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私は呪われている 私小説を借りて(古井由吉論)

1999年、父親の書斎にこっそりと侵入して面白い品を物色するのが癖になっていた私は、彼の普段は鍵のかかった机の中にとある手紙を見つけていた。その手紙は、精神科医である父の患者のとある女性が、父との密会、性的関係を切望するものだった。幼い私にとって、父がそのような手紙を大事に机の中に潜めていたことが、単なるアバンチュールを超えて、来るべき家族の破局の予兆以外には思えず、当時は随分と心を砕いたものだった。ところで、その手紙の最後の辺りの、このような1行が眼を引いた。
――私は呪われているんです。
そしてこの言葉はおそらく、ただの一時も私を捉えて離すことはなかった。

 

 2012年から2016年、つまり大学に通っていた四年間の間、私はついに一度も私小説を読まなかったと記憶している。勿論、目の端でちらと文字を追うぐらいはしただろうが、それよりも大学に入るまでは全く人文学の研究の類を毛嫌いしていた所、大学に入って哲学や社会学、文学研究などを学び始め、世界的研究、世界的精神の情熱のようなものに触れた盛りで、私小説は全く惨めな、日本語の偏狭性、後進性、マイナー性を代表しているように見え、一時は夢中になったことすら羞ずかしく思えていた。そのため、私は大学に入る前に日本文学の古典をざっと洗った程度の知識で満足していたばかりか、それに飽きたらず、随分腹蔵なく余人に、日本文学とは此れ此れこういうもので……と何かで聞き齧った高説を垂れるぐらいには驕り高ぶり、また話の最後はいつも、小林秀雄の「私小説は死んだ」を諳んじて格好をつけたものだった。

 

しかし、この頃の記憶を紐解こうとすると、随分錯綜した印象を受ける。日本文学を軽んじるような先走った言説には、裏腹な恐怖と忌避の念が陰画のように焼き付いていた。というのもそれらの言葉は、日本語で書かれた文章とはどうあがいても、私小説的なものから逃れることはできないという予感に抗う、背理的な否定だったように感じる。暇になってから古井由吉や大江健三郎を読み直すと、そのような感慨を抱いた。今思えば、小林秀雄のあの早々とした断定すら、そのような恐怖への抗いだったのではないか。とはいえ、確かに私小説は現代では死に体であるように見える。たとえ、西村賢太や又吉直樹のような話題性のある私小説家が燦然と現れ、私小説が一息を吹き返したように見えたとしても、古井由吉という稀有な才能を持った作家が執筆をまだ継続していたとしても、私小説はもはや完成されたスタイルであるために、これ以上の進展はないだろう。ただし、一つ注釈が必要だとすれば、私小説は、それが現れるときにこそ、より善く死んでいなければならない。

 

古井由吉の小説には、ひとり日本語で書かれた小説という自体への豊かな諦念がある。彼の小説は日本語の文法上の原則に留まらず、日本文学の持つ固有の系譜を自己の内外で反復すること以外に、自らを生かす方法を知らないかのようだ。しかしこの諦念の豊かさとは、ドイツ語だけでなく、非常に広範な言語に長けた彼が、日本語という条件をつぶさに鳥瞰した結果によるもので、無知な人間が安易に飛びつくニヒリズムとは数段異なる場所にある。確かに、英語では、”I NOVEL(S)”と呼ばれる、この私小説なるもので描かれる私が、一度日本文学の中で起こってしまった以上、いまや我々日本人にとっても、ある必然性を持って再起することは間違いないのだ。

 

古井由吉は、ただこの事実を指摘している。私というものの幽霊たちに呪われた、私の再帰性。つまり、私の生は、この私以外の無数の私の死に呪われている。これは私小説だけにとどまらない。近代以後、私というたった一人の登場人物についてだけ、他とは比べ物にならない莫大な量の小説が世界中で書かれてきた。そしてその全てが私についての物語だった。私は過去と未来のあらゆる時間を行き交い、また自らについて話した。私はまた数限りない数の私と自己矛盾してきた。今の私でなく、総体としての私と呼ぶべき、文学の間を徘徊する私が存在するし、この2つの私は常に同義である。他の私、他者の私とは、即ちこの私である。だが、私は呑気な健忘症者であり、私はその全ての私を一度きりにしながら、何度も今の私を繰り返す。結果として、私の中で他の私が阿鼻叫喚の様で蠢いているが、それは注意深く密閉されていて無音である。このどよめきの中で、ひとり呼び水としての私の声だけを聞き取ることはできない。ところで、この他の私、私を含んだ私以外の私を、死者というべきだろうか?いや幸運にも、日本の幽霊という言葉は、生霊という状態すら含んでいて都合が良い。むしろ、西洋で死者と呼ばれる彼らは、私小説においては、私の幽霊という言葉で呼ばれるほうが似つかわしいはずだ。

