映画は是非活気のある小劇場で
《28日後》(2002年)の脚本を務めたアレックス・ガーランドが初監督を努めた《エクス・マキナ》(2016年)の放映が6月11日から始まったが、本作は2016年のアカデミー賞の脚本賞と視覚効果賞でノミネートされ、更に視覚効果賞を受賞している。ところで、後述する内容の批評に絡めた結論だが、本作は是非、映画館で視聴することをお勧めする。
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「ブルーブック」という巨大検索エンジンの会社に務める若いエンジニアのケイレブが、ある日抽選で選ばれ、ブルーブックのCEOであるネイサンの居宅で、彼とともに二週間ほど滞在する機会を得る。ネイサンはケイレブに、彼が秘密で開発しているAVAというほぼ完全なアンドロイドとのコミュニケーションのテストを求めるが、ケイレブはAVAと会話していく内に、彼女の魅力に徐々に惹かれ、またネイサンに対しては徐々に猜疑心を抱き始める。その内に、AVAの誕生の経緯を知ることになる、というのが本作の大筋だ。基本的に、密室劇である性質上、低い予算で造られた作品であることを伺わせるが、本作がもっているテーマは、SFファンダムの中心を射抜くだけでなく、ちょうど〈インターステラー〉(2014)のように、ある程度マンガ・アニメ的な領野にも横断する求心的な映像作品になることが伺えたので、ここ日本で上映されればすぐに話題にもなるだろう、とかなり期待していた。(…少なくとも大ヒットした《攻殻機動隊》(1995)や《マトリックス》(1999)などサイバネティックスのカルト映画の系譜に載せて紹介するだけで、集客力は倍加したように思われるのだが。)
しかし、結果として、日本の大手配給がこの作品をほぼ総スルーしたことには、落胆の意を隠せなかった。セゾングループのパルコが配給協力に携わったことでユナイテッド・シネマ系列など各中央市のシネコンの深夜枠や非シネコン系の劇場など各所で上映されているが、この結果アカデミー賞を2つ受賞した出色の作品であるにも関わらず、地方居住者が都市に訪れずして本作を見る機会は激減してしまった。事情は推し量るしかないが、おそらくは内容を鑑みてのことだろう。確かに、裸体や暴力表現は極めて少ないが、そこには明確なフェティッシュがあり、短いながらも非常に痛ましい。(とはいえ、アンドロイドの裸体は本来非常にアンビギュラスな場所にあることが映画内の描写上で強調されている以上、暴力的な場面すら、対象がアンドロイドであるということを鑑みれば、メタ・ヒューマニックなものであることは容易に看過されるはずだが。)これに比べると、同じくアカデミー賞を受けながらもR-15指定の《マッドマックス 怒りのデスロード》(2015年)にはセクシャルな表現は全くなく、暴力表現もむしろ爽快感を助長する景気の良いものであり、現行のレーティングには少し複雑な印象を受ける。
さて、本作はアカデミーにて視覚効果賞を受賞しているが、特殊なVFXを使って表現されたアンドロイドの身体は確かに画期的である。皮膚が透過性を帯び、内部の機械部分を透かしながら、その部分に人工の肌を貼り付けて隠せば、ほとんど人間にしか見えない存在としてアンドロイドを描いている。このVFX技術をおそらく転用して(というのも2つの公開は極めて密接な時期にあるが、後者が若干後に当たるので)インターネット上で話題になった、ケミカル・ブラザーズと、BECKのコラボレーションによる新作MV《wide open》(2016)が作られているのだろう。こちらでは、日系イギリス人のバレリーナのソノヤ・ミズノが全身をスキャニングされ、部分的に網状の透過性を帯びながら自由にバレエを踊っていると、徐々に網目の部分が多くなり、やがて服だけを残して全身が網状になってしまう、という驚くべき映像だ。ところで彼女は《エクス・マキナ》にて、英語を解さない娼婦としての日本人女性として出演しているのだ。そしておそらく意図したであろうこの対比は鮮やかとしか言いようがないが、《wide open》ではそのアセクシャルな身体を伸びやかに駆使しながら飛び跳ね回る一方、《エクス・マキナ》では自分の官能性(そして日本=ゲイシャ的なオリエンタリズム)を惜しげも無く男性に披露しながら、ディスコ調の曲で踊り狂うような一面もある。
