インディーズバンド”Arcade fire”に捧ぐ アメリカン・ドリームというオイディプス神話
Sometimes I can’t believe it 時々自分は信じられなくなる
I’m moving past the feeling あのときの気持ちを置き去りにしてきていることに(arcade fire “the suburbs”)
田舎の学校のクラスには、必ず一人は変な音楽を聴いてる奴がいる。ビートが早すぎたり、うるさすぎたり、音質が悪すぎたり、歌詞カードに何も書いてなかったり、低音が延々と流れ続けるような曲だ。そういう曲を、休み時間にこっそりイヤホンをしてうつむいて聴き込んでいて、何に関してもどこか斜に構えていて、HRが終われば誰よりも早く帰ってしまう。そして彼らは自分たちの聴くそういう音楽に対して、たとえ理解できなくても、少しでも立ち止まってくれるような奴らとしか仲良くできない。彼らにとって、音楽を聴くことは一つの自己表現であり、世界に対する先攻攻撃としてのバリケードである。例えそういう聞き方がファッション染みた音楽の消費だと非難されることがあったとしても、自分たちの疎外感を包み込んで歌い上げてくれるような歌詞やメロディの担い手を探さなければならない。今や南北問題の境界は肌の色の間にも、バスの中に引かれた白線の上にも、国境の間に存在するイマジナリーラインの上にも存在しない。それは一つの、文化的な逃走線なのだ。しかし先にこの残酷を予言しなければならない。彼等の蜂起が今のやり方で身を結ぶことはなく、それは今のところ、アメリカン・ドリームに吸収されるための予備期間を生きている。
とはいえ、孤独な敗北を運命づけられていた時代とは違い、今やインターネット世代の若者はどんな集団も見つけることができるし、無知な大衆を相手取って共闘することも出来る。SNSやブログにアカウントを持っているなら誰でも、映画の中に格納された小さな男尊女卑的表現を指摘したり、被災地への募金を募ったり、公教育を批判したり、終わりのない暗黒面との戦いに熱中することで、大衆を啓蒙しようと考えている。現代において、redditやtumblrやtwitterは新しいスクロール型の聖書だ。その新しい聖書の第一行目にはこう書いてある。「汝の闘争を見つけよ。」と。そのための”新”南部アメリカ流のやり方としての積極的飢餓であり、社会に対してそれらが活用されるときには、最も広範な意味におけるハンガー・ストライキである。そこで相手取られる敵は、資本主義であり、官僚であり、文化的なことは何もわからないまま金勘定ばかりしてる連中や、大量生産の食事を食い散らし、臭い屁をひりながらリアリティーショーで爆笑する親父の背中であり、前年代の古臭いサクセスストーリーの尻馬に乗っかったロックスター達だ。
it’s on the table サクセスと富が目の前にある
But I’m growing hungry だが俺は_飢えたいんだ(Temple of the dog“hunger strike” )
北の連中が無自覚にぷくぷくと太り続ける中、南の人々は進んでハングリーになりたがる。半世紀前にすら考えられないことだったが、あらゆるレベルで、資本主義国家には飢えの自主的な選択が横行する。腹いっぱいにビールをかっ喰らうより、カロリーメイトで済ませられるならそれで満足しようとする人々がいるし、車も家も決まった妻も必要としないが、ジムに通ってオーガニックフードを食べ適度に教養書を読み、高い水準で自分を維持する努力は欠かさない、そんな形で飢えようとする人もいる。彼らにとって、映画『ハンガー・ゲーム』のように、極限状態の中で生の充足を確認するような物語はもっともリアルに感じるのだろう(Arcade Fireは本映画のサウンドトラックに楽曲提供している)。2000年にすら、『ファイトクラブ』で男たちは物質社会を否定して殴り合っていたが、今やそれは世界的に一つの美徳になりつつある。そろそろ”Stay hungry,Stay foolish”を合衆国憲法に追加してもいいくらいだ。とはいえ、それらが何に対してのサバイブなのか? 月収二千ドルでも問題なく食いつなげる時代に、どうしてそんな手の込んだ形でわざわざ自分を痛めつけないと生の充足を得ることができないのかは、彼らにもあずかり知らぬことだ。今持って南半球の大部分ですら本物の飢えが徐々に鎮圧されつつある現代において、北半球の一部の人間が自ら飢えようとしていることについての説明はない。少なくともその飢えは、何事にも過剰で補填されすぎる社会に対する段階的なミニマリズムの形式を取ることだろう。とにかく足るを知り、過剰に燃え上がらず、どこか冷笑的に世間と自分を相対化する。
2005年、モントリオールのインディーズレーベルから第一作”Neighborhood”を発売し、それがPitchfolkに取り上げられたことでいきなり大セールを記録したArcade fireは、まさに、このような価値観をもった人々に待ち望まれた存在だった。積極的な社会変革への信頼感をしつこく強調する旧態然とした左翼バンドとは違い、彼等はひたすら内向的でありながら、自分たちのもつ混成的な出自が持つマージナルな側面を、時に過剰に瀟洒なメロディに乗せて歌った。強いアクティビスムを発揮することもあるが、それらも、U2のボノのような途方もない分裂症染みた善事マニアでも、RATMのような苛烈で暴力を伴う運動でもなく、あくまで身近な共感から始まるものだった。オバマへの素朴な共感から彼の選挙活動を支援したり、メンバーの一人がハイチアンであることから、ハイチへの募金を募ることもあった。その自分の感じ方への信頼は、インターネット世代の中心を失った哀感に吸い付くようにフィットした。だがあくまで、大衆に対するペーソスと怒りは隠そうとしない。
Stop now before it’s too late 取り返しがつかなくなる前に
Been eating in the ghetto on the hundred dollar plate ゲットーで100ドルの飯を食うのをやめろ(Arcade Fire Black Wave / Bad Vibrations)
ここで歌われているのは、欧米で流行りのチャリティー・イベントで、スパゲッティやサラダのような安いマスフードを百ドル(一万円相当)で食べて、その払いすぎた代金を貧者に募金しようという企画だ。少々多めに払ってたらふく食べることで人を救う心地を達成するという、まるで「良心のカウチポテト」のようなおぞましい企画には違いないし、ニヒルなインターネット世代の少年たちにとって、こんなアイロニーをさらりとスマートに歌い上げるバンドが魅力的でないはずがない。
だがその爽快さに酔う前によく考えてほしい。その陳腐さをウィン・バトラーが叱責するとき、彼らがどのようにして、そのような人間と自らを区別するのだろうか。 確かにアメリカ大衆の肥満症と薄ら馬鹿なマスメディア信仰は醜くて滑稽だ。彼らは内的な趣味も持たず、自分自身の退屈さに自分が震えていることにすら気づいていない。しかしながら、彼らが自分の価値に自身がなくなれば、満足するまでチャリティーに募金すればいいし、今やそれも大部の人々が自身を持つための特効薬として通用している。それで、存外楽しくやっている。反対に、そういう気楽な善意に骨の髄まで浸かることができず、醒めてしまった人間にその特効薬はもう効かない。素朴で洗練されたミニマリズムで充足されるほど自意識が満たされているのは少数だ。その他にとって、ほとんど無尽蔵な社会への懐疑と闘争が控えている。インターネット世紀を駆け巡る誇り高きジェダイの騎士たるSJW(Social Justice Warrior)は傷つきやすくて繊細なので、容易に暗黒面にとらわれてしまう。常に公衆の無知に絶望し、義憤を覚える南の人間は、常に「シアワセ」な人間を相手取ることでしか自分と自分の問題を確認できない以上、その対称性として不幸な、常に限定された生の中で戦いを強いられることになる。インターネット、退屈と疎外感が彼らを襲う。インターネットのなかで全てが回るとき、実際的な問題が何もかも掌から離れていくように感じる。敵の中に自分のあるべき姿を見つけるしかないのなら、敵を失えば簡単に自分を見失ってしまう。いつでも南が北を相手に空相撲を取っている。そしていつでも南の闘争は基点を見失って苛烈化するか、勝手に沈んでいく。
自身そのような戦いの旗手としてこのような途方もない戦場へ人々を扇動していたArcade Fireが、次作”The Suburbs”でたどり着いた、乾いた戦いへの諦観と虚脱感は、まるでこの問い自体に自ら打ち当たることで静かに幕を引くかのようだった。”The suburbs”は一つの自伝的形式を持ったコンセプト・アルバムであり、彼らのファーストアルバム”neighborhood”への返歌でもある。それは、素朴だが混じりけのない音楽への信仰を持って、自分たちの出自を歌い上げたファーストアルバムが大ヒットして、一気に政治的な機運を高め、伝えるべき事柄を模索していった彼らが、唐突に自分のスタンスを見失い、どうしてこんな所に来たのか、原点を見つめ直すようにその出生に帰って模索しているかのようだった。しかしすでに、彼らが帰ってくるべき場所は失われていた。郊外は都市と田舎の間にあるマージナルな場所で、常に非常な変化を強いられている。郊外の激しい変化と共に、冒頭に引用した序曲の中で歌われている「あの時の気持ち」がなんだったのかすら、もはや思い出すこともできなくなっている。とはいえ、これは固有のものではなくある断絶を経験してしまった我々の誰しもにとって身近な感情だろう。例えば森山直太朗がこんな風に歌っているのを紹介したい。
別れ話の帰り道 悲しくなんてなかったよ
フラれた方は僕なのに 泣いていたのは君の方
どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 こんなになくてもいいのにさ
(森山直太朗 『どこもかしこも駐車場』)
森山直太朗は我々の便利で豊かな都市生活や、繋がりやすく切りやすい社会の合間に、微かな哀感を見つけ、さらにそのことに対する我々の、ほとんど捨鉢でやるせない感情までも付け加えた。もちろんこれは失恋の悲しみを歌った曲だが、 むしろこの曲の白眉は、「こんなになくてもいいのにさ」と歌う時、そのことに、どことない反感をにじませながら、今や、それがただただ甚だしいこと以外には特に感慨を持てないところにあるのだ。振られた男が戻ってくる場所はもうなくなってしまった。それも仕方ない、地元が変わってしまうことも、友人たちがもうこの街に残っていないことも、全て自分があずかり知らぬ力の及ぼすところなのだから。
言いようのない喪失の感覚、それはまさに現代人が、飢えを探す闘いの中で何度も味わっている「敵」の喪失の感覚と同じものだ。自ら「ネオン・バイブル」で苛烈に飢えることを自主宣言したArcade Fireは、たった4年で自分が戦うべき相手を見失い、その結果として”The Suburbs”で途方に暮れる自分を発見したと捉えることができる。ところでそれに関して、私が俗っぽく扇情的に書きたてるなら、彼らの伝記の末尾にはこう記すはずだ。「彼らはハングリー精神を失った。モントリオールから個人的な体験を歌い始め、インディーズでありアウトサイダーであることに誇りを持っていた彼らは、次々とした成功を体験し、終にリッチになり、ここに、その問題意識を失ったのだ。」と。アメリカの成長神話はいつでもサクセスに向かうか、その無数の失敗作として共同墓地に埋められる。アメリカン・ドリームは北部出来の先天性のガン、呪いだ。どんなロックバンドもそれが起動するまでの長い余白期間を生きている。丁度、テロメアがその鳴動の回数を運命づけられているように。
Businessmen drink my blood ビジネスマンが俺の血を吸ってくる
Like the kids in art school said they would アートスクールのみんなが言う通りだったな
(Arcade Fire “Ready to start” from ”The suburbs”)
とある敗北について歌った”The suburbs”は、皮肉なことにインディーズレーベルにしては信じられないほど売れてしまい、ついにユニバーサルと契約した彼等はインディーズを卒業した。そして彼らもまた語るべきことを語り終えると同時に、語る理由も間もなく終わりを告げたのだ。豈図らんや、最新作の”Reflektor”では彼らの曲にも歌詞世界にも、我々がインディーズという言葉の中に期待するエニグマが損なわれてしまい、LCDサウンドシステムのジェームズ・マーフィーの乾いたディスコ風のプロデュースががひたすら物悲しく響く。確かに彼らは膿を出し切ったし、戦いに勝ちも負けもせず、ただ戦い続ける理由を失ったのだ。だが、その影は実は彼らがネオン・バイブルを歌った時からつきまとっていた。”Keep the car runnning”の中で、まるで「魔王」のような夢中のカーチェイスを続けていた彼らは、ついに彼らが逃げ続けていた漠然とした不安の影に捉えられてしまった。そしておそらく、肥え太ってゴージャスな服を着た、自らの敵によく似たその相貌は、自分自身の顔をしていたのだ。
だが、もう気にするな。誰もが本当はリッチになりたがっている。それだけは真実だし、君達はついにリッチになれたじゃないか。君が若い頃、進んでハングリーになろうとした理由は? それも言わなくていいさ。全て明日、つまり今日という日のため、リッチになるための辛く厳しい日々だったーーそうだろ? 予言は今、実行されたのだ。
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