 

古井由吉は大江健三郎との対談の中で一度、私の内外に横たわる無数の幽霊たちを柔らかくまなざしている。しかし彼の小説の中では、私は何度も、私の中で繰り返される異なる私の影にはっと振り返るようだ。《窓の内》の中で、私はこう独白する。眠りに入る前の自分と、眠りから覚めた自分とは、すっかり同じなのだろうか。もしくは、彼の小説の中で、自分についての諸々の説明を省いて、見たことや聴いたことを有り様に語りだし、時に時系列が乱れ、途切れなく過去や未来に行き詰る私は、時にその語り手である古井由吉に無体なほど似姿を取る。だが、2つが重なり戯れるにはそもそも違いという余白がなければならず、もともと同じではありえないのだ。とにかく、癒合にしても、表面において、ということが肝要であるようだ、と。また、これがおのれを観るためには絶好の位置取りである、とも、彼は言っている。私は他の私に憑かれたとき、一回きりの体験にすら無数の再帰性を見出す。幽霊をまなざす私は確かに自身もこの上なく死者に近づく、だが無数の幽霊を再起させるためにも、今ここの生者があらねばならない。生きながらの死、死も同然の生、この幽霊的状態こそ、文学の在り処である。

 

それは、言い換えるなら、このただひとつの私の生こそ、私の外で、他者として私を構成する一つのフィクションである、ということになる。古井由吉は〈明日の朝〉で、私はいつか自分のいなくなった、自分のもう済んだその跡を、そこにまだいながら、見ているのだろうと書いているが、文学の中で、私はここにいながら、私の内外で幽霊の存在を感じる機会を得ることができる。だが、実際には多くの私、多くの私小説は、操舵室にいるこの私は愚かしく、聞いたことのない私の声、セイレーンの誘いの歌を聴くことがないよう、注意深く耳に詰め物をして、一人舵を切っているような顔をしている。この私だけが本当であり、他の私は嘘である、と言い切りたがるようだ。しかし、どうしてこの私が、これら霊の声に惹かれてはいけないことがあるだろう?

 

古井由吉の小説の中で、私はしばしば不眠症となる。それにつけて、ジャック・デリダが他者について思考した〈死を与える〉に、不眠についてのこんな起案があったことを思い出す。ソクラテス曰く、哲学は肉体の死の練習であり、これをもって魂が発生する。そしてデリダは、これこそが魂(プシュケー)のもっとも重要な性質なのだと指摘する。以下は彼自身の言葉であるが、なぜなら、魂とは、死に心を配り、魂の生命そのものであるかのようにして死を見張るような、死の見張りのことにほかならないからだ。生命としての、生命の息吹としての、プネウマ(気息)としてのプシューケーは、気遣いにみちた、死ぬことの先取りによってしか現れない。この見張りという先取りは、暫定的な喪、(死者の)徹夜の見張り、すなわち通夜(ウェイク)に似始めている。

 

これはもしかしたら西洋思想に固有な、死の過剰な偏重かもしれない。我々はもう、幽霊という生きながら外に出る自己のあり方を知っている。しかし、無数の私を自己の中で通りぬけさせることの重要性に気づくこと、そしてその最良の方法としてある不眠の切迫を見出すことは、生の常としての緊張状態という意味で、あらゆる死に備える思想の潮流に位置しているのではないだろうか。およそどんな宗教でも、眠りを禁じる行為には聖性が伴うが、無数の幽霊、無数の他者であり得る私と共に常夜の世界を征くこと、これこそが善き生である。別の場所でドゥルーズがそっくり言っている。一切がかくも「複雑」であること、〈私は〉他者であること、何か他のものが、われわれの内で、思考の侵略、身体の多数化、言葉の暴力において、思考すること、これらは喜ばしいメッセージである。というのは、かくも多くの存在者と事物がわれわれの内で思考するからこそ、我々は再び生きる(復活なしで)ことを確信するからである。

 