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劇伴についても触れておこう。《エクス・マキナ》の音楽はイギリスのテクノロックバンド、ポーティスヘッドの作曲担当である、ジェフ・バーロウによって制作されている。とはいえ、このようなコラボレーション自体は、特別画期的なわけではない。近年では著名なテクノ・アーティストが映画の劇伴を担当することは珍しくないし、例えばダフト・パンクは《トロン:レガシー》(2010)に、ケミカル・ブラザーズは『ハンナ』(2011)の劇伴を制作している。しかし、それらの単発のコラボレーションは話題性が先行している以上、造られた劇伴も少なからず彼らの完全なスタイルの延長戦上にあり、作品と歩調を合わせていたとは考えがたい出来だった。だが、飛び道具気味だったエレクトロ・サウンドを映画音楽の演出のダイナミクスに接続したという点でデヴィット・フィンチャーの近年の映像作品(《ソーシャル・ネットワーク》(2011)《ドラゴン・タトゥーの女》(2011)《ゴーン・ガール》(2014)の劇伴を担当した、ナイン・インチ・ネイルズとしてテクノアーティスト/プロデューサーとして活躍しているトレント・レズナーと、同じくテクノアーティストであるアッティカ・ロスの二人のワークショップはやはりブロックバスターとして特筆すべき存在だろう。幾つかの点で、ジェフ・バーロウも二人によって既に構築されたこの知的な緊張感を、いくらかそこから引用してきたことが伺える。例えば女性型AIであるAVAとの会話では、鼓動に似た低音を延々と流し続けることで、劇伴なのか環境音なのかも怪しい、ドローン・サウンドにとどまりつつも、徐々に音量を上げることで、緊迫した場面に入るずっと前から静かに河に毒を流しこむようなやり方で、ひりつくような緊張感を演出している。一方では、丁度『ゴーン・ガール』(2014)のたった一度の殺害シーンを、非常にマッシブに演出したワブル・ベースの音に近い発想で、サスペンスフルな殺害シーンを演出している。これらは前述した通り、確かにオリジナリティーのあるものではないが、引用元のエッセンスを的確につかむことで、極めて感性的な経験を創出している。そしてこの緊迫感を肌で感じる上では、自宅で見るよりかは、やはり息が詰まるような緊張感のある小シアターが相応しいだろう。
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このように、アレックス・ガーランド監督はセンスの良いものはなんでも尊爵せず積極的に取り入れているおかげで、あくまで大筋としては、アクションやクライマックス主義に頑なに抵抗したミニマルな映画でありながらも、マイナーな雰囲気に寄り切らせないようなエンターテイメントへの配慮が行き届いており、そこには監督の愛嬌のようなものすら感じて、好感を覚えこそすれ嫌な気はしない。最新の映像技術と、その技術に関する幅広い思想を、少々雑駁でも魅力的にカッティングすることで、ともすれば重くなりそうな生死に関わるテーマを踏まえながら、とても軽やかでソフィスティケートされた出来に仕上げている。初監督作品ながら、この軽妙洒脱さを買われて、アカデミー賞を授かったと考えるべきだろう。
とはいえ、この性質をこそ尊重するのなら、内容に関しての批判も少しある。《エクス・マキナ》の脚本には、少し「お勉強が過ぎる」というか、映画外の運動に関して、頭でっかちな部分が見え隠れしてしまってもいるのだ。劇中に登場する高い知的レベルを持った男性二人が禅問答的な会話を繰り返すが、度重なる引用を重ねながら、しかもそれらをくどくどしく引用元を追わせてしまうことで、結果的に、おそらく少なからぬ影響下にある、押井守の《イノセンス》(2004)や《攻殻機動隊》(1995)における引用のような、突き抜けたペダンティックなエスプリの感を損ない、どこか鈍重になってしまった感が否めない。(もちろん、押井守がJ・L・ゴダールを意識したうえで引用に徹しているのは理解できるが、視聴者があの引用の氾濫の中に見て取るのは、むしろシャーマンのトランス状態のような、自他の混濁した意識の流れだろう。)
