個人的な経験から問う 怒りに関する随想録
さて、怒りについて寝食も惜しんで考えてはいたけど、手前はここ最近、理論だった怒りを覚えた記憶が御座いません。もちろん苛立つことはあります。宅急便が来ないとか、隣の家の犬がうるさいとかです。しかし自分としては、まずその怒りが「義憤」によるものかは常に自己に問いかける次第です。というのも、義憤とは常に自分の欲望をひた隠しにして大義という旗に謳わせてしまう、ある種の「怒ったふり」だからです(ニーチェもこう言っています、「義憤にかられたものほどの嘘つきもいない」)そこにきて、最近では小林よしのり式の、怒りから始まる社会ぶった切りも、まぁ風当たりが悪い。左様ならここは敢えて、個人的な怒りの経験に固執して始めたく思い、まず怒られた話から、一つ。
さて、「お前は飯を最後まで食べない」と怒られる生涯を送って参りました。自分で飯を作ってみては、多めについだつもりがなくても最後まで食べきれず少しだけ残して、捨てるに捨てれず洗い物が溜まってしまう。店に行っても、頼み過ぎるまでもなく、腹五分程度でも最後の一口をなんだか残してしまう。こういう人って結構いる気がするんですが、自分は会ったことはないし、小さい頃母親にも口を酸っぱくして叱られているので、なんとなく風当たりは悪そうな習性です。しかし治そうという気持ちにもならず、ここまで大きくなってきてしまった。
そこにきて、大学に通って後ろ二年の間、お寺出身の大学の同輩と、毎週講義のあう曜日の夜に、飯を喰いながら読んだ本やら映画についての談義をしていた折に、一度指摘されたことがあり、その男とは今は連絡一つとれないんですが、いつも作務衣の上に高校時代の学ランを着ていて、大学では禁止されているはずの下駄でうろついてバンカラ風を吹かしている、「ノルウェイの森」にでも出てきそうな宗教学選考の男でして、考え方はまぁ何につけても凡庸な右翼主義者なんだけど、そのことに対してのニヒリズムと理論武装とのバランスはとても面白く感じ、毎週適当に飯を食った後パブに流れながら、ときに舌鋒鋭くなり後味悪く別れ、ときに意見の一致を見て一時の止揚を見たり、たまに双方の手に余す哲学的談義をこさえたり、とにかく仲良くやっておりまして、その何回目か覚えてないとある席でも、彼のとの思想的対立の箸休めに、僕が毎回飯を少しだけ残すことが話題になりました。
彼はやはり寺で躾けられた人間だけあって、目の前に残る料理が常々許せないと感じていたそうです。「お前のそういう態度はひどくブルジュワ的だし、常々お前が表明してる嫌資本主義的態度とは相容れないとおもう。そもそも自分の食べれる分より多く食べようというのはだらしないし、作った人に申し訳ないと思ったりはしないか。」云々、まぁ、大したことは言ってなかったと記憶していますが、気心知れた間柄であったので、そこは機転を利かせてこう返してみました。もちろんあくまで座興として転がしただけで、本心はまた別の所にあった気がしますが。
「なるほど、僕のやっていることが道義的に是非を問われているというわけだ。なら僕がやっていることが普遍的な悪であることを証明して欲しい。もちろんお前の怒りが個人的な感傷や、島国の美徳と関係があるものなら僕も素直にこの場は折れてやるよ。でも、それなら僕が御飯を残すことを強いてやめる理由はないな。俺も長年これを好きでやっているというか、もはや性分で止められる気がしないし、悪い悪いと知りながら続けている。だから僕が魅せられるような説得をされれば辞められる気がする。だから道義的に僕を説き伏せられるものなら、是非聴いてみたいな」(明治の文豪風かと思われるでしょうか、実際にこういう話し方をしていたし、あの間柄ではそれがわりかし堂に入っていました。)
この問いのあと、彼ははたと熟考して、またしばらく問答したのですが、最終的に出た答えは「ない」でした。「俺が個人的に好かん。だから確かに説得はできない」ときっぱりと言い切られました。 「確かに日本とはちがい、欧米では客人に対してあくまで食べきれない量を出すことで歓待の気持ちを表明したがるし、中国では食べきらないことが意地汚くない表明として美徳になる。おそらく日本の古い感情と教育に根を持っているんだろう。しかし俺もお前もそういう教育の元に育っているから、反射的にそう感じるだけで、俺がどうしてそう感じているのかは説明できない」と言われ、この男は食えんなぁと思ったのを憶えています。そしてこの話はそこで仕舞いになりました。
ところが、その帰りの夜道ではたと思う所があった。たしかに彼からの追求をすりぬけることは成功したけど、自分自身、仕方ない仕方ないと思いながら、まだまだ自分のことについて怒っていることに気づきました。自分は許し続けているのに、怒る自分も一向に手を休めていない。俺はもう許したよ、と前線の自分が結論づけている一方、残された身体がじれたように怒りに反応している。いや、そもそも「許したよ」の言葉がそこにある限り、怒りはまだ途絶えていない。怒りは単に燻っているだけで、それは自分自身に対しても一考に有効なのです。
それでは、御飯を残すというのはやはり怒る/怒られるべきことでしょうか。もっと露悪的な事象をここに捕まえてきています。ユーチューブで話題のジョーク動画に”How to basic”というとある匿名のオーストラリア人によって撮られ続けているシリーズがあります。マニュアル動画のような出来合いの紹介とサンプル画像で、”How to make french toast”などありがちな教則動画を彷彿とさせますが、中身はおぞましいもので、途中まではきれいなシステムキッチンで平穏に作業を続けているけど、発狂したように卵をぶちまけ、謎の緑色のソースやら輪ゴムやら生魚を投入し、部屋を盛大に汚しながら手ぶれたカメラで惨状を撮って、また奇妙に落ち着いた様子でそれをトースターに入れ、焦げたそれをまたぶちまける。終わり、みたいな動画です。
端的に言って、これらの動画が600万再生されるなかで何割が爽快な心地を得るかはとても興味があります。「食物で遊んではいけません」という文言がありますが、それはやはり近代日本で育まれた局所的な倫理観にすぎないもので、普遍化するのは難しいものです。「靴で土間を跨いではいけない」とか、「箸を御飯に立ててはいけない」とか「机に足を載せてはいけない」とかです。たしかに、これをある爽快さと愉快さに変える余地を自分もいくらか持っていると感じました。それはむしろある程度の忌避感があるからこそ、やりがいのある冒涜なのかもしれません。加えて単純な暴力ではなく、技巧だって形式を用意した上で破壊するのだから、カタルシスもある。バタイユが喜びそうな動画です。
しかし、僕が先回りしてそういう弁護的な境地に自分を置いたのも、敢えていうなら、自分が感じたおぞましい嫌悪感と怒りに興味を持ったからです。どうしてそれだけ自分を納得させる材料を持ちながら、こんな動画で笑う人間と席を並べるぐらいなら死んだほうがマシだと考えるのでしょう。しかもよりによって、調子よく自分の食事の不始末を自己弁護した矢先に。もし自分の度量に自信のある奇特な方がいるなら、彼こそ是非当該動画を見て、その中に純粋に笑いのみを受け取る境地があるかを試して欲しいものです。
もちろん、怒りは常に悪いものだとは思いません。しかし今や、怒り、特に義憤は、暇でしかたなく、誘蛾灯のように感心を探すインターネット人間にとっては、それ自体が至上のコンテンツになっているように見受けられます。いわゆる「まとめブログ」のどれか一つを開いてみれば、感情と欲望を逆なでするありとあらゆる文句が黙示録のように広がっていますが、これら無数の怒りのなかの逍遥を通して、自分の怒りを知るような経験もあり得ることでしょう。(もちろん、それだけで一日を過ごすに足るかは疑問ですが)しかし政治家の汚職や歪な民法の制定、むごたらしいレイプ事件などへの凡庸な義憤よりほかに、自分の中にある怒りの中で特に興味深いものは、しばしばそれが自分の中だけで起こり、それについて説明ができないまま、時に自分をあずかり知らぬ、自分にとって肯定的な行動へと向かわせるようなものです。
何事につけても私事、私事で正直気恥ずかしさが勝ってきたのですが、中学生の頃三年で公立のマンモス校に引っ越した折に、父親の心療内科の病院が近くにあったことで、なんとも惨めな歓待を受けた覚えがあります。僕は体格の割にナイーブな性分でからかわれやすかったけど、その手合のやり方を聞き流すのには長けていたし、それもたった一年のことだと無視していたのですが、ある日パソコンの合同教室の折に、彼らが自分の背側で自分の父親について聞こえるように嘲っているのを聴くと、急に凄まじい怒りが立ち上り、立ち上がって彼らの首謀格の顔に拳を打ち込み、彼の鼻と前歯を折ってしまい、双方の親を呼ばれてしまうということがありました。とはいえ結果的に漢をあげたような形になって、その後は集団に受け入れられたのは不幸中の幸いでした。
武勇伝のように聞こえるかもしれませんし、事実そのような効果は周りにはありました。しかし僕としては、あれだけ毛嫌いしていた父親とその仕事についてとっさにあれだけの怒りが出てきたことが一番興味深く思われました。父親について彼自身がその本心を明らかにしない上に、彼自身が驚くほど魅力のない人間なので、いい思い出は今もほとんど数えるほどしかありません。なのでむしろこの怒りは、父親と会う度にその人間的な不具に失望しながら、もはや彼に期待するのではなく、自分の中で益々不思議な手触りをもって現れてきているように感じています。おそらく、これは彼の人柄による所にはなく、酷く個人的な感傷か、期待に関する記憶なのでしょう。それはもしかしたら、父親の葬儀の席でようやく始末のつくものかもしれないし、そこでもわからないのかもしれない。
願わくば自分にとり納得のいく説明が欲しいものこそ、しばしば怒りの中にひた隠しにされているような気がします。しかし怒りというのはどこで発動し、どこに向かって暴発するかわからない危険なものでもあります。ドゥルーズが『千のプラトー』のなかで、情動こそが人間を突如予想の付かない場所へ引き起こす機械だと言っていた。いつ自分が「犬のように」駆けずり回るか、「女性のように」書き始めるかはわからない。毎日の往路の途中で横たわるホームレスを見ていたら、ある日、それにしても、自分はいつホームレスになるのだろうかと思うこともあるでしょう。フーコーのようにホームレスを虐げる警官に反射的に手を上げてしまうこともあるかもしれない。すなわちそれが「情動」なのです。自分にとっていつでも些細で取るに足らない、しかしときに制御不可能な情動を無数に抱えながら、我々はどうやら生きているです。
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