私小説の求める私の描写が、批評家が窘めて言うような私の流出と異なるのは、おそらく霊の声への態度に存している。確かに、古井由吉にかぎらず、私小説の中の私は、やれ、鱒を食い過ぎて腹がくちいだの、蚊に噛まれた踝がむず痒いだの、障子に空いた穴がいつ空いたものか気になるだの、随分だらしなく自分の体の内と外についてを洗いざらい話すように見える。だが、このような特徴を挙げ連ねて、私小説の中の私は、社会から切り離された私の垂れ流しであるとの指摘は間違っている。なぜなら、自分語りというものが、しばしば、ただ私が今生きているというだけで、私の感じ方や感性が、他との明確な峻別の中で一個の意見と成ることを期待する、いわば、ノンフィクションの拝金主義である。一方、私小説の中の私は、この今、一回きりの私であることを諦めることで、今生きている私から取り除かれて、限りなくフィクションに近い存在になることである。これが、幽霊の声に誘われてはなかくなるということの意味である。

 

だが、技工や文体を除けば、やはり自分語りと私小説を峻別する明確な壁は存在せず、この、せいぜい私の死を先取りして了承するという態度によってしか、内的には反復されないように見える。ここは、日本語の霊的なところであり、一種の呪いだとしか言いようがない。だが、逆に、説明的であることが不可能な領界において、この私が他のフィクションとしての私につられて、幽鬼のように曖昧になることができるからこそ、この私の生も一回きりではないフィクションである、と言い切ることも可能であるのだ。ここに私小説の、日本語で書かれる私の賭けがあるのではないだろうか。そして、一人称を略奪して書けという問い自体の可能性もまた、批評と小説の間を徘徊する、日本語と、私の決定の不可能性を先取りすることに根ざしているように思われる。批評が例えその本義をクリティックに根ざしていても、実際に書かれたそれが、ほかのどの言語で行われる批評とも異なる様相を呈するのは、それが日本語の固有な性質に肉薄するほど力を引き出された時しかない。確かにその時、日本語で書かれた私は、日本語の外には出られないことを予見するかもしれない。しかしそのような瞬間こそ、むしろ日本語は他のどの言語でも代替できない、特別なフィクションを目指すのではないだろうか。

 

 *

後日、秋の日に新宿御苑を散歩しながら、本稿について思い返すことがあった。私は最初、およそ一人称で書かれる物語全ての主人公に成り代わることがおもしろいと考えて、そのために、私、という言葉の持つ魔的な魅力について考えるとしたのだった。だが、古井由吉や大江健三郎を読み返しながら、全ての一人称の主人公を思考することは、主に私の捉え方の問題、つまり言語の問題のために不可能だと感じてきた一方で、日本語で表現される私についてなら、私が私自体について語り、問い返すこと自体が、すなわち私小説の主人公に憑依することでもあるだろうと、なんとなく得心した。とはいえ始めて見ると、このような試みがすんなり理解されるわけもなく、当然注釈が必要だった。結果的にこの文章は説明的で説得的であることの必要性ともぶつかり、私一人の独白とも言いがたく、私小説としては極めて純粋性を欠く文章が出来上がったと感じた。しかし、私が私だけの言葉でできているはずはないと知った後ならば、この混淆をこそ、むしろ調和であると見て取るべきだったのだろう。まぁ、その頃には、そのように考えるようになっていた。

  丁度ここまで書き終えた時、翌日の午前二時だった。喉が乾いたので水差しを注いでいると、ふと大学時代にも同じようなことを考えた気がしてきて、なんとなしに私小説という言葉をパソコン内の検索欄に打ち込んでみた。しばらくして、2013年辺りの、無数の散らかった端書の中に、今日書いたものに近いような草稿を幾つか発見した。そういえば、この頃は大学にも行かずに一日中くよくよしていて、みっともないものを食い、人に会うや会わずやで一日を終えることも多かったが、今読んでも、文体が拙く混濁していて、自分の稀有壮大な思考に酔っぱらっているようで、読むのに苦労した。親や友人からも、お前は何を考えているのかよくわからないと言われていたし、漫然とした死の予感に毎日苛まれていた。この文章の主に私小説らしい部分はその時の文章から引いてきて、後から付け足したのだった。たかだか二三年が開くだけでも、自分が当時何を考えていたのなんて、わからないもの、と考えるべきかもしれない。
ところで、私は呪われているんです、と言った彼女は、その後どうなったのだろうか。

1991年、私は、鹿児島の小さな病院の一室で、産湯に洗われ、短い喘ぎを継いでいる私に、このような祝言を贈ることにした。
ーー大丈夫、私には才能がある。

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