しかしここまで語った通り、本作の中の鋭敏なポップ・テイストのおかげで、最近のマイナー映画の「映画館」での経験を語る上では、なんにせよマイナーであるという額縁が最も悩ましくあるような現状、珍しいほど融和的な位置にある。何せ、マイナー映画の映画館での鑑賞の敷居は今もって高く、大々的な広告がされていないというだけで、何か珍重な面持ちで、陰鬱な気持ちになることすら血判書を押すことを強いられていると感じながら映画を予約しなければならない。しかし《エクスマキナ》に関しては、レンタルやネット・ソースを当るより、狭くても団欒の雰囲気の映画館で見て頂くほうが、間違いなく楽しめることだろう。身構えずに予約して、何の気負いもなくエンターテイメントを期待しながら、すこし手狭なシートに尻を落ち着ければ良い。過日、私は7月2日の新宿シネマカリテの昼の一席を駆け込みで入ったが、当日の席はその後も含めて全て埋まっていて、翌日の席を予約する運びになった。そしてその席も満員で、様々な客層の人々が詰めかけており、客席で内容についての期待を語らう人々の言葉に耳を傾けると、皆少なからぬ映画への期待を共有し、どことなくスノビッシュな高揚を隠そうと務めているようだった。
現在、大枠の「エンタメ」というのが今や手垢のついたクリシェと耳を聾するような爆発とアクションで埋め尽くされているからこそ、何かの焼増しのような映像で煮え湯を食らうことなく、かつ気楽に楽しめるエンターテイメント映画というのはますます貴重だ。この際、「アカデミー賞はやっぱり映画館で見たい」という心持ちで集った人々とつかの間スノビッシュな気持ちで鑑賞するぐらいの腹積もりの人が一番楽しんでいるのしれない。それがまた映画の性質と絶妙に調和している。何だかイイカンジの森林の中のコテージ、洗練されたシステムキッチン、ジャクソン・ポロックの絵画のかかったリビング、そのような心地の良いものが画面のどこかを占めている中で。スマートで洗練された才人達の饗宴の映画、…というとなんとも下世話な作品に聞こえてくるが、それを見て少しスタイリッシュな気分に感じ入る、というのも、大衆映画の醍醐味として十分存在することだろう(そう、デヴィット・フィンチャーの映画のように)。気持よく刈りこまれた芝のような作品に興じるも良し、思弁的な会話やエンディングにほだされて、自分もブログやSNSで、感想がてら、何かしかつめらしい文を認めてみるのも良し。そこからコンテンポラリーな批評をつかみ取るのは一見難しいかもしれないが、雑駁が故に、多くの問題に新たな角度から光を与えることも不可能ではない。だから、敢えてお勧めするのだが、《エクス・マキナ》こそ、映画館でご覧あれ。
〈付記〉
作中ではあまりにも不用心に描写されていたが、一般論として、グーグルのような検索エンジンがもたらす情報がAIに合理的で人間に近い頭脳を与えるというのは、昨今流行りのビック・データやサイバネティックス流のシンギュラリティ妄想である、と言うべきだろう。つまり、それらは、現実的に集合知がまともであると保証するものは何もないにも関わらず、自らの主導(つまりは、主体的な参加だが)だけが万事を善に好転させるだろうという、オプティミスト達のレトリックに過ぎない。例えば現在の世界でグーグルのようなベンチャー企業が主導的な立場をとっていたとしても、それはグーグル自身が自ら語るエヴァンジェリスト(技術肯定論を配分する者たち)としての功績ではなく、もっと小規模な、インフラレベルでの、局地戦の勝利であると言える。早足で賦活するなら、彼らは現在、周到に先回りして斥候に地面を踏み固めさせ、地雷を撤去したうえで進み、予言通りに何事もなく自己実現しているような顔をしている。つまり、全ての順序は逆なのであって、本来は予言(つまり福音=エヴァンジェリオン)が先に与えられた通りに実行されて、始めて予言が実行されていると言うべき所なのに、彼らは曖昧にもテクノロジーの無限の可能性を常に語りながら、同時にあらゆる未開拓の分野でイノベイティブに(つまり「アトランダム」に)侵入した後、事後承諾的にそれらをテクノロジーの功績として認めさせている。この繰り返しによって、テクノロジーの主体性の側にある、潜在的な無限の可能性は「後から来る」触れ込みによって無再現に拡張されていくことだろう。この、フット・イン・ザ・ドア染みたテクニックを使って、彼らのスローガンである”making the world a better place”(グーグルが2004年のアメリカ証券取引委員会に提出した書類にはこう書かれている)が毎日彼らの庭で達成されているにしろ、彼らが自らのプラットフォームを肯定するような思想を毎日我々に迫っているような時代に、わざわざ興がって自分からそのようなテーゼに乗る必要はない。(…と「私」は考える。)
※ 本稿ではカルチャー・サーチ・エンジン『REAL KYOTO』における浅田彰氏のWeb記事を参照。文体上のテクニックを再現しつつ、基本的な意匠は翻案した。
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