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批評(Krtick)・危機(Krisis)・鼻かみ紙(Kleenex)

課題に際して、吉田雅史氏、上北千秋氏、横山宏介氏の課題文を拝読した。どれも卓越した文体とテーマ性をもって作品を精緻に読み込みながらも、適度な緊張を保ち、豊かな持論を展開している。自分も卒業課題に際しては、このような内容を書ければ僥倖であると思う次第である。

しかるに、本論では各位の論について全く触れない。というのも、各位に敬意を表して言わせてもらうが、何か手落ちを探すような余地は見られなかった。それよりも、このような作品に関して与えられた課題のほうが、よほど懐疑に値するだろう。

つまり私は、ある意趣返しを込めて、東浩紀氏の課題文「批評の歴史は否定の歴史である。新人は必ず先行者を批判して現れる。その否定の連続が批評というジャンルを特徴づけている。」そして佐々木敦氏の前文「批評/家は、いまや絶滅の危機に瀕しているのだ。」という2つの文言の親密な関係性について問題化することで、敢えてやっかみを買おう、というのだ。

さて、少々正攻法に過ぎるかもしれないが、批評について、つまり批評(critic)という言葉に関して、シェリング・シュミット・ベンヤミン・デリダなどによって何度も提起された言説を再び持ち出そう。文献批評(kritik=critic)とは、古代ギリシャ語の危機(krisis)に原義を持っており、またこのkrisisは同時に「判決」「裁定」の意味も持ち合わせている。批評は、危機、裁定、そしてそれらによって導出される規定(criterion)にまでつながっている。それにしてもこの、非常に重要な問題でありながら、冗長に感じるほど繰り返されてきた言説が、今や「批評」の「危機」として同語反復されていることに、微笑を覚えない人間がいるだろうか?

しかし、なるほど、批評再生塾第一期の前文の通り、この現代は、文芸の、知性の、哲学の、大学の、そして批評の危機の時代であるらしい。これらに限らず、どこかで何かが今もドラスティックな臨死状態を演出され、その打開のために大量の文字が費やされている。それでは、この前借りされた危機の予言は、その語義の通りの真に即時的な危機性を批評に与え返すことができているだろうか? あるいは今や主たる問題は、その原義が失効し、危機という言葉の細微な理解なしに横行している「危機以前の危機」防波堤の危機、つまり経済化された危機なのではないだろうか。少し筆が走り過ぎた。「批評=危機」と「批評における危機」の本質的な相違を順を追う必要がある。

さて、批評=危機としての危機性について。これも耳だこだろうが、仏語で危機とはper hazardであり、hazard=偶然性、現前性から切り離して思考することはできない。危機には「今、ここで」の現前性が亡霊のように付き従っており、その純粋な時間の切っ先は、ベルクソン的な時間の捉え方に悖れば、我々が生きている過去の記憶的時間からは常に隔絶されており、予見できない。然り、危機は常に今、ここ以外には存在しないはずであり、しかしまた、そのあり方をもってこそ、危機と呼ぶべきである。

では危機のこのような様相は批評においては、どういう意味を持つのか。批評という営為によって、作品に主体的に関わることができるというのには常にある「思い上がり」を含む。しかし、まさに批評者はこの「思い上がり」を推して参ることを自己に義務付けなければ、他者である作品と新たな関係を取り結ぶことはできない。

 批評家は個々の対象によって手を引かれて、喝采を浴びながら登壇するわけではない。いつでも力づくで、呼ばれてもいないのに、不用意な夜の時間に、彼らを呼び覚ます。その強引な顕れ方、作品の外部からの侵入は、我々が彼らに対する権利を持たざるところから始め、一挙に取り結び、「鬼子をこしらえる」やり方にある。だがいつでも双方にとって不意に行われる侵入を達成しようとするこの稀有壮大で向こう見ずな欲望こそ、批評家は羞じらいをもって任じるべきだろう。これは確かにまず一つ批評家がかぶらなければならない責任だ。だが、このような闘争の形式を経ることでのみ、批評家は秘密の抜け穴を通ってたったひとつの、あるいは複数の作品との密会を取り結ぶことができる、常に夜気を纏った、軽やかな愛の簒奪者でも足り得るのだ。そしてここでは独善的であるということ自体が、批評が作品の外部の言葉であることを自らに強いて任ずるということであり、このために我々は我々自身の語りの権利すら、常に賭けなければならない。

確かにこのような状態こそは、賭けであり、決断と呼ぶにふさわしく、そのために、我々は常に作品の側からは不要なものとして現れるとき、危機の中にあると言うべきだろう。そして、そのために我々には「行為以前に当然与えられるべき」権利(そもそも権利とはそのようなものだが)などそもそもない。あるいは、対象との可能性を取り結ぶ権利の通年契約などの思考は、危機以前の危機、いわば、マネジメント可能な危機だというべきだ。だが奇妙なことに、このマネジメント可能な危機こそ、今や我々にとっての危機の意そのものとなっている。

そう、今や我々にとって問題であるのは、現前するに至るまで予見もできない無数の危機に備えようとする「危機以前の危機」としての安全の自家中毒になることである。危機以前の危機である、予見可能な、見せかけの危機が常に危機として扱われている。そしてまさに批評においてはその必然の結果として、洟を噛むために使われる塵芥のような「使い捨ての文字」が生産され、本当の危機=批評を担保にした終わりのない予言と空言の浪費が行われている。よりによって批評=危機が、その「◯◯における危機」に翻弄され、無駄な言葉を費やしている。

危機そのものではなく、言説上での危機の形式とは、批評によって批評「の」危機を煽り意識を募ることで、批評自体の価値を何度も取り戻しながら、それらを使い捨てに、一時的なものにすることで無限に消費させる、自己言及の手口である。しかしそれは批評=危機であるというより、むしろKleenex(ティッシュの代名詞であるブランド、あるいは「使い捨ての」ハンカチ)のやり方であると言うべきである。つまりいまや私達が扱い、扱っているつもりで支配されているのは、批評=危機ではなく、もっと小規模で卑小な「◯◯における危機」というみせかけの危機、思考可能で掌握可能であるという矛盾を含んだ危機と、その裏返しの無数の安全言説による飽和状態である。ベンヤミンは「非常事態には、危機が日常となる」と言ったが、この「◯◯における」危機こそ、今やなんども再現前し、我々の未来に覆いかぶさっている、常態化した危機という矛盾である。

しかしこのKleenex(危機のために浪費される言説)は、垂れた洟水をぬぐう惨めなやり方のためにあるのではない。むしろ、洟が出ることに危機を抱かせるために、ますます頻繁に鼻をかませる洗練された「安全保障」の手管であり、この励行による自己管理=家政(オイコノミア)の創出でもある。そしてこの家政(自分の家庭をいかに管理するか)という内的暴力の内弁慶とは、公には朴訥として社交的な態度であっても、内では隠然たる自制と暴力の自己統治(ギリシャのあの一見精錬なようで、語られない差別を含んだ政治を見よ)であり、同時に無数の循環可能(リサイクル)な文字を消費するエコノミーの政治である。これこそ、批評家の批評家批判の実情である。

批評=危機=決断の向かいにて営まれる、安全な「批評家」による「批評家」批判、あるいは批評家の理念の止揚とは、自らのオイコノミア=家政によって囲われた非常に効率のよい経済であり、結論の定まった愉快な反復劇であり、思うまま読み手と書き手の心を満たすだろう。というのは、彼らが批評に価値なしと断ずるのならば、そもそも彼らが語る言葉の価値が失効する以上、そんな自家撞着を避けるために、いつもたったひとつの結論に向かう予定調和の議論がそこでは約束されているのである。

斯様の次第で、決められたルールの内でならいくらでも乗り越えられるべき存在として書き謗って良い、という批評の界隈における悪習とは、ある定まった領域内の止揚の運動であり、継ぎ木としての体系の称揚であり、そもそも批評=危機ですらないホモ・ソーシャル的手口である。この利口な経済のもとで、現今の批評家はかつての批評家を書き謗ることで一旦の栄華を飾るが、後年に次の批評家が全く同じやり方で彼を蹴落すことになるのは必定であり、この過程は消化=同化(digestion)を繰り返して歴史を構築する行為である。

 この内燃機関は、一見の外部性を内部に取り込みながら自転するという食糞に似た循環性を持つが、それは自らの内部から創出したみかけの外部であり、全くの他者=作品との出会いの危機を偽装し回避する。なぜなら対立が可能であるということは、双方に主人と奴隷の可能性を見出すことであるが、このような力学が否定性に向かう同一的なものへの無限な循環であることは明白であり、この運動はある一者の強化のために本物の外部の看取を恐怖するが故の臆病者の身振りである。そしてこのような、決断というねじれに向かうための意思も勇気もないゆえの批評家同士の対立は、見かけの対立構図の緊張と興奮に比して、極めて安全で利口な闘争だと言わざるをえない。

しかし「危機」こそ批評に必然の事態であるならば、どんなにそれが悩ましいものであっても危機を内部化=家政化してはならないし、また狡猾にも危機を予言して安全を創出させる運動に身を任せるべきではない。それは危機に対する賭け性自体のエコノミーであり、むしろ批評の本性に必然の「危機」から眼をそらすことで、かえって批評を現代的な意味での「危機」の座に貶めるだけだろう。しかしそもそも批評は誰かが「危機」的であると言い渡す前からこの概念としての危機と渡りあってきた。そしてこの危機を経ることだけをもって、新たな他者と、それを包含する社会との可能性を保ち続けてきたはずである。

さて、憚りながらも「総括」(この語はまさに批評における『内部ゲバルト』の存在を暗喩している)させて頂くならば、批評家を全くの他者として扱わず、乗り越えるべき対象として扱うのが当然であるという問い立ては、批評における悪習であり、理想的批評への止揚という一元性の希求の元に、本来多様で活力を秘めてあり得る批評の可能性を排除するような思考を推奨している。このような態度はまた、批評=危機から遠ざかり可能な同一性として批評家を扱い消化することで、批評=危機の未来をより危うくしており、継承すべきではない。

 

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