『サウルの息子』アウシュビッツから遠くはなれて
ラビ(rabbi)
ラバイともいう。元来はヘブライ語のラブ (偉大な) という言葉から出ているが,聖書では「僕」に対する「主」ないし「師」の意味で用いられる。タルムードの時代までは,聖書と口伝律法の解説者で平信徒であった。(出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 )
ユダヤ教の聖職者。原義は〈大きい〉を意味するヘブライ語から派生した〈私の主人〉という呼びかけ。〈ラビのユダヤ教時代〉(前5世紀~後7世紀)に律法学者の称号となる。〈ミシュナ・タルムード時代〉(後1世紀~7世紀)を通じて,ラビはいっさい報酬を受け取らない聖書と口伝律法の注解者で,必ず別の職業によって生計を立てていた。ラビが,ユダヤ教徒コミュニティの精神的指導者,あるいはシナゴーグの説教者として任職するようになるのは,中世以降である。(出典 世界大百科事典 第二版)
さて、少々大仰に過ぎるこの引用を、丁度メルヴィルが『白鯨』の冒頭にクジラについての無数の引用を引いたのとほとんど同じ意図の元に持ってきたことには当然理由がある。我々は「ラビ」という一応どのような意味かは理解しているにしても、その言葉の実態はよくわからないという状態にあることを再確認するためだ。言葉の中に折りたたまれた無数の文脈を知らないために、我々はこの言葉について多くを語ることを必然的に躊躇う。宗教に関わる問題であるなら尚更そうなるだろう。
しかし私の浅学とはまた別に重要な事実がある。ラビという言葉が最初に適用されたのは、一世紀半ばのユダヤ教(聖書に曰くファリサイ派)の律法学者であるガマリエルに対してと言われる。つまり、旧約聖書自体には、ラビという言葉は典拠がない。『サウルの息子』の中で、サウルは始終ラビを探し続けるが失敗し続けることに、このことは少なからず関係するのである。。
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サウルはアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所のゾンダーコマンドである。ゾンダーコマンドとは、ユダヤ人でありながらユダヤ人の処理を命じられた者達であり、彼らは交代という死が訪れるまでの毎日を、彼らは心を殺して同胞の屍体の処理に当てることになる。
しかしこの物語に発狂する者や沈鬱な人々はいない。どころか、誰もがその日に向けて暗躍している。10月7日に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ではゾンダーコマンドによる蜂起が行われた。歴史上では結果的に鎮圧されたが、その前夜に向けて暗躍する彼らの目には発狂の色はなく、熱い視線の下でかわされる密かな手交がある。最悪の状況でも闘う理由を見つけた者たち、これだけでも希望の物語が立ち上がりそうだ。しかし、サウルだけが違う方向を向いている。サウルは、ある日収容所に運び込まれて毒殺された彼の「息子」を弔うために、ラビを探し続けている。
とはいえ、サウルにもラビを見分けるための光輪が見えるわけでなく、運搬される衆人の中で彼が追うのは、実のところ仲間内での、誰彼がラビであるという噂と、ラビらしさを表象する口ひげだけだ。そして、ラビという言葉は何度も映像の中で繰り返され、何度も先触れされることで、待望され、お膳立てされるのにも関わらず、いつまでも到来しない。なんとかラビを見つけるために、別の部署組んだりまで会いに来たと思えば、目の前で殺されてしまう。終盤にて、彼が必死の思いで捕まえ、あやうく焼き殺される寸前で救いだしたラビらしき男も、自分の部屋に連れ込み、ついに葬儀を執り行おうという段になると、結局ラビを装っていた普通の人間だったと知る。サウルは急速に冷めていき、ゆっくりとハサミを取り出し、彼のひげを剃り落としていく。お前は俺の追うラビではないと言わんばかりに。しかし、最後にはこの男に命を助けられ、その代わりに彼が弔うとしていた子供の遺体を取り落とすことになり、ラビの必要を彼は損なってしまう。
「ラビとは何か」という問いへの待望された解答はついに映像の中では描かれることはなく、全てサウルの妄想として結果してしまった。この最後の関係を、神の死後という概念や、その後での救いを追う物語として読みとくのには首肯できる。しかし問題となっているラビが経典に典拠がないとき、彼のラビを強く求める欲望を、信仰の物語として読んでいいのだろうか。本来ならば、彼はこの場所で言葉どおりのラビの理想を追うことを諦めねばなかった。彼は有り合わせの、見せかけの、通り一面のラビという言葉で祭壇を誂える平凡な信者であることを受け入れることもできたはずだ。正式な葬儀が不可能であり、簡易な祭壇と簡略した儀礼しか用意できなかった以上、彼に必要なのは妥協と、内面の中だけの信仰の確信だけだったはずである。しかし、彼が行ったのは、虚飾をあくまで拒否し、徹底的に自分の中にあるラビという言葉を反芻し、忠実にあろうとすることで、むしろこの言葉の再解釈を行うことだった。サウルは決して信仰に対してストイックなわけではなく、むしろ異端信仰を育てていたと言うべきだろう。ラビは来ないのではなく、彼はラビを拒否していたし、外部に対していかなる感想を持つことも拒み、個人的な信仰を何度も反復させることに執心した。この点でサウルは、信仰者よりも、むしろドン・キホーテのような狂人であったと読み取ることができるだろう。
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このために、この物語を既存のアウシュヴィッツに関する映像作品と比較することはおそらくカテゴリー上の過ちを産む。『サウルの息子』には緩急が在り、ドラマが有り、またサスペンスとサプライズがあり、比較的コンパクトにまとまっている。何より、アウシュヴィッツそのものを他者として描こうとしない、というより、それらに一切の謎を見出そうとせず、むしろ舞台として選ばれながら、意図的に遠景として描かれ続けている。この演出には本来ある程度の叱責があってもおかしくない。どこかでアガンベンが、むき出しの生など吹聴した、アウシュビッツの「回教徒」的状況、証言すら不可能な人々の声について、この映画では彼らを代弁するのではなく、極めて巧妙にも迂回されている。
当然として、ゾンダーコマンドの蜂起へ向かう集団的高揚に対立するサウルの個人的狂気が、映像の撮られ方自体によって表現されている。この映画の中では文字通り、サウルの極めて近くにある現実しか撮られていないし、蜂起の実態や首尾もよくわからない。これはサウルの意識そのものに符合する。サウルにとって、彼を取り巻くこの状況が、後世においてどれだけ悲劇的であったかなどどうでもよく、必要であればどこであろうと即座に帽子を脱ぎ、敬礼の姿勢を取って警邏をやり過ごす。
しかし、そもそもサウルが弔おうとした少年も、追々明かされていくサウルの素性と照らし合わせると、どうやら彼の実子であることすら怪しく、やがて「サウルの息子」というタイトルすら危ういものになっていくのだ。だが、今となってはその死んだ少年が自分の息子なのかどうかすら、サウルにとってはおそらく些事なのだろう。彼にとって最も重要なのは、不意に自分の内面に現れて自分を貫いた、自分だけのーーもはや経典の中にすら見つけ難いーー救済の物語、つまりラビという言葉の個人的解釈を達成するために、自らを消耗させることであり、そしてそれによって、自分をアウシュヴィッツの外ですら無い「この世界の外側」に逃がすことにある。彼は10月7日のゾンダーコマンド達の蜂起をよそに、ただ内的な脱出の達成だけを祈念して「空回り」している。だから彼が蜂起という激動に喚起されなかっただけでなく、爆破作戦の足を引っ張ってしまうこと、そしてこれがまるでコントのような、上着の取り換えによって達成されてしまうことも、また重要な側面である。
この作品において最も適切に機能した一つの舞台装置としてのエスプリがある。それは「観客は悲劇とアウシュヴィッツに関する訓戒を期待して来た」が「実は主人公が狂人であり、喜劇だった」というものだ。かつて、アリストテレスは悲劇を「優れた人々(神)の物語」喜劇を「劣った人々(人間)の物語」だと評したが、喜劇というのが見解の行き違いと偶然で駆動するものであるとするなら、サウルの物語はひたすら彼の思い込みと勘違いで駆動し、そのために彼の欲望は運命的な瞬間であったゾンダーコマンドの蜂起からすら離反していく。この点で、アウシュヴィッツを取り巻く物語がしばしば悲劇の色に彩られているのに対して、サウルを貫く妄想の物語はあくまで反-悲劇的であり、喜劇=コメディであることを喚起しなければならない。
サウルの喜劇的な側面は、今までの、鎮魂の棺に花々で彩られたホロコーストに関する既存の言説そのものに冒涜的だが、それであればこそ正しいだろう。彼が見ていたものについて再確認しよう。常に彼の周囲に控えて、サウルの意識、認識とほとんど同化したカメラは、ゾンダーコマンドであることの中でも最も苦痛に満ちた瞬間である、仲間をシャワー室におびき寄せ、毒殺し、その屍体を即座に運び集めては焼却し、また新たな同胞を呼び寄せるという場面も、ピントの中にしっかりと収めることはない。サウルは強いてそれらを見なかった。現実として受け付けなかったのだ。その逆に彼は、アウシュヴィッツをめぐる運命とは関係のない個人の欲望のための物語を立ち上げた。コメディとは常に笑いを含んだものというわけではないが、サウルが自らの絶望的な状況に対抗するため、無理やりにでも自らの物語を創出しなければならないし、その様は確かに天上の存在から見れば滑稽ですらあるだろう。まさにドン・キホーテの滑稽さだ。しかし、ゾンダーコマンドとしての受動的な死か、あるいは蜂起の上での殉死か、どちらであれその与えられたドラマに従わないならば、人はたとえ傍から狂人に見えたとしても、自分のための物語を創出しなければならない。
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ホロコーストは理性の崩壊という悲劇だったが、歴史の使命から、それは必然ではなかったと今後も捉え直し、ホロコーストは未然に防げたのだと内省していくこと。それは今後も当然必要だが、同時に、ある流れの中で、欲望や認識の操作に翻弄されたり抗う個人の、個別の力という喜劇を描き、捉え直すことで、むしろそれが超時代的なものになる所までを確認すること、つまり歴史だけでなく(もはや人ならざる姿であっても)人間を描くことが必要である。そうでなければ、悪しき構造に囚われた個人を、構造の外に逃がす力を与えず、飼い殺しにすることを黙認してしまうからだ。
だがそれは、理性の損なわれた時代に復元される調和を謳う「シンドラーのリスト」のような「ヒューマン」ドラマ=人情劇が目指す理性の復権とは真逆の試みでなければならない。そのために、サウルの息子は希望の通り名であり、最後に現れた見知らぬ村の少年にカメラが移ることで、サウルは銃殺されながらも、その希望が手渡されたと解釈するのはやはり楽観的に過ぎる。サウルはやはり狂っているのだ。そして、彼はもはや救済という希望を求めてはいない。だがサウルの息子の名は、いまや欲望と呼ぶべきものだろう。そしてこの欲望に関する物語こそ、アウシュビッツに関する言説、無数のインタビューの中ですら、おそらく何度も取りこぼされてきたものだったのだ。
※映画冒頭ではゾンダーコマンドについての引用が行われているが、本論ではそれを踏まえ、まずラビという言葉を掘り下げ、このラビという言葉に執心するサウルの側面について書くことで、ある個人的な狂気を、アウシュビッツという言説にかかる神秘の秘匿性に対立させることで表現した。
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