く先は”No Place To Hide”、『あらゆる意味での』匿名性やプライバシーのないユビキタス社会だ。今の監視は重犯罪を未然に阻止するという大義名文のもとで機能しているかもしれないが、彼等の都合一つで楽しいブラインド越しの遊びは終わり、「いつでもお前を捕まえることができる、今は見逃しているだけだが」という監視の顕示による、自己規範という終わりのないパノプティコンを始めることが出来る。

 

そして、それらの問題はまさに”Fuck”という言葉の上一つでも起こっている、第三次世界大戦という個人と国家との情報戦であり、検閲や小さな言葉遣いの指摘、言論の操作とは、いつでも高度に政治的な、あるいは政治そのものの問題なのだ。そのことは、最も甚だしい結果である開戦への先触れ、序曲が、いつでも退屈で迂遠なだけに見える膨大な法文の中の、小さな一単語の払拭、改訂から始まることからも伺える。我々個人は言葉の上で監視の内在化と綱引きしている。いつでも「誰かがこんな言葉遣いや考え方を咎めるかもしれない」と怯え、控えてしまうことこそが創造と表現の力を減退させるのだ。だからもう一度言う。我々は自らにとって必要であれば、敢えてクソ野郎にならなければならないし、自由にクソ野郎になれる場所を守るために働きかける必要がある。「誰もFuckと言えない世界は/FUCKだ」という構文がアイロニーとして響いている間に、言語の検閲の問題と抗戦しなければならない。そして言うまでもなく、我々批評家とは時に(あるいは…しばしば)、共時的な観念に反撃するというまことに高尚な目的により、クソ野郎にならなければならない。そのときには、せいぜいためらわないようにしたいものだが